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渡部真【勝手気ままに】Vol.25「突然ですが、浅草を紹介します〜その2」
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渡部真【勝手気ままに】Vol.25「突然ですが、浅草を紹介します〜その2」

2013-08-30 23:34
    ※今号は無料公開版(プレゼント応募方法は除く)です。
    石のスープ
    定期号[2013年8月30日号/通巻No.89]

    今号の執筆担当:渡部真


    渡部真 連載コラム【勝手気ままに】vol.25
    「突然ですが、浅草を紹介します〜その2」




     5月の記事(通巻No.79)で浅草について紹介し、「次号へ続く」としながらサボっておりまして、スイマセンでした。
     すっかり間が空いてしまったのですが、今回は「その2」。
     →※「突然ですが、浅草を紹介します〜その1」はこちら←

     *  *  *  *  *  *

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    ■東京大空襲による戦災被害

     前回の記事でも少しだけ触れたが、浅草は、太平洋戦争による戦災の影響が大きかった。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、アメリカ軍の空爆によって壊滅的な被害を与えられた。
     浅草は、浅草寺を中心とした寺町であると同時に、繁華街、観光地、問屋街など商業地、そして多くの職人などが住む住宅地だ。当時、町の表通りは多くの人で活気に溢れ、路地に入れば多くの子供達を含めた家族の暮らす営みがあった。そんな町の空に、アメリカ軍の空爆機「B−29」が現れ、時計の針がちょうど10日に変わった頃、夜中0時過ぎに空爆が始まった。

     筆者の母親は、浅草から隅田川を挟んだ墨田区向島の小学生だったが、大空襲の日は千葉県市川市の親戚の家に疎開していた。夜中に空爆が始まったと聞き、江戸川の辺りまで見に行ったが向島や浅草の方角が真っ赤に燃え上がり、未明の時間とは思えないほど明るい空で、避難する人達が次々と江戸川を越えてきたのを目撃したという。
     その母の父、つまり筆者の祖父は当時、都電向島停留所の目の前で「向島百貨店」という、今で言えばコンビニエンスストアのような店を営んでいた。地域の消防団の団長でもあり、家族や店を放り出して、火災の鎮火や住人の避難誘導などをしていた。アメリカ軍は、午前2時半頃には退去したが、その後、長屋など木造建築が密集した浅草や向島は火災が途絶えず、わずかな消火活動は全く間に合わず、10日の夜まで火災は続いた。その祖父が、生前、隅田川に浮かんだ死体の山の事を話してくれた事がある。翌11日の隅田川は、水が堰き止められてしまうほど広い川幅いっぱいに死体が溢れた。その時の死体が焼けこげた匂いは、戦後30年近く経ったその時も忘れられないほどだったと話していた。

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    [キャプション]隅田公園の言問橋西詰ちか
    くにある「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」 

     浅草区の死者は約1万人、焼失家屋は3万戸と言われている。浅草のある現在の台東区(当時は下谷区と浅草区)は、東京のなかでもっとも被害の大きかった地域だ。1940年(昭和15年)当時、460,254人(101,273世帯)が暮らしていたとされている。しかし、45年6月には、96,932人(17,144世帯)と激減している。死者・行方不明者だけでなく、避難した人を含めた数字だが、空襲後には、およそ20%程度しか台東区の住民が残っていなかったということだ。
     なお、東京全体では、東京大空襲によって8万3793人が死亡した。たった一度の単独空襲による被害としては、史上最大規模の空襲だった。こうした、軍事施設や戦闘員ではなく、民間人を大量に殺戮していくアメリカ軍の徹底した戦闘手法は、現代も続いている。

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    [キャプション]焼け野原になった浅草。真ん中の大きな
    屋根が東本願寺。左下から中央の方向に斜めに伸びている
    広い道路が、今の合羽橋道具街の通りになる。右端中央の
    やや上にある白い建物が国際劇場だというから、写真には
    写っていないが、国際劇場のさらに右側(東側)に本堂ま
    で焼失した浅草寺が位置している(写真はリンクから)
     

     戦後、疎開や戦地などから引き揚げてきた人達を含め、上野を中心に台東区は家のない人が溢れた。しかし、向島で店を再開した祖父もそうだったが、浅草の人びとも、そうした壊滅的な被害から前向きに立ち直っていった。焼け野原にバラック小屋を建てたり、何とか木材を揃えて仮設店舗などを作り始めた。終戦翌年には「下谷浅草復興祭」が開かれたと言う。浅草寺の本堂再建が1958年(昭和33年)で、この時で浅草の戦災の復興はほぼ終わったと言っていいと思うが、この頃の浅草は、すでに繁華街として大変な賑わいを見せていたという。


    ■戦時下の過ちを忘れないために残る「はなし塚」

     こうした戦争の爪痕は、現在も浅草周辺にいくつも残されている。
     浅草寺だけでも、戦災をくぐり抜けて生き残った樹齢850年の神木「戦災公孫樹」(イチョウの木)をはじめ、浅草大平和塔、平和の時計、平和地蔵尊、母子像地蔵尊などがあり、浅草寺の境内以外にも、浅草周辺には平和を祈願するものが数々と点在しているのだ。

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    [キャプション]左上から時計回りに、浅草大
    平和塔、平和の時計、平和地蔵尊、母子地蔵尊


     東京メトロ銀座線「田原町」駅近くの本法寺に「はなし塚」が建立されている。

     この塚が建立されたのは1941年(昭和16年)10月。年末の12月8日に開戦する太平洋戦争へと突き進む直前だった。
     この頃、演劇、映画、音楽、落語、講談など、ありとあらゆる芸能団体は、その演題種目について自粛を強いられていた。芸能に関わらず、出版や報道など情報産業も同じで、あらゆる表現活動が政府によって厳しく監視されていた。政府にとって都合のいい「理想的な道徳観」を国民に押し付け、それに合わないものは「時勢に適合せず」という評価になった。
     こうした規制は、一部、明治時代からあったものだが、日中戦争が膠着し、太平洋戦争へと突入していく頃には、規制が強化されていき、多くのエンターテインメントやメディアは、戦時体制の大日本帝国政府に協力して生き延びるか、協力する事を拒み表現を束縛されるかを選択させられた。
     そして、多くの“表現者”たちが戦争に加担させられていった。

     余談だが、筆者の母方の祖父の話は前述したが、父方の祖父はこの当時、戦争を反対し続けており、何度か警察に捕まり拷問を受けた。その事を話すと長くなるので改めて書きたい。
     いずれにしても、自由な思想を持ち、自由に表現することが許されない世の中だったのだ。

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    [キャプション]長瀧山・本法寺(東京都台東区寿
    2-9-7)の境内に建立されている「はなし塚」

     落語界は、こうした国家権力による監視の中で、あらゆる落語の演題を甲乙丙丁の4種に分類し、「丁」種には時局にあわないものとして合計53種を選び、「禁演落語」として発表し、自粛の姿勢を示した。吉原を舞台にした「廓噺」、現代のテレビでも自粛するようなお色気たっぷりの「艶笑噺」、そのほか、浮気な女房と亭主の関係を滑稽に描いた夫婦もの、女性の嫉妬心が元ですったもんだのある噺、若者と娘が“不純”な関係になったり駆け落ちしたりする噺……、この中には『明烏(あけがらす)』『五人廻し(ごにんまわし)』『木乃伊取(みいらとり)』など今でも人気の演目が含まれており、こうした演目は、高座で聞けなくなってしまったのだ。
     「はなし塚」は、これら名作と落語界の先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等などが納められた。
     後に“昭和の名人”と呼ばれる古今亭志ん生や三遊亭圓生が、落語慰問として満州に訪れたのは有名な話だが、落語界からもいろいろな形で協力を強いられたのだった。

     今風な言葉でいえば「空気を読む」というわけだが、世の中の空気を気にしすぎて思考力を低下させ、日本全体が戦争へと突入していった事が伺える。当時の新聞などが最たるものだが、消極的に協力するのではなく、積極的に戦争へ協力していこうという動きもあった。
     「禁演落語」も、過剰とも思えるほどに反応し、自粛の必要性をあまり感じない演目まで含まれている。とはいえ、検閲で当時の政府に睨まれては興行をさせてもらえず、収入を得ることができなくなってしまうエンターテインメント業界としては、やむを得ない選択だったのだろう。「権力による規制」は、あらゆる表現を萎縮させてしまうものだ。落語や歌舞伎などの大衆娯楽は、江戸時代から政府の規制を受けており、それでも跳ね返してさらに発展してきた歴史があった。しかし、太平洋戦争時の規制は、それすら許されなかったのだ。

     戦後、「禁煙落語」は解かれ、46年9月に、はなし塚の前で復活祭が行われた。しかし、演目が復活した後も、「禁演落語」という恥ずかしい過去を忘れないよう、「はなし塚」は当時の面影のままに残っている。


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    [キャプション]本法寺の外壁

     「はなし塚」が建立されている本法寺の外塀には、落語家をはじめとした寄席芸人、定席の席主など、演芸関係者たちの名前が、赤い文字で掘られている。文楽、志ん生、圓生、三木助など昭和の名人から、僕の好きな馬生、色物の江戸家猫八や染之助・染太郎らの名前も見られ、落語・演芸ファンには少し嬉しくなる壁だ。
     禁演落語が復活して約8年後の1954年(昭和29年)、落語関係者たちが外塀を寄贈した。当時の関係者たちのなかでは、「禁演落語」に対する後悔の念がとても強かったと言われるが、その気持ちを後世に残そうということらしい。本法寺で聞いた話によると、外壁の寄贈は先々代のご住職の時代の事であり、当時の記録がなく詳しい事は分からないということだった。

     日本でもっとも平和について語られる8月なので、今回は、戦争の爪痕という視点で紹介してみた。浅草散策の際は、平和について意識してみると、また違った景色が見えると思います。


    ■浅草の夏の最後を彩るサンバカーニバル

     浅草について、もう一つ紹介しておく。
     明日8月31日、「浅草サンバカーニバル」が開催される。1981年(昭和56年)から開催され、今年で32回目となる。

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    [キャプション]雷門前のサンバカーニバルの様子

     最初は「なぜ浅草でサンバカーニバル?」と思ったものだが、今ではすっかり定着した。今から4年前、浅草観光連盟の元会長・永野章一郎さんに、81年当時の事を聞かせていただいた。

     「今も昔も三社祭が浅草の行事の中心です。今では三社祭の5月を中心に、季節ごとに様々な行事が行われるようになりました。しかし当時は、7月のほおづき市が終わると、夏の行事ってほとんどなかったんですよ。当時、私は浅草商店連合会の事務局にいたんで、何とか夏の浅草に大きな行事をやって、お客さんを呼び込みたいって話をしていたんです。そしたら、当時の台東区の区長である内山榮太郎さんが、喜劇役者の伴淳三郎さんに相談したらしく『伴淳さんがサンバなんていいんじゃないか?って言っている』って言い出したんですよ。三社祭の熱狂的な興奮が、地球の裏側のブラジルで行われているサンバに似ているんで、浅草に合うんじゃないかって」

     内山元区長や永野さんは、それからブラジルまで本場のリオのカーニバルを見に行ったり、テレビ局に協賛を持ちかけたりするなどご苦労をされて、何とか開催にこぎ着けた。その甲斐あってか、第1回目の開催から30万人の観客が集まったという。当時は、日本人のなかでサンバカーニバルを理解している人なんてほとんどおらず、手作り感の溢れるサンバカーニバルだったそうだ。
     いまでは、本場ブラジルに次いで、世界で2番目に大きなサンバカーニバルと成長し、本格的なサンバが見られる一大イベントとなっている。


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    [キャプション]サンバカーニバルのベーシックな構成

     上の図版は、浅草サンバカーニバル実行委員会にご協力いただき、パレードの構成をデザインしたものだ(写真は実行委員会提供)。サンバカーニバルは、複数のパートに分かれた隊列が組まれているのだが、その隊列には重要な意味がある。サンバを見に行く際に参考にしてほしい。

     浅草サンバカーニバルは、S1クラスとS2クラスにわかれ、今年は合計19組が参加する。今年、9回目の出場でS1クラスに昇格したICUラムズに所属する増田菜穂子さんは、学生時代からサンバを始め、ブラジルで開催されるリオのカーニバルも観に行った。

    「サンバカーニバルは、ポルトガル語で『ヂスフィーレ』と呼ばれます。『動くオペラ』という意味です。いくつものパートに分かれるパレードの隊列が、一つのドラマとして繋がっているんです。明るい曲を聴きながら、そんなドラマを楽しんで見に来てほしいです」

     現在は、就職で東京を離れて暮らしているが、上京して今年のカーニバルにも出場するそうだ。

     お知らせが直前になってしまったが、時間があれば浅草に足を運んでください。
     なお、明日の浅草の天気は晴れ、最高気温35度という予想です。毎年の事ですが、サンバカーニバルは炎天下で行われるので、帽子などをかぶり、暑さ対策をされる方が良いと思います。


    ■「浅草においでよ!」平成25年版が完成

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     浅草商店連合会が発行する『浅草においでよ!』というフリーペーパーが完成し、今日あたりから、浅草の観光案内所や行政施設、または1400店もの浅草各店に置かれている。

     そのなかで、「浅草は 年がら年中 参拝日」という特集記事で企画・執筆・撮影を担当している。8年前から毎年、特集を担当させてもらっているが、今回は、企画会議のなかで「浅草に観光できてくれる人達は、浅草寺には参拝するけど、意外とほかのお寺さんや神社に行かないで帰る人が多い。浅草は寺町で、いつ参拝に来ても、ご利益がある。江戸から昭和初期の江戸・東京で暮らす庶民にとって、浅草は歓楽街でもあったけど、むしろ寺町として参拝に来るところだった。改めて、そういう紹介ができないだろうか」という声が上がり、それを受けて企画した。

     浅草寺、浅草神社、待乳山聖天をはじめ9つの寺社の紹介や、「浅草名所七福神詣」などの記事と写真を提供している。

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     観光案内所などでは無料でもらえるので、浅草に来た際はぜひ手にしてください。最低でも年内は、残るときは来年の夏まで配布されていると思います。

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    [キャプション]雷門前にある「浅草文化観光センター」。
    『浅草においでよ!』はここでも配布されている    
     
     
     *  *  *  *  *  *

     ということで、突拍子もなく浅草を紹介する企画「その2」でした。
     今後も、折りをみて浅草の事を紹介したいと思います。

    【参考文献・資料提供】
    総務省一般戦災ホームページ
    http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/index.html
    浅草の風
    http://asakusa.typepad.jp/2007/
    浅草サンバカーニバル実行委員会
    http://www.asakusa-samba.org/
    台東区教育委員会
    http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/bunkazai/index.html
    【「禁演落語」全53題一覧】
    「明烏」「栗餅」「磯の鮑」「居残り佐平次」「氏子中」「お茶汲み」「おはらい」「お見立て」「親子茶屋」「紙入れ」「蛙茶番」「首ったけ」「廓大学」「後生鰻」「五人廻し」「駒長」「子別れ」「権助提灯」「三助の遊び」「三人片輪」「三人兄弟」「三枚起請」「品川心中」「白木屋」「せんきの虫」「紺屋高尾」「辰巳の辻占」「付き馬」「突き落とし」「搗屋無間」「つづら」「つるつる」「とんちき」「二階ぞめき」「錦の袈裟」「にせ金」「白銅」「万歳の遊び」「一つ穴」「引越しの夢」「ひねりや」「不動坊」「文違い」「坊主の遊び」「庖丁」「星野屋」「木乃伊取り」「宮戸川」「目薬」「山崎屋」「よかちょろ」「悋気の独楽」「六尺棒」

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    [資料]浅草催事スケジュール
    (『浅草においでよ!』平成25年度版より)
     

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    ■お知らせ
    「風化する光と影」の発行人・太田伸幸さんが、新しい本を上梓されました!

    竜二漂泊1983
     〜この窓からぁ、なにも見えねえなあ

    著 者:谷岡雅樹
    発行元:E-lock.planning / 販 売:三一書房
    版 型:四六判408ページ 上製本
    定 価:2,600円+税
    アマゾンにジャンプ→ http://p.tl/gNEM

    『竜二』は最後の孤塁であった。
    あの映画はいったい何だったのか……。現在も語り続けられる『竜二』の伝説。
    その系譜を「俺たちの旅」「とんぼ」に辿りながら、1983年という時代の熱を活写する。

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    1983年、一本の自主制作映画が、日本の映画界を震撼させた。『竜二』は、金属疲労を起こしていたそれまでのヤクザ映画を過去の遺物にし、新しい風を巻き起こしながら、ヤクザ映画に見向きもしなかった層からも熱狂的な支持を受ける。しかし、撮影時からガンを患っていた主演、脚本の金子正次は、公開の最中に世を去り、たった一本の映画と共に伝説となった。
    本書は、突然現れた奇跡のような作品を通じて、映画と、あの時代の熱を活写すると共に、幻の「吉田監督版」と完成版(川島透監督)との比較を通じて、『竜二』の何が新しかったのかを子細に浮かび上がらせてゆくだけでなく、現在の映画・芸能界と市民社会を挑発する「最後の映画評論家」谷岡雅樹、渾身の檄文。


    ■編集発行人・太田伸幸さんからのメッセージ

     谷岡との出会いは十年ほど前に遡る。当時、俺は自らが発行人を務めていたデコトラ雑誌に「ヤンキーテイスト」溢れる読み物企画が欲しかった。
     たまたま書店で手にしたのが「哀川翔鉄砲弾伝説」だった。もともと哀川翔のVシネマシリーズのファンだった俺は、ページをめくって驚いた。哀川翔の映画本ではなかった。
     谷岡雅樹という「映画評論家」らしき男が、哀川翔を通じて自分を語り、時代を語り、Vシネマというジャンルの悲喜こもごもを語り、読者を、世の中を挑発していた。

     俺と同じ名前の版元に電話を入れると、当時の社長が快く谷岡を紹介してくれた。
     数日後、初めて上野で会った谷岡は、文章そのものの「熱い」男だった。会話の中で『竜二』が何度も登場したのを覚えている。谷岡の連載「Vシネ血風録」がスタートした。

     いわゆる映画業界というムラ社会の中で、谷岡の立ち位置は異彩を放っている。この本も同様だ。
     『竜二』が世に出た1983年の時代の熱を、映画からあらゆるジャンルに広げて切り取り、谷岡自身の吐き出しきれない情念と、『竜二』と出会ったあの日から抱え続けてきた苛々の正体を探り、言語化してゆく旅の記録……と言ったらいいだろうか。
     映画評であり、エッセイであり、ルポルタージュであり、何よりも、あの日の「熱」を失ってしまった映画界への、市民社会へのアジテーションである。
     ぜひ、この「熱」に触れて欲しい。
     
     *  *  *  *  *  *

     渡部です。
     ということで、太田さんが発行人となっている「竜二漂白1983」の紹介でした。
     映画『竜二』は、僕にとっても強烈な映画でした。まだ中学生だった僕は、忌野清志郎を始めとする先輩達に憧れ、そんな恰好良い大人になる事を夢見ていた時代ですが、金子正次も、間違いなく僕が憧れた大人の一人でした。

     余談ですが、太田さんとは、年内にも『風化する光と影』を電子書籍化しようという話になっています。また、これは太田さんにお願いできるか決まっていないのですが、来年には「石のスープ」のメンバーの執筆で『風化する光と影』の続編を出版したいと考えています。
     そんな事も含めて、ぜひよろしくお願いします。


      
    渡部真 わたべ・まこと
    1967 年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執 筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。震災関連では、「3.11絆のメッセージ」(東京書店)、「風化する光と影」(マイウェイ出版)、「さよなら原発〜路上からの革命」(週刊金曜日・増刊号)を編集・執筆。
    [Twitter] @craft_box
    [ブログ] CRAFT BOX ブログ「節穴の目」



    ■9月4日(水)発売
    『半七捕物帳〈年代版〉』第5巻
    謎深き幕末江戸の事件――腕を組む半七

     
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    著 者:岡本綺堂
    発行元:まどか書店
    版 型:四六判336ページ 上製本
    定価:1,600+税
    → アマゾンにジャンプ ←
    http://www.amazon.co.jp/dp/4944235674/

    激動する幕末の江戸を舞台に、難事件や奇怪な事件を解決する岡っ引きの半七が活躍する岡本綺堂の傑作時代小説の「半七捕物帳」。いわゆる「捕物帳」のパイオニアとしての作品で、短編推理時代劇です。
    著 者である岡本綺堂は明治初年の生まれ。江戸を肌で知る人達のなかで育った故、『半七捕物帳』は江戸の情緒を豊かに感じる時代小説として、今も多くのファン がいるのです。この〈年代版シリーズ〉は、各編を事件発生順に収録しました。江戸の絵図、註釈、年表、舞台となった場所の現在の写真などを添え、半七が生 き、躍動した江戸を浮かび上がらせます。散見される多くの難読字にはルビをふり、読みやすさも考慮しています。
    渡部真が、本シリーズ全巻の装幀デザインを担当しています。また、3巻〜4巻では編集も担当。原作各編が読みやすくなるように解説や資料などを加えています。第5巻では、装幀、本文組版、一部の写真撮影などを担当しています。
    短編集ですからどの巻から読んでも、気軽に読めます。ぜひご一読よろしくお願いします。



    ■渋井哲也 好評連載中
    ジョルダンニュース!「被災地の『記憶』」
    http://news.jorudan.co.jp/

    ニュースサイト「ジョルダンニュース!」では、渋井哲也さんが東日本大震災の取材報告をしています。最新第47回は、「猛暑の中、遺体捜索ボランティアを続ける人たち」というタイトルで、7月に行った福島県南相馬市での取材報告です。
     


    ■10月26日(土) 渋井哲也講演会

    フォト+トーク
    「被災地の記憶ー私が見た東日本大震災」

    http://gokafa.blogspot.jp/2013/08/1026.html?m=1
     
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    日 時:10月26日(土)14時〜16時(開場13時30分)
    会 場:東京経済大学 2号館 3階B301
    主 催:東京経済大学「五感とファインダー×東日本大震災」委員会
    問合せ:東京経済大学コミュニケーション学部
        川浦康至研究室(ykawa [at] tku.ac.jp)
        または広報課(042-328-7724)
    申込み:事前の申込みは不要/定員400人

    渋井哲也さんが、これまでの取材成果について写真とトークで報告する講演会です。
     


    ■あまちゃんファンブック〜おら、「あまちゃん」が大好きだ!

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     ◆8月27日発売/扶桑社
     ◆A5版176ページ/1470円

     『石のスープ』編集部では、定期購読者の皆さんに、「あまちゃんファンブック」と、先日の久慈取材のお土産「まめぶ汁」セットにして、合計3人の方に抽選でプレゼントすることになりました。ぜひご応募ください。

     希望者は、下記にお知らせする方法にてご応募ください(プレゼント応募には、定期購読申し込みが必要です)。
     応募期間は8月29日〜9月7日。その間に配信する記事の中でも応募要領は掲載しますので、もし9月になってから「石のスープ」を読み始めた人でもご応募いただけます。

     
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