裸の王様からキングへ 三浦知良
日本初のサッカー専門店「サッカーショップ ゴール」の創業者は納谷宣雄だ。諸説あるかも知れないが、野球用品をつくっている浜松の工場を訪ね、サッカー用のパンツ、ソックスをつくらせ店頭で販売した初めてのショップの一つと言えるだろう。
企業が所有するのではなく、特定の企業に依存しないサッカークラブの先駆者的存在である「静岡クラブ」を立ち上げたのも同氏だ。1968年からテレビ東京系で放送されていた世界のサッカーを紹介する「ダイアモンドサッカー」に初めて南米の試合映像を売り込み放送させたのも、1985年のキリンカップにサントスFCを日本に招へい、サンパウロ州サッカー協会の国際担当理事となったのも同氏である、三浦知良の父親だ。
この様に、日本サッカーとブラジルのパイプをゼロから開拓してきたパイオニアがカズの父親だ。その破天荒な人生は、賛否両論あるだろうが、カズに多大な影響を与えているのは間違いないだろう。
納谷宣雄は、日本人離れした豪快さがあった。日本人をブラジルへサッカー留学させる斡旋業を営んでいた際に、留学生が400万円の現金を振り込まずに持ってきてしまったことがあった。現金を受け取った納谷宣雄は空港で係官に呼び止められ、後に無罪判決を受けるのだが外為法違反の疑いで留置所に入れられてしまった。
留置所である男に声をかけられた。「お前、日本人か」「ああ、そうだ」「怖くないのか」男に聞くと、日本の旅行社の人間が、ブラジル人ダンサーを日本に連れて行こうとして見つかり、ここに入れられたことがあった。彼は、同室の人間に襲われるのではないかとおびえて、ずっと泣いていたという。ここで言い放った納谷宣雄の冗談から、彼の豪快さが窺い知れる。
「俺は大丈夫だよ。日本でも2人殺して、10年入っていたことがあったからな」
この様な、日本人離れしたパイオニア精神、豪快さを受け継ぎ、サッカー界のために良い方向に使ったのがカズである。
1967年生まれのカズの日本人初の偉業には枚挙にいとまがない。15歳で単身でブラジルに渡り、ブラジル選手権に日本人として初めて出場した。日本人初得点もカズである。ブラジル代表揃いの当時のブラジルでサッカー専門誌「プラカー」の年間ポジション別ランキングで左ウィングの3位に選ばれた。名門クラブの一つであるサントスFCでレギュラーポジションを確保し、サッカー専門誌「プラカー」の表紙を飾るまでになったのだ。
その後、日本に戻り、当時のヴェルディ川崎を初代Jリーグチャンピオンに導き、初代MVP、アジア年間最優秀選手賞を獲得した。
アメリカW杯予選でのドーハの悲劇後の1994年には、イタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付き移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。シーズン終了後はヴェルディ川崎に復帰し、1996年にはJリーグ得点王に輝く。
しかし、ヴェルディ川崎は親会社の撤退のため、高年棒のベテラン選手のリストラを敢行し、カズに対しても年棒ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍した。1999年に京都パープルサンガに移籍し、32歳ながら17得点を記録しランキング3位に入るなど活躍したが、チームはJ2降格し自身2度目のゼロ円提示を受ける。
そこから、ヴィッセル神戸、横浜FCと移籍する。横浜FCに移籍間もない11月にオーストラリアAリーグ、初のゲストプレイヤーとしてシドニーFCに期限付き移籍した。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決で2得点と活躍しポジションを確保した。FIFAクラブ世界選手権にも2試合フルタイム出場し日本人初の出場と選手になった。そして、国際Aマッチ55得点は歴代2位、2013年現在も現役選手を続け、Jリーグ最年長得点記録を更新している。
この様に、常に挑戦し続け日本サッカーの歴史を切り開いてきた唯一無二の存在であることは間違いないだろう。サッカー後進国であった日本のパイオニアとして並々ならぬ苦労、栄光から挫折への転落、日本サッカー界への貢献の大きさなど全ての要素が集結し、キング、カズと呼ばれている。
カズは最初からキングであった訳ではない。少年時代には、ジュニアユース、静岡県選抜すら選ばれていない。この様に才能に溢れていたとはいえないのだ。しかし、サッカーに対する想いでは誰にも負けていなかった。
中学時代、担任教師である海野実氏がしゃべっている最中に、カズが教室の中央でサッカーボールを投げ上げた。海野氏がそのボールをゴミ箱に投げ捨てた際にカズはこう言ったのだ。「何をするんだ。サッカーボールは僕の命だ」
才能には恵まれてはいなかったが、サッカーに命をかける程の情熱を持っていたのだ。その情熱は高校生になっても衰えず、当時はほとんど前例のなかったブラジルへの単身サッカー留学へと突き進む。県選抜すら選ばれないカズがサッカーの本場、ブラジルでプロになるとは誰も思わなかっただろう。
事実、ブラジルでの留学生活は簡単ではなかった。インタビューでこう答えている。
―喧嘩とかイジメとかはなかったんですか。
「ありましたよ。モノも盗まれたりするし。バカにしてくるやつはしてくるし。お前らみたいな裕福な国から来て、俺たちは貧しいんだ、お前らは趣味でやっているんだろうっていうのはありましたよ。日本なんかサッカーがあるのかって本当に言われてましたし、ユニフォーム着て立つだけで、周りの人は笑いましたからね。ボールを蹴る前ですよ。その姿でいるだけで。指さされて。そうすると、それだけでプレッシャーで、プレーができなくなってしまうんですね」
サッカー留学に来ているにも関わらず、ユニフォーム姿だけで笑われてしまうのだ。モノは盗まれ、言葉は通じず、サッカーをプレイする前に15歳のカズには堪え難い苦難が待っていた。しかし、1983年、ブラジルに渡った直後の手紙でこう綴っている。
「やっぱり、プロになるのはむずかしい。100%無理かもしれない。でも、可能性が少しでもあれば俺はがんばる」
15歳で裸一貫で渡航した少年は、どうにか逆境を乗り超えブラジル生活にも慣れていった。しかし、日本に帰りたいという寂しさはそう簡単には消えることはなく、カズの評判を聞いて留学してきた日本人と密かにサンパウロの日本人街に来るようになった。父である納谷宣雄の耳にも入った。納谷宣雄は、カズの日本を懐かしがる弱さが許さなかった。
カズを捕まえ、「なにをしているんだ。お前は」と10分ほど殴り続けた。納谷宣雄はさすがにやりすぎたと、カズに手紙を書いた。
「俺の命はお前にやる、俺はいつもそのつもりだ。父親が子どもを殴る気持ちをわかって欲しい。お前のためを思って殴ったんだ」
しばらくしてカズから返事が来た。
「父さん、俺が悪かった。もう一度、死ぬ気で練習する。人の3倍努力して、プロになる」
それから、納谷宣雄はカズに手を上げることはなかった。
事実、カズの練習量は周りの目を見張る程であった。ブラジル名門クラブであるサントスFC時代に同僚であった元ブラジル代表のストライカーで82年ワールドカップにも出場しているセルジーニョ・シュラッパはこう言っている。
「あのころ、お前はまだ若かった。20歳かそこらだろ?でも、意識は本当に高かった。俺は覚えている。お前がフィジカルを一生懸命鍛えていたことも、一人残ってフリーキックやクロスの練習をしてたことも。お前があんまり熱心にやるもんだから、他の選手も刺激を受けちゃってな。当時一緒にやってたドゥンガより練習するヤツって評判だったぜ。俺が一旦サントスを離れて90年にまた戻ってきた時、お前はすでにブラジルのどこに行っても、レギュラーを張れる力を身につけていた。でも、俺はもう驚かなかった。あれだけやってりゃ当然だって思ったよ」
ジェノア時代の監督でミランなども率いたジェゼッペ・マルキオーロもこう語っている。
「この私にとってフィールドに立つ資格を持つ選手とは、仲間のために走ることを厭わない者に限る。年間20ゴールを決める能力を持つ選手は、往々にして他者のために自らを犠牲にはできない。
だけど、真の一流選手ってものはそうじゃない。エゴを封印し、年間10ゴール程度に留まろうとも、その分をチームのために走ろうとするものだ。果敢に走ることを知る者は、一方で同じように走る者への労わりの心があるから、必然的にパスの質も他との違いがあるものだ。そういう心あるパスを送れる者こそが、私の言う本物のプロということになる。
カズはその点、本物だった。私は70年代にACミランの指揮を執っていて、あのジャンニ・リベラやファビオ・カッペロらを指導していたんだが、カズのプロ意識は彼らと同じか、もしくはそれを上回るほどのものだった。使い古された言い方だが、練習場に誰よりも早く現れ、そして誰よりも遅く去る。あの1年、君はずっとそうだった」
2010年、43歳のシーズンはカズにとって不本意なものだった。全36試合で188分しか出場できなかったのだ。しかし、その本当に限られた出場機会の中で3得点決めている。試合勘を保てない中では驚異的な決定力と言えるだろう。支えたのは、やはり日々の練習に対する取り組みだ。
「(188分で3得点)この決定力に話題が及ぶとカズは何か持っているとよく言われるけど、持っているからじゃないんだ。この1年、試合形式の練習は僕にとっての公式戦だった。試合前日でもメンバー外の選手と球を追った。調整と思って臨んだ練習なんて一度もない。グラウンドでの一瞬一瞬、僕は本番をプレーしていた。それが最後に最高の90分をもたらしてくれたと信じている」
40歳を超えてからも、練習であっても本番と同じように全力で向き合う真摯な姿勢がカズがキングたる所以だろう。
しかし、そんなキング・カズでさえも、天狗になり裸の王様であった時期がある。Jリーグがスタートし、まさにJリーグの象徴としてスター街道を突っ走っていた頃の話だ。マスコミなど日本全国から注目され、待遇も王様だった。1998年に親会社である読売新聞社の撤退で赤字縮小の任を担った当時の経営トップ坂田信久氏はこう言っている。
「6億円はいっていないね。具体的な金額は言えませんけど。ただ、次のシーズンはカズ一人分で全選手の年棒は賄えました」
クラブ全選手を賄える位の年棒を稼ぎ、まさに王様対偶だったのだ。フリーライターの海江田哲朗氏の記事にはこう記されている。
数年前、私は東京Vのスタッフからこんなことを聞いている。
「Jリーグバブルで人気絶頂の頃は、クラブハウスで面と向かって挨拶しても知らんぷり。こちらが頭を下げる横をすっと素通りし、まるで人を人とも思わないような態度でした。そのカズさんが変わったのはイタリアから帰ってきてから。日常の挨拶はもちろん、飲み物の頼み方から接し方まで別人のように優しくなった。あまりの急激な変わり様にみんなびっくりしていましたね」
前出の経営トップ坂田信久氏も証言している。
「そういった話は多くの人から聞きますね。94年途中のジェノアへの移籍は、自分でスポンサーを付けて行ける環境を作り、向こうから熱望されてのものではなかったから苦労したと思う。ケガで十分にプレーできず不本意だったろうけど、彼の人生にとっては非常に有益だったのでは」
海外でプレーする厳しさを身を持って体験した元チームメイトの武田修宏氏もこう言っている。
「つらい思いをたくさんしたんだと思いますよ。ジャポネーゼめ、何しに来やがった、日本に帰れバカヤロといった罵声を山ほど浴びたと聞きます。カズさんに限らず、海外に出ると尖っていた部分がいい意味で丸くなるものです」
人種差別が根強くあるイタリアにおいて、アジア人初のセリエAプレイヤーとなったカズの受けた苦労や屈辱は想像を絶するものだったであろう。日本では王様だったにも関わらず、人として堪え難い罵声を浴びせられ、邪険な態度をとられるのだ。日本帰国後から、周りに対する態度が急変したのも納得がいくだろう。
特に、若手や外国人プレイヤーに対する心遣いは、カズの器の大きさを否応なく感じさせる。
1998年に京都パープルサンガに入団しカズと出会い、2000年に韓国、城南一和、2003年からヴィッセル神戸、韓国代表でも活躍した朴康造はこう言っている。
「韓国で二軍落ちした時、毎日がツラくて、本気でサッカーを辞めたいと思いカズさんにメールすると、こんな返事をくれましたよね。辞めるな。俺がついてるから日本に帰って来ればどうにでもなる。だから心配しないで、がんばれるだけがんばれと。それを見て、寮で号泣したことを思い出します。今思えばあのとき辞めなくて本当によかった」
「がんばれ」と励ますだけなら、誰でもできるだろう。しかし、カズは日本に帰ってくれば、自分がどうにか面倒をみるから、できるだけ今の状況で頑張れるだけがんばれと言ったのだ。口だけではなく、面倒をみる覚悟を朴康造に伝えたのだ。若手サッカー選手にとってこれほど、心強いものはないだろう。
京都パープルサンガからオランダPSV、イギリス、マンチェスター・ユナイテッドと華麗なキャリアを積み上げてきたパク・チソンもカズに心頭する一人だ。
自身の自伝においても、ホン・ミョンボ、ファン・ボメル、キム・ナミル、イ・ウンジェ、ロイ・キーン、ギャリー・ネヴィルとならび、自身が尊敬するリーダーとしてカズをあげている。特に、京都パープルサンガでのデビュー戦での配慮に今でも感謝しているという。
「霧雨が降っていた。00年6月、西京極総合運動公園陸上競技場。かなり緊張していた。当時のチームの主将、三浦知良選手から聞かれた。FWはどうやって動けば、パスしやすい?入団したての鼻たれ小僧にそんな配慮をしてくれる。カズさんの言葉のおかげで試合前の緊張はかなりほぐれた」
こうも語っている。
「誰よりもトレーニングに集中し、熱意があって献身的だった。青二才のことも尊重してくれた。驚いたのは、あれほどの選手でありながら、選手寮の一階に住んでいたということ。若手をいい意味で引き締める寮長のような存在でもあった。そのカリスマ性には、いまでも追いつけないと思う」
外国人だけでなく、サッカー界の将来を担う日本人若手選手への心遣いも忘れてはいない。セレッソ大阪に入団しJ2で得点王、ブンデスリーガ―、ボルシア・ドルトムントではリーグ2連覇に貢献、世界のトップクラブのひとつであるマンチェスター・ユナイテッドに入団した香川真司にもユニフォームを渡すなど心遣いを見せている。その当時のことをカズはこう述懐している。
「初対戦の時のことは、もちろん覚えている。当時、横浜FCで一緒にプレーしていた山田卓也が香川はカズさんのことが大好きで、ユニフォームをほしがっていましたよと、教えてくれた。僕は正直なところ、香川選手のことはよく知らなかったんだけど、19歳の将来有望なプレイヤーだと評判だったので、あげようかな、ということになった。というよりも、香川選手に受け取ってもらったことになるのかな(笑)」
その他、日本代表においても、呂比須ワグナー、中村俊輔が新たに召集された際には、声を掛け激励している。
裸の王様だったカズは、イタリア・セリエAでの経験以降、国籍や経験、年齢の分け隔てなく外国人、若手などに優しい心遣いを見せ、魅了しているのだ。
カズの本質を端的に表している言葉がある。1994年、ヴェルディ川崎在籍時の発言だ。
「金のためにボールを蹴るのがプロ。夢のために全てを捨てるのもプロ」
サッカー選手で活躍するという夢を叶えるためには、すべてをサッカーに捧げなくてはいけないという、カズの矜持が現れている。実際、シーズンオフの自主練習、シーズン中の練習、練習前のアップまで手を抜かず全力で行う稀な存在がカズだ。練習だけではなく、余計な脂肪のない身体をつくるための食事管理も徹底している。油ものを食べない様に唐揚げの衣を取ったり、カロリーを把握していない食材に出会った時は、栄養士に携帯電話から画像を送り指示を仰ぐなど徹底している。
驚くべきなのが、ここまで徹底して食事管理し始めたのが37歳という事実だ。Jリーガーの引退平均年齢は約26歳だ。37歳で現役を続けているプレイヤーはごくわずかだ。カズは2003年のシーズンが始まった頃から、少しずつ身体が重たくなっていくのを感じだしたという。
「シーズンを戦いながら、あ、このままでいったら、ダメかもしれない、自分のサッカーは終わるかもしれない、と思ったのだ。一言でいえば、アジリティが悪くなっていた。いわゆるキレが落ちていた。自分の肉体のあり方を考える時期、大きな曲がり角にきていたのだ。まもなく37歳を迎えようというときだった」
37歳を直前にし、身体の衰えを感じた場合、ほとんどの選手が引退を考えるだろう。長年のプロ生活で酷使してきた身体と向き合いつつ、いつ現役から退くべきかを念頭におきながら選手生活を続けるのではないだろうか。
しかし、カズの考えは違っていた。金属疲労している身体にムチを打ち、新たに身体づくりに着手したのだ。体重を73キロから69キロに、体脂肪も減らし、体幹トレーニングを取り入れ始めた。体全体の重量を減らし、体幹を鍛えることでキレを取り戻そうとしたのだ。
F1マシーンの様に軽量で頑丈な体につくり替えたのだ。この身体を維持しながら激しい練習を行うには、まさにすべてを捨てなければできないことだろう。運動・栄養・睡眠のバランスが狂えば、たちまち故障につながるので、まさにF1レーサーなみの繊細なハンドルさばき、強靭な精神が求められる。
この様な、全てを捨ててサッカーに打ち込む精神力を30歳を超えて持続することは極めて困難だ。大半のプレイヤーは引退を選ぶだろう。自分で自分の限界を決めてしまうのだ。カズは限界のボーダーラインを考えずに、肉体改造することで37歳での身体の限界を超えていったのだ。そして、2003年から10年後の2013年7月13日、J2第22節栃木SC戦で開始16秒で得点し、最年長得点記録を46歳4カ月7日に更新した。
自ら限界をつくっては、未知の世界を開拓するパイオニアにはなれない。日本サッカー界を背負い牽引してきたカズには限界のボーダーラインは存在しない。
国籍や言葉、年齢などを超えたところで愛され、君臨するのがキング・カズたる所以なのだから。
参考文献
伝説の言葉 蹴音 三浦知良著 ぴあ
カズ語録 三浦知良選 PHP
ラストダンスは終わらない 三浦知良著 新潮文庫
やめないよ 三浦知良著 新潮新書
フットボールサミット 第4回カズはなぜ愛されるのか? KANZEN
「足に魂こめました」カズが語った三浦知良 一志治夫著 文春文庫
ディア・カズ 僕を育てた55通の手紙 三浦知良著 文藝春秋
サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田?カズ?ヒデ?
目次
序章 メンバー落ち
見せかけだけのエゴイスト 本田圭祐
もうビックマウスは叩けない ユニクロ
裸の王様からキングへ 三浦和良
小売の王様 セブン―イレブン
度を超えた成り上がり 中田英寿
すべてはマックのために マクドナルド
ホンダを超えた長友佑都
ビリからトップへ スズキ
ただのイケメン 内田篤人
心もイケメン 京セラ
史上初!選手兼監督で優勝 遠藤保仁
逆境からVへ 無印良品
終章 リスタート
ラストパス
私の新作「サッカー日本代表はドラッカーが優勝させる」
が全国書店・アマゾンで発売されました。
サッカー日本代表をブラジルW杯で優勝させる方法を
ドラッカーが分かり易く説明しています。
アマゾンはこちらから購入できますので
何卒宜しくお願い致します。
今後の予定作
・こんなサッカー日本代表はいやだ編
・サッカー日本代表を優勝させる方法 アニメ編
・サッカー日本代表が一つの会社だったら パロディ編
・サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田・カズ・ヒデ ビジネス編
・サッカー日本代表をつくった言葉
・本田・長友・内田・ヒデ編
・見せかけだけのエゴイスト 本田圭佑
・裸の王様からキングへ 三浦知良
・度を超えた成り上がり 中田英寿
・ただのイケメン 内田篤人
・ホンダを超えた長友佑都
・史上初!選手兼監督で優勝 遠藤保人
その他時事ネタ
著者プロフィール
1976年神戸市生まれ 明治大学農学部卒業後、2009年にチャンスメディア株式会社設立。
代表取締役社長に就任。
最新作は
「サッカー日本代表はドラッカーが優勝させる サッカー馬鹿よかかってこい」(5月16日発売)
著作には「サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田?カズ?ヒデ?」
「脱サラ・独立を絶対に成功させるたった9つのコト」
「介護・教育・ニュービジネスのはじめ方」他
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