2016年5月13日
物語の思想
「物語論」批判
■「僕」「俺」「私」「自分」
これを書くのにあたり、人称について迷った。
なぜならば語るべきストーリーは変わらずとも、人称によって物語というものは変わるからだ。
ここで書かれるものは、問題提起があってそれを展開しある結論へ収斂するストーリーだ。
だがこれを語るとき「僕」であればフラットな物言いで伝わるかもしれないし、「俺」であれば砕けたものいいかもしれないし「私」であれば偉そうな物言いに聞こえるかもしれない。
同じストーリーを語るにしても伝わる物語は人称だけでも変わってしまうのだから。
例えば古典落語について考えると分かりやすいかもしれない。古典落語というモノは、同じテクストを様々な演者が演じるコンテンツだからだ。その中に「芝浜」というテクストがある。これは呑んだ暮れの町の魚屋が芝の浜で財布を拾い、もう働かなくて済むぜ、と歓喜し酒を飲んで寝る。それを妻は機転で財布を隠し、目が覚めた旦那に財布をどこにやった?聞かれると、そんな夢を見たの?と返される「ストーリー」である。
だがこの「ストーリー」を立川談志が演ることで「芝浜」は妻との関係や人生が語られる物語になる。魚屋は妻が隠したことも理解した上で、妻が自分の身を案じて嘘をついてまで隠したと了解するのだ。もちろんそんなセリフは一切ないし元のテクストにもない。
それまでの演者やたの演者による「芝浜」は「妻の一計に騙された男」として「コメディとしての物語」として語られる、語られざるおえない。
なぜなら「芝浜」という「ストーリー」は立川談志という語り手によって、人間を語る「物語」になるからであり、このテクストの冒頭で認証で迷うということはそういうことでもある。
■僕の思想にある「物語≠ストーリー」は「ストーリー」により読み手なり受け手に喚起されるものを「物語」という。
だがこのように”受け手に喚起させる”という考え方は受容理論と混同されかねない。しかし受容理論というのはそもそも理論的破綻している。なぜならば受容理論というのは、「作家」とは全く無関係に「作品(テクスト)」を読む(受容する)ことであり、これは作家が作品に何を書いたかというものを無視し、読者が思ったことがすべてであるという思想である。この考え方は作者より、テクストを読んだ無能者のほうが正しくテクストを理解しているということになる。
受容理論者がよしんば、そうではなく正しくテクストを受け取れる者が、例えば批評家など、が小野テクストを理解するのだ、とすればそれはただの選民思想であり行き着く先はジェノサイドになる。昨今のヘイトスピーチやカウンターヘイトはこの流れの中にあるのがよくわかると思う。サブカルというのは基本この受容理論であるからだ。
では僕の言う「物語の思想」は何が違うのか。