荻上チキの αシノドス
「新しいリベラル」のための月刊誌 “α-Synodos”vol.302(2022/8/15)
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「新しいリベラル」のための月刊誌
“α-Synodos”vol.302(2022/8/15)
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01「ハーバーマス討議理論の限界を超えて――国家の討議理論的構想の覚書」 宮田賢人
宮田賢人 大阪大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。現在、小樽商科大学商学部准教授。専攻は、法哲学を中心とする実践哲学。ユルゲン・ハーバーマスの討議理論およびそれ以後の批判理論の展開にとりわけ関心がある。最近は、討議理論や法理論への現象学的アプローチの可能性を模索中。主要業績として、「ハーバーマス討議理論における実践的判断力の問題とその批判的検討」『阪大法学』第67巻1-2号(2017年)、「ライナー・フォルストの正義論の批判的検討」『阪大法学』第67巻5号(2018年)、「善き生の構想の内在的批判」『法哲学年報 2019』(2020年)、「法的確信(opinio juris)の現象学的解明 」『現象学と社会科学』第5号(2022年)など。
◇序論 ハーバーマス討議理論の限界
現代リベラリズムの最も重要な論客の一人として、ユルゲン・ハーバーマスを挙げることに異論は少ないだろう。「リベラリズム」という語は、その多義性ゆえに、定義が困難な論争的概念である。だが、井上達夫に倣って、それを「善き生の特殊構想が分裂する多元的社会で人々が自ら支持する政治的決定を自己と善き生の構想を異にする他者に対して公共的に正当化【注1】」することを志向する思想と理解すれば、ハーバーマスの討議理論はリベラリズムだと言える。
討議理論の要点は次のようにまとめられる。かつて、われわれの生を規定していた共通の形而上学的・宗教的・伝統的世界観は、現代では喪われ、各人はさまざまに異なる善き生の構想に即して生きている。こうした多元的社会において、人々の要求が衝突し争いが生じたとき、各人は、自由で平等な討議を介して問題の関係者が各々の観点から同意しうる一般規範を同定し、それでもって自らの要求の正当化を試みる。こうした規範的態度を定式化したものが「ありうるすべての関与者が合理的討議への参加者として同意しうるであろう行為規範こそ、妥当である【注2】」という討議原理である。原則として、多元的社会の市民には自己の善き生を追求する自由が与えられ、それが衝突した場合には、この原理を論証手続とする討議を通じて、自らの要求を「自己と善き生の構想を異にする他者に対して公共的に正当化」する。
以上の発想は特定の善き生の構想を特権化しない点で広範な支持を受けうる一方で、その手続主義的性格に由来する空虚性・無力性は批判の的となってきた。例えば、ある論者によれば、「より優れた、ないしは最良の論拠の原理はたしかにつねに一つの解決を可能にするが、しかしより優れた(最良の)論拠は何に基づくのかを、ハーバーマスがまったく示していないのであるから[……] いかなる優先基準も存在せず、それゆえに彼の実践的討議の構成も、結局のところ『空虚な原理』へと行き着く【注3】」。要するに、討議をしましょうと提案するだけでは、空虚であり、多元的社会の争いの解決にあたっては無力だという批判である。
この批判はある点では妥当だが、ある点では妥当でない。それが妥当でないのは、討議理論が依拠する「自由で平等な討議」という理念には、関係者が自らの要求を正当化するには、他者と共有可能な公共的理由を挙げねばならないという一定程度の内実を有した規範的要請がそれ自体で含まれており、その限りで、公共的理由を提示できない要求は妥当でないとして棄却されうるからである。例えば、討議理論を引き継ぎ独自の正義論を構想するライナー・フォアストは、同性婚の合法化要求は理性的には棄却しえない(それを支持する同権原理という公共的理由はある一方で、それを退ける公共的理由を欠く)がゆえに正当化されると主張する【注4】。手続主義批判は討議理論のこうした規範的ポテンシャルを見誤っている。
とはいえ、批判は的を射ている部分もある。なぜならば、対立する関係者の双方が公共的理由を提示しうる場合、討議理論は、どちらが優越するかを、少なくとも理論のレベルで明示できず、また、それにもかかわらず現代社会ではますますそうした諸問題が生じているように見えるからである。例えば、人工妊娠中絶や死刑というお馴染みの問題にくわえ、ヘイトスピーチの規制の是非やソーシャルネットワーキングサービス(SNS)を運営するプラットフォーマーへの規制の是非、国家による文化芸術(特に一部の人々に「不快感」を与える芸術表現)への助成の是非といった、現在の日本でも論争的な諸問題は、それに賛成側・反対側のいずれもが公共的理由を一応は提示しうると考えられている。こうした諸問題の解決に関して、討議原理が空虚だという批判は決して間違いではない。
ここで討議理論家は、こうした問題を理論家がモノローグ的に考察するのではなく、各社会での公共的討議に委ねることこそが重要だと応答するかもしれない。この応答は良く言えば禁欲的である。だが、悪く言えば、それは、現代社会の諸問題に対して討議理論が「限界」を迎えていることを意味する。つまり、討議理論がその解決に向けて何らの規範的指針をも提示できないのであれば、討議理論は現代の規範理論として失格の烙印を押されかねないのではないか。
以上の問題意識のもと本稿は、従来の討議理論の限界を超えて、それを現代社会の諸問題に応答しうるよう鍛え直すことを目的とする。以下では、まず、討議理論が依拠する自由で平等な討議という理念は、その「十全な現実化」まで考慮したとき、従来の想定よりも豊かな規範的内実を含むことを確認する(1)。次に、討議理論的に構想された国家の責務は理念の十全な現実化を志向する討議空間の構築であること、そして、前節で確認した規範的内実が現代社会の直面する諸問題に対する諸施策に規範的指針を与えることを論ずる(2)。最後に、国家の討議理論的構想は必然的にリベラルな国家観にコミットすることを確認したい(結論)。
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2022/07/15(金) 12:53 「新しいリベラル」のための月刊誌 “α-Synodos”vol.301(2022/7/15)
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