今更ながらドラクエ11を全クリしたので、
それに関して色々書こうと思う。
受験勉強のためプレステ2(DQ8)を我慢して以来、
プレステ1ぶりにプレステ4を買った。
全体としては面白かったが、ダンジョンの表現が引っ掛かったので、
それについて書いてみる。
とはいえ、「そういうもの」と割り切っているので、改善すべき箇所とまでは思っていないが。
(キャラが凄いよかった。表情も豊かで不気味さがない。リッチ表現の恩恵をモロに受けた部分だ。)
※一般論なのでネタバレはほぼ無いと思うが、
未プレイで前知識を入れたくない方はご注意ください。
取り残され、違和感を漂わせるダンジョン探索、ボスとの対決
映像がリッチになるにつれ、
想像で補われていた曖昧な部分が、
具体的に描写させる。
その結果、スーファミ(SFC)時代には気にならなかった事が気になってくるのだ。
SFCの頃の魔王城は、想像で補うことで問題なく進めた。
頭脳パズルを解かされたり、
なぜか回復地点があったり、
魔物が組織的ではなく、バラバラでしか襲ってこなかったり、
しょぼい瓦礫を超えられない、という違和感は、
想像でカバーできた。
つまり、
「頭脳パズルを解いて次の部屋に進む」
→頭を使って潜入を進めたことの代替表現だろう
「回復地点がある」
→敵の裏をかいて、回復アイテムを盗んだりしたことの代替表現だろう
「魔物がバラバラに襲ってくる」
→門などの重要防衛拠点を避けて潜入しているから、少数の見回り兵としか戦わないのだろう。だからこそ勇者パーティは少数精鋭。門を堂々と通っているように見えるが、実際には抜け道などを駆使しているのだろう。
「しょぼい瓦礫を超えられない」
→グラフィック上は小さな石ひとつだが、実際には道を全て埋める巨大な岩なのだろう。何なら魔力がこもった魔法陣が書かれたりしているのかも。
こういう感じだ。
しかしそれが、ps4でリッチに表現されることで、ついに無視しきれない違和感を生むようになった。
戸塚様
先日のニコ生拝見致しました。
ブロマガにコメントが付かない由残念そうにおっしゃっていたので、力不足ながらコメントのために記事を購入した次第です。余計なコメントでファンの方々はお怒りになるかもしれませんが……。
では表題について私の意見を申し上げます。
単刀直入に言いますと、戸塚様の、ドラゴンクエストのゲームとしての理解に僅かに誤解があるかと存じます。
それについて思う所を下に記してみたいと思います。
ドラクエに攻城戦や集団戦の概念が何故ないのか。
結論から申し上げれば、それはドラゴンクエストがRPGとして出発し、最新作もRPGとして作られているからです。
ゲームは、特に原初的な形態におけるそれは、「ルール」そのものであると言い換えられるでしょう。何らかの条件を満たせば勝ち、負け、あるいは進む方向が決まると言った具合にルールが規定されていて、それに沿って遊んでいくわけです。ブロック崩しの場合はボールを下に落とさずにブロックを全て崩すこと、インベーダーなら侵略者が迫る前にそれを殲滅すること。電子ゲームの外でも同様で、じゃんけんや腕相撲なども単純極まるゲームであると言えるでしょう。
ドラゴンクエストはRPGです。Role Play、文字通り役を演ずることを目的としています。
ドラゴンクエストの元ネタとなったウィザードリィの、その更に源流であるダンジョンズアンドドラゴンズのようなテーブルトークRPGを鑑みれば明らかです。そこにおいては「何か(誰か)になる」ことが主眼であり、それを楽しむゲームなのです。しかもその際ただ演ずるだけでなく、一定のルールに従って進めて行きます。それがRPGのゲーム性であるわけです。
ここで電子ゲームとしてRPGが作られるようになると、その進行の仕方に大きな変化が起きたことは間違いありません。それまで人が行っていた部分がコンピューターによって制御されるようになったためです。またコントローラー(キーボード)による操作で機械に働きかけていくことは、紙とペンによる試行と当然ながら異なります。それらに伴って数多くの変化が生じたかと存じますが、そのことは主題ではないので割愛します。
しかし、コンピュータRPGはこのように多くの点で変化を遂げながら、(少なくともその初期の段階においては)基本的な性格をテーブルトークRPGから引き継ぎました。即ちキャラクターを演ずるということです。ウルティマにしてもウィザードリィにしても、初期コンピュータRPGの内容に徴すればそれは明らかです。たとえば職業選択機能が存在していることなどはその端的な一例です。
初代のドラゴンクエストでは職業を決められませんが、「勇者になりきって竜の王を倒す」ことが目的であり、「なりきった上でその中のルールに沿って進めていく」という点でやはり同様のコンセプトを持っています。
(これは余談ですが、職業選択の重要性に関しては、複数人で遊ぶテーブルトークRPGより一人で遊ぶコンピュータRPGの方が必然的に低くなるでしょう。これは簡単に言えることではありませんが、当時RPGに親しんでいなかった日本人に取って、大ヒットした初の国産RPGで職業選択がなかったことはその後の流れを規定した所があるかもしれません。ちなみに職業選択システムはドラクエでも後に3で取り入れられ、FFは1作目から導入していました。坂口博信も当然海外RPGに触れていました)
以上、RPGの性格について物凄く大雑把に述べましたが、ドラゴンクエストは最新作に至るまで「主人公になりきる」という性格を変えていないと思われます。恐らく、現行のRPGで、(本来の意味での)RPGであることにここまで意識的なのはドラクエくらいではないでしょうか。
たとえば主人公が喋らないのはプレイヤーが主人公になりきるためです。
また味方のAIシステムが作られたのも同じ理由です。プレイヤーが演ずるのは主人公であり、それ以外は「他の人間」なのだからそれぞれの思考を持っているはずなのです。だから「めいれい」する時を離れては、作戦に沿って各々で判断するのです。
さて、私が「誤解があるのでは」と申し上げたのはこういうことです。
つまり戸塚様がなにかドラクエを、その世界として徹底したリアリズムを構築し、その中で行動するゲームである、としている、あるいはそのようなものを理想と前提して話されているように思えるのです。
しかし私見ではそうではありません。ドラゴンクエストの出発点はRPGであり、今も本質的にはそうなのです。リアリズムよりもそのことを重視すべきだとして作られているはずですし、私もそれが正しいと思います。
集団での攻防でも攻城戦でも、それを現実に基づいて行うとしたら主人公は集団の中の一人に埋没してしまいます。信長の野望のようなシミュレーションゲームに近いものがあるでしょう。そこにおいては各々の人物はほとんど駒と変わりません。その場合、そこにRPGとしての愉しみはなくなってしまうでしょう。
「リアルかどうか」「現実的かどうか」ということが先なのではないのです。「RPGとしてのルール、また面白さに則っているか」が先なのです。そういうゲームなのですから。実際に戦争をしたら少数で戦うはずもありませんが、テーブルに1000人集めて兵隊になりきっても面白いはずがありませんし、それ以前にゲームが成り立ちません。
コンピュータになっても面白さの本質を「なりきること、その上でルールに従うこと」に置いている以上、戦闘もなりきって楽しむためにルールが設計されています。そのために現実的な制約を無視して少数に設定されているのです。無論もっと良いシステムがあるかもしれませんが、少なくとも現時点で製作者には見つけられていないということなのでしょう。当然歴史的な過程も作用して現状になっているわけです。
以上述べてきたことは、全て設定に「合理的な行動」、リアリズムが根源になくてはならないということへの私の違和感の表明です。一言で言えば、順序が逆だと言いたいわけです。まずゲームありきだと。ご都合主義なのではなく、そういうゲームとして出発しているのだと。
RPGの本来の目的はそこではないのだから、そうでなくともいいのだと私は言いたいわけです。
この記事から見る限り、戸塚様はまずリアリズムが重要で、そうでないものは説得力がないから価値が下がる、と考えていらっしゃる節が一面あるようですが、その価値観が常に真とは限りません。(キングダムの攻防にリアリティがあるか?という問題もありますが)
また、ゲームの場合は能動的な要素が加わって来るわけですから、漫画や小説の中でのリアリティを論ずるより話は遥かに複雑で、一緒くたにして論じられることではないと思います。漫画と小説とでもまた全然違うのですが。
しかしそれはそれとしてテレビゲームの「進化」した映像表現に対し、違和感が起こることは確かで、それには理由があります。
その理由とは、テレビゲームにおいて、かつては明らかに記号的な表現だったものが、現実のそれに近付いたことです。これは戸塚様が「リッチ表現」と仰っている画像の進歩によるものです。これにより、それまで記号として捉えられていたものが視覚的に記号的でなくなり、その結果、それが記号ではないように表現され、また思えてしまうということです。
ドラクエ11で言えば、戦闘の時に一人ずつ行動していくことなどがこれにあたるわけです。それは本来記号的表現なのですが、3Dの美麗キャラが行動するせいでそれが記号的行動に見えず、実際にそう行動しているように見えるわけです。しかし実際の行動として見ると不条理な行動なのだから、そこに違和感が起こる、ということになります。
(実はここの話は深く考えると面白いと思っていますが話が長くなるので割愛します)
この問題に関して、ゲームの表現が3Dに足を踏み入れた際、記号性と表現をどう折衷させるのかということについて(一部の)クリエイターはそれなりに考えたはずです。
たとえば17年前のこのページ、宮本茂のドラクエへの言及は正鵠を得ているように思えますし、それを受けて堀井雄二も思う所があったのではないでしょうか。勘案の結果、7ではドット絵に踏み止まったのではないかと。
https://www.1101.com/nintendo/nin13/nin13_6.htm
しかしまあ違和感が起こることは確かだと言っても、戸塚様のこの記事は(特に考察として考えると)率直に申し上げて今更の感があります。
試みに検索してみたら次のようなページがヒットしました。これは最近のページです。
https://fukuchi.org/essay/2017/game-and-symbol-graphics.html
結論は遥かに明快ですが、言われていることは戸塚様の論旨とほぼ同様だと思います。
しかし、このゼルダの例はその「リッチ表現」を取り上げる必然性があるのに対し、戸塚様のご指摘は別にドラクエ11でなくとも、ドラクエ8にも妥当するしFF8にも妥当するように思えます。はっきりと言うなら、もう既に何度も言われてきたことなのではないかという気がします。実際私も昔同じことを考えましたが、よもや私だけが考えついたとは思えません。PS4になって表現がリッチになったと言っても、ドラクエに関しては程度の問題で本質的に何か変わったとは思えません。
私はゲームにもゲーム批評にも疎く、知識も、その方面について調べる意欲もありませんが、恐らく32ビット機に移行し、3D表現が模索された段階でこうした議論はなされていたのではないでしょうか。記号論の知識がなくとも誰にでも思いつくようなことですから。
ついでながら、議論の対象としてドラクエ11を選んだことは(たまたまプレイした以上の意味はないのでしょうが)個人的にはあまり妥当とは思えません。
有名作でもたとえばゼルダの最新作やFFの最新作の方が現実的な映像と記号性との微妙な乖離について考えるには良い題材だと思います。
私は3作ともプレイしていませんが、動画をちらっと見た限りではドラクエは他2作に比べて割り切って作られている度合いが強く、突っ込みどころが少ないように思えます。その漫画的ディフォルメの明確さからも記号的表現の主張が伺えます。
8からそこまで違和感の差を感じるほどかな、と逆に不思議に思いました。
それでは、拙劣なコメントでブロマガを汚してしまい失礼いたしました。
今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
コメントありがとうございます!
僕が考察、レビューみたいな空気だしたのがアレなんですが、これって例えるなら、話題のスタバの新作ジュース飲んだけど美味しかったー☆みたいな、各自の感想というか、日記みたいなやつなんですよね。なので新規性がないのは、全くもって仰る通りです。批評性もありません。
居酒屋で僕がペラペラ語ってるようなイメージですね。
そんなブログでよければ、今後共よろしくお願いします!
スマホから編集したら、いつの間にか記事が非公開になっていたようです
直しておきました
メールで教えてくれた方、いつもありがとうございます。助かっております!