玄関のドアを開けてみると、全裸の美少女が立っていた。
――この夜、俺が遭遇した出来事を、無理やり一行でまとめると、つまりはそういうことになるんだろう。
なんてことのない、平凡な一日のはずだった。夏休みまでまだ十日以上はあるというのに、早くも浮ついた空気に支配されつつある我が高校を、一人寂しく後にしたのは、いつも通り午後三時四十分頃のことであった。……向かった先はもちろん、今年の四月から独り暮らしをしている二階建ての木造オンボロアパート、『永苺園(えいぼえん)』である。
我が居住空間にいざ足を踏み入れたところで、十二畳の殺風景な居間と狭すぎるキッチン、あとは風呂とトイレのみという侘しい間取りに何ら変化はなかったし、まだ電源を点けていないブラウン管テレビのモニターにぼんやりと映し出されたのは、自己主張の強すぎる顎と、それに対して控えめすぎる低い鼻と、陰険そうな細長い瞳によって構成されている、あいかわらず醜い己の顔であった。
だから、夜の八時四十五分に玄関のドアが勢い良く叩かれたところで、どうせまたいつものように、隣の部屋に住んでいる男友達が訪問してきたものだとばかり思っていた。
ところが……ドアを開けてみると、全裸の美少女が立っていたのである。
――やっぱり、この世の中とは、まったく俺の思い通りに動いてくれないものらしい。
とりあえず目がいったのは、彼女のちょっと変わった髪型だった。軽くパーマがかかったようなその髪は、向かって右側が背中まで伸びているのに対して、左側が肩よりも少し上辺りでカットされている。……そして、そんなアンバランスな髪に覆われた細面な顔は、このうえなくバランスの取れた代物だった。桃色の小粒な唇は愛くるしさ満点だったし、まっすぐ通った鼻筋からは気品すら漂っている。さらに伏し目がち、というより、完全に自分のつま先しか見ていない様子の瞳は、それでもはっきりと認識できるほどつぶらだ。
問題は、そこから下の部分……つまり、体の方である。
本来、あるべきものがなかった。厳密に言えば、何もまとっていなかった。
……要するに、素っ裸なのである。
その代償として、彼女はさっきからずっと変なポーズをとっていた。
まるで、自分自身を抱きしめるような格好――つまり、右腕で細い体型のわりにやたらとボリュームのある胸を隠し、左腕でもっと隠すべき部分を隠していたのである。
ちなみに、彼女の左手には、大きな銀色の封筒みたいなものが握りしめられていた。
身長は、俺よりも頭一個分くらい小さい。年の頃は、たぶん俺と同じくらいだろう。透き通るように真っ白な肌の持ち主とはいえ、たぶん黄色人種でもある。
――結論から述べると、まったく見知らぬ女性であった。
「……入れろ!」
ふいに、彼女が声を発する。甲高くて、張りのある声だった。「早く、入れろ!」
「………………は?」
「だから、早く中に入れろ、って言ってるのである!」
依然として、彼女は視線を足元に落としたままであった。よく見ると、体全体が小刻みに震えているし、顔だってかなり紅潮している。どうやら根っからの裸族という訳でもないらしい。
「そ、それは、その……僕の部屋の中に、ってことですか?」
「ロンモチだ、ロンモチ!」
よくわからない表現を口にした後、畳みかけるように彼女はこう続けた。「ねぇ、よく聞けゴミくず! もしあたしを部屋に入れないのなら、ここで大きな悲鳴をあげてやる! ……そしたら、ゴミくずみたいな貴様の人生も、完全にゴミくずみたいに終わっちゃうことだろう!」
……確かに、今の俺はものすごい幸運と共に、ものすごい危機にもさらされているといえた。
自分の部屋の前に、全裸の若い女性が立っている――このスキャンダラスな光景を他の人間に見られたならば……特にこのオンボロアパート内に、隣人以外にも何人か存在するという同じ高校の人間に見られたならば……人生とまではいかなくても、ただでさえ入学後約四カ月で終了しつつある学生生活が完全に終わってしまうことは、想像に固くない。
――いずれにしても、俺に未来を選ぶ権利は与えられていないようであった。
「ど、どうぞ……」
俺が体をよけてスペースを作るなり、彼女は雷光のごとく素早さで玄関を通り抜けて、そのままの勢いで居間に飛び込んでいった。
地デジ化の波に乗れたことが信じられないほど粗末な十四型のテレビデオ、勝手に六十年代の音質を再現してくれる壊れかけのMDコンポ、飾りっ気と高さに恵まれなかった木製テーブルと、『I LOVE YOU』と言う相手もいないのに軋みまくっているベッド。
引っ越してきて四カ月ばかりだというのに、すでに見飽きた感の否めない十二畳の薄汚れた居間の中心で、全裸の美少女が立っていた。
しかも今度は後ろ姿だから、真っ白な背中も、綺麗な腰のラインも、これまた細い体型には不釣り合いなほどたわわに育ったお尻の形もはっきりと確認できて……早い話が、丸見えだ。
「……ここはどこである?」
俺に背を向けたまま、彼女は尋ねてきた。
「ここは……河降市(かわふるし)、ってところですけど……」
「この建物の名前は?」
「永苺園、ですけど……」
「今はいつなのだ?」
「今は……ええっと、八時四十八分くらい、ですけど……」
「ちなみに……西暦は?」
おかしなことを訊く子だなと思いつつ、俺が馬鹿正直に答えてやると、
「なんてこと……本当に、成功したんだぁ……」
やけに誇らしげな様子で呟く彼女だった。
「……ところで、その……あなたは、いったい、誰なんですか?」
相手の様子が落ち着いたと判断した俺が、恐る恐る本題を切り出してみる。だけど、
「黙れ! 貴様ごときゴミくずに発言権を与えた覚えはない!」
再び金切り声をあげられてしまった。「そんなことよりも、リアで時間がないのである!」
「リア……?」
「だから、急いでビジョンを立ち上げろ!」
「ビジョン……?」
「ビジョンだ、ビジョン!」
喚き散らす彼女の指先は、玄関の真正面に置かれてある十四型のテレビデオを示していた。ちょっとの間考えてから、気がつく。……なるほど、『テレビジョン』ね。ずいぶん変わった略し方をする女だな、おい。「早く立ち上げろ! ……まったく、ちょっと喋っただけで、本当に馬鹿馬鹿な男だってことがわかるな! 一度脳機能を調べてもらった方がいいだろうな!」
「ええっと、その……」
ここまでひどい言われようなのに、俺はほとんど腹が立たなかった。
理由はよくわからない。女性に免疫がない為かもしれないし、極端に気の弱い性格だからかもしれないし、あまりの急展開に、それこそ脳機能が追いついていなかったのかもしれない。
「……エロエロ男!」
前方から、なんだか心を見透かしたような発言が飛んでくる。「ねぇ、ゴミくず! さっきも言ったけど、リアで時間がないのである! 早く、早く、早くビジョンを立ち上げろ!」
こちらも理由はまったくわからないけど、とにかく彼女は、ビジョンことテレビが観たくてしかたがないらしい。とりあえずここは素直に従っておくべきだと判断した俺は、震える手でリモコンを握りしめ、テレビの電源を点けた。
埃に塗れたブラウン管に映し出されたのは、サッカーの試合だった。日本代表と欧州の強豪国との親善試合だ。それもそのはずで、俺はつい十分前までこの中継を見ていたのである。だけど、試合の内容があまりにもふがいないものだったから、途中で観戦をやめてしまったのだ。
そしてその状況は、十分経ったところで何ら改善されてはいなかった。試合が残り七分を切った時点でも、依然として2‐0で日本は負けていた。
それにしても、だ。いきなり見知らぬ男性の部屋に全裸で乱入してきて、まずテレビ観賞を要求するだなんて……この少女、よっぽどサッカーが好きなんだろう。
……しかし、彼女が次に発したのは、実に意外な台詞だった。
「いいか、ゴミくず? ……今、我が国の代表が、『サッカー』という競技をしていて、そのビジョン中継があるはずなのだ。だから、早くそこにチャンネルを合わせるがいい!」
「いや……だから、今画面に映ってるのが、そのサッカーなんですけど……」
「……え、これが、サッカーなの? へぇ、こんなスポーツなんだぁ……」
そのあっけにとられたようなリアクションから察するに、どうやら彼女は日本代表のユニフォームどころか、サッカーという競技自体を知らなかったらしい。同じくあっけにとられてしまう俺の目の前で、彼女は何かを確認するかのように、床に置かれてあるテレビデオの小さな画面を覗き込んだ。……ていうか、全裸で前屈みの体勢は、背後にいるウブな男子高校生からすれば、ちょっと刺激的すぎるぞ、こら! 「はぁ……なんとか間に合ったなぁ……」
「ま、間に合ったって……何が?」
「……貴様に、いいことを教えてやろう」
「いいこと?」
どう考えても、このシチュエーションではいけないことしか想像できないんですけど。
「この試合……3‐2で、我が国が勝つのである」
「……ぶっ!」
こんな極限状況だというのに、俺は思わず吹き出してしまった。「いやいやいや、今まで決定
的なチャンスすら一度も作れていないチームが、たったあと六分で、三点も入れられるはずが
ないっしょ! ……そんな馬鹿な予想してると笑われるよ!」
「馴れ馴れしい口調であたしに話しかけるな、ゴミくず。……あと、これは予想じゃない、ゴミくず。あたしは、あくまでも、既成事実を述べたまでなのである、ゴミくず」
画面をじっと見つめたまま、彼女は淡々とそう述べた。
「既成事実……?」
俺もテレビに視線を移す。
「今から、阿蘇海 直人(あそがい なおと)という選手が一気に三点入れて、我が国は逆転勝利をおさめるのだ」
なるほど、彼女の言う通り、日本代表には阿蘇海直人という選手がいた。
とはいえ、ピッチに彼の姿はない。試合終了が近づいたこの時点でもずっとベンチを暖めている状態だったし、そもそも彼が今回の試合で起用される可能性は、最初からゼロに近かった。
なにしろ、つい最近高校を出たばかりの選手なのだ。確かに将来性は充分感じさせるものの、今すぐ日本代表で通用するとは到底思えない。現場の雰囲気を味あわせる為だけの召集だろう。
「じゃあ、何? ……今から阿蘇海が投入されて、なおかつ残り五分くらいで、ハットトリックを決めるっていうの?」
「ハットトリック? ……何それ?」
そんな単語すら知らないやつの予想が、当たるはずもない。ひょっとすると、こいつはサッカーというより、阿蘇海選手個人の大ファンなのかもしれない。けっこうイケメンだしな。
やれやれ、サッカーを知らない人間の言うことは面白いねぇ。
そんな風に俺が心の中で嘲り笑っていると……画面上に思わぬ光景が映し出された。
背番号17――阿蘇海直人が、ピッチに投入されたのだ。
……いやいや、待て待て。ここまでは、まだ想定内の展開ともいえる。敗戦色が濃厚になった以上、使い物にならないとはいえ、彼を試合に参加させることは、将来の日本代表にとって有益だという判断が下されただけだろう。要するに経験を積ますってやつであり、弱小国の監督ならそう珍しくもない決断だ。これだけで彼女の予想が当たったと思うのは、いくらなんでも早計ってもんである。
けれど、そこからの展開は完全に想定外だった。ピッチに立った直後に相手のパスボールを奪い取った阿蘇海選手は、そのまま猛スピードのドリブルで敵陣に切り込んでいき、あっさりと代表初ゴールを決めた。……時間にして、わずか四十秒足らずの出来事だった。
さらにその二分後、センタリングからのダイレクトボレーでもう一点を決めた彼は、さらにさらにその一分後、今度は相手ディフェンダーのミスで得たPKをきっちりと決めた。
……つまり、本当にハットトリックを達成しやがったのである。
奇跡の大逆転に沸く観客やアナウンサーに対して、俺は声を出す気にもなれなかった。
「……これでもう、充分わかったとは思うが」
そんな中、彼女がゆっくりと俺の方に顔を向けた。……あいかわらず、視線は下を向いたままだったけど、さっきとは違い、その表情からは少し余裕めいた雰囲気が窺える。「あたしは、未来から来たのである」
「みらい……?」
呻くように訊き返す俺。「あの、ええっと、その、それは……何県にあるんですか?」
「黙れ、ゴミくず!」
彼女はいきなり、足元にあった我が家の木製テーブルを蹴りつけた。さすが超安物なだけはあって、小柄な少女のキックでも、やけに軽やかな音を立てて簡単に吹き飛んでしまう。「よけいなことは喋るな! 貴様の声を聞いてたら、吐き気がするほどイライラする! ギャオスムカつくのだ! ……本来ならば、一切会話もしたくないくらいなのである!」
「ご、ごめんなさい……」
背後にある壁にへばりつきながら、とりあえず謝っておく俺。
「いいか? 未来から来たあたしには、なんでもわかるのだ。例えば、貴様がとんでもなくつまらなくて、とんでもなく悲惨な人生を過ごすってことも知ってるのだ! ……でも、安心するがいい。これからあたしの命令通りに動けば、貴様の人生はとんでもなく幸せで、とんでもなく充実したものになるのである!」
「…………はぁ」
「具体的に言えば、そこそこのお金が手に入る。まぁ、歴史が変わるほどの大金は無理だけどな。……どうだ、納得できたか?」
「いえ……その……全然」
「はぁ!? なんて強欲な男なのだ、貴様は!?」
どうやら彼女は、俺がその条件に不服だと勘違いしてしまったらしい。……そうじゃなくって、俺は今の自分が置かれている状況――つまり、『全裸の美少女が突然部屋に押しかけてきて、常識では考えられないようなサッカー予想を的中させた上に、未来人だと自称し始めた』という、この状況自体を受容できていないんだけどな。「じゃあ……その……もう一つの条件も、提示して、やる……」
「……もう一つの、条件?」
「命令に従ってくれるならば……あたしの体を……貴様の好きにしてよい」
期待していたことが叶わなかったかのごとく意気消沈した口調で、彼女は続けた。「この通り、あたしはひどく気持ちの悪い体型だし、かなりブサイクな顔をしている。……だけど、その ……いわゆる、性欲の捌け口くらいにはなるはずである」
「いや……その……」
おいおい、いくらなんでもそれは自分を卑下しすぎだろう、と思いながらも、俺はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「何も反論がないということは……今度こそ納得した、と思っていいのだな?」
極めて自分に都合のいい解釈に基づいて、彼女は話を進めた。「じゃあ、さっそく命令の内容を告げる。貴様には、歴史を変えてもらおう。……いや、厳密に言えば、歪んでしまった歴史を、元に戻してもらおう」
「…………は?」
「要するに、偉大なる『クリエイショナー』によって創り上げられた、美しく崇高な未来に、もう一度歴史の道を繋げてほしいのである。……わかったか?」
「……ええっと、ですね」
『要するに』と言うわりには、ちっとも要約してくれていない彼女の解説に対して、さすがに俺も黙っている訳にはいかなかった。「とりあえず……その『クリエイショナー』っていうのは、いったい何なんでしょうか?」
「……貴様は、『那部坂 準(なぶさか じゅん)』というお名前を、聞いたことがあるか?」
「そりゃあ……もちろんあるけど」
「隣の部屋に住んでいるお方なのだから、当然知らないはずもないだろう。……そもそも、この時代のクリエイショナーは、貴様みたいなゴミくずとも、交流を持たれていたようだし」
納得したかのように小さく頷く彼女だった。「その『那部坂準』というお方が、偉大なる我らが『クリエイショナー』なのだ。……とはいえ、それは未来の話だ。この時代ではまだ、慈愛に溢れていて、素晴らしく聡明で、カリスマ性の突出した、普通の高校一年生に過ぎない」
「いや、ちょっと待って……」
「貴様……確か、『真壁 透(まかべ とおる)』とかいう名前だったな。どうして貴様みたいに低能でゲスで馬鹿馬鹿な喋り方しかできないゴミくず男が、偉大なるクリエイショナーと同じ建物に住んで、偉大なるクリエイショナーと同じ高校に入学できたのか、不思議でしかたがないが」
「だから……」
「いいか、真壁透! ……貴様ごときゴミくずは、あたしの命令を素直に聞いて……」
「……その前に、俺の話を聞いてよ!」
たまらなくなった俺が、大声で彼女の話をぶった切る。あいかわらず喋っている内容自体はさっぱり把握できなかったけど……少なくともこのとんでもない格好の少女が、とんでもない勘違いをしているってことだけは、なんとなく理解できたからだ。
「な、何よ……?」
一転、怯えたような様子で訊き返してくる彼女。
「せっかく真剣に解説してもらっている途中に、申し訳ないんだけどさ……」
そんな彼女を見て、自分がほんの少しだけ心理的優位に立ったことを悟った俺が、ゆっくりと言い放ってやる。「……真壁と話したいのなら、隣の部屋に行った方がいいと思うよ」
「…………はぁ!? ば、馬鹿馬鹿なことを言うな! 隣の部屋は…………え?」
……言葉と共に、体の動きをも完全に喪失すること、十数秒。
やがて彼女は、ひどく焦った様子で、握り締めていた銀色の封筒から、一枚の紙らしき物体を取りだした。それはちょうどハガキくらいの大きさで、裏側が金色の刺繍で彩られている、高級かつ悪趣味そうな代物だった。こちら側からは、その表面に何が書かれてあるのか、あるいは描かれているのか、まったくわからない。
そして彼女がその紙をじっと見つめた後――この夜初めての現象が、発生した。
ようやくこの強盗まがいな全裸少女が、家主である俺と目線を合わせてくれたのだ。
この期に及んでやっと全体像を把握することができた彼女の瞳は、やっぱり恐ろしいほど吸引力のある、魅惑的なものであった。……とはいえ、せっかくのその瞳も、今は驚愕、もしくは恐怖によって、異常なほど大きく見開かれている。
「まさか貴様は……い、いや、あなたは……」
真っ白な裸身を激しく震わせる彼女が求めているのだろう回答は、愚鈍な俺にでも、瞬時に察することができた。
「ああ……まぁ、うん」
だから、肩をすくめながら答えてやったさ。「……俺がその、那部坂準なんだけど」
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