なるほど、確かに彼女はかなりの美人であった。
……しかし、同時にかなりの変人でもあった。
肩まで伸ばした艶っぽい黒髪に覆われているその顔は、とても俺に釣り合うとは思えないほど整っていたし、ピンクのフリルでコーティングされたそのドレスは、とても『お見合い』という儀式にふさわしいとは思えないほど強烈なインパクトを放っていたからな。
手元にある釣書(プロフィール)を見たところ、この女性は “鈴木麻淋”という二十二歳の千葉県民らしい。だが、それ以外の素性はまったくわからなかった。というのも、彼女は初めて顔を合わせた十五分前からずっと、ストローの袋を縮めては広げるという作業に没頭していて、会話はおろか俺と目を合わせようともしてくれない始末なのだ。
「ええっと……鈴木さんの下のお名前は、何てお読みするんですか?」
沈黙に耐えかねた俺が、やむなく口火を切ってみると、
「麻淋(まりん)、です」
素早く返答してきたのは、当の麻淋さんとやらではなく、彼女の右隣に座っている男性の方であった。「それほど難しい読みだとは思えませんが」
「ああ、すみません。珍しいお名前だったんで……」
その弁解を噛みしめるように聞いた後、男性は俺を鋭い目で睨みつけた。
「……あなたは “テンヤユーカイ”さん、でよろしいかな」
「いや、天野 優介(あまの ゆうすけ)です!」
もちろん、俺だって素早く返答したさ。もっと簡単な読みだと思うけどな。
「これは失礼」
たいして申し訳なさそうな様子も見せずに、彼が質問を重ねてくる。「釣書によりますと、天野さんは御年齢が二十三歳となっておりますが、それでよろしいのでしょうかな?」
「え? ……あ、はい」
「千葉県竜策(りゅうさく)市在住となっておりますが、これも正しいのでしょうかな?」
「正しいですよ」
「ちなみに、身長と体重は?」
「身長と体重、ですか?」
変なことを訊く人だな、おい。「……去年の身体測定では、172cmで62kgくらいだったと思いますけど」
「なるほど。参考になりました」
何の参考だよ? 「ああ、御紹介が遅れました。私は、麻淋の父でございます。そしてこちらが……」
「麻淋様の母でございます」
今度は、麻淋さんの左隣に座っていた女性が、恭しく頭を下げてきた。
「こらこら、おまえ。実の娘に対して『様』付けはおかしいだろう」
「あ、これは失礼致しました!」
とまぁ、よくわからない掛け合いを交わすこの両親も、娘に負けず劣らず変わっていたね。白い髪と髭がやけに似合っているスーツ姿の父親は、柔和な笑みの中にも恐ろしく洗練された凄みのようなものを漂わせていたし、短髪にアイシャドウをばっちり決め込んでいる母親の方は、和服がぎこちなく感じるほど現代っぽかった。何より、二十二歳の娘を持つにしては、父親は高齢すぎるし、母親は若すぎるんじゃないか? 祖父と姉です、と説明された方がよっぽどしっくりくる感じだぜ。
あいかわらず麻淋さんがストローの袋攻略に執心し続けている中、ぎこちない会話はさらに続いた。
「天野さんのお隣に座ってらっしゃるのは、お母様でしょうか?」
威圧感をたっぷり放ちながら、麻淋さんの父親が尋ねてくる。まるで取り調べを受けているような気分だな。
「いえ、叔母です」
「おや? ……ということは、今回ご両親はどちらも欠席されているのですかな?」
訝しげな目線を送ってくる彼に、俺はしぶしぶ答えてやった。
「うちの両親は、僕が小学校の時に二人とも交通事故で亡くなったんですよ」
正直、この事実を説明するのはあんまり気乗りしなかったね。少なくとも、場の空気を盛り上げるような話題ではないからな。
ところが、目の前の男性は極めて意外な反応を見せた。
「なんと! それは素晴らしい!」
満面の笑顔を浮かべながら、いかにも嬉しそうに両手を叩いたのだ。
「素晴らしい、ですって?」
今度は俺が怪訝な表情を作る番であった。
「……いや、誤解しないでください」
一転して、気まずそうな顔になる麻淋さんの父親。「そういう境遇にも関わらず、ここまで立派に育ってこられた天野さんが素晴らしい、という意味ですよ」
取り繕うようなその言葉に、
「別に、そんなたいしたもんじゃないですけどね」
俺はあえて淡々とした口調でそう返しておいた。本当は色々と苦労することもあったけどさ。それをこの場で長々と話すのもおかしいってもんだろう。
――さて、この辺でもう一度現状を詳しく説明しておこうか。
俺は今、日本庭園に囲まれた古式豊かな高額飲食店にいる。……安易かつ陳腐な表現を用いるならば、いわゆる『高級料亭』ってやつだ。
そして、三メートルはあろうかというでかい机を挟んだ対面には、鈴木麻淋という女性と、彼女の両親だと自称する男女が座っていた。それに俺の叔母を合わせた五人で、今日は午後一時からこの場所に集まっているのだ。
無論、ただ食事をする為に集まった訳ではない。繰り返すようだが、我々は――というより、俺とピンクドレス美人の二人は、『お見合い』という儀式の為にここへやって来たのである。
とはいえ、くれぐれも勘違いはしないで頂きたいね。別に俺は結婚を急いでいる訳じゃあないんだぜ。むしろ、結婚なんて全然興味がないってタイプなんだ。
孤児同然である俺からすれば唯一の親族といってもいい叔母さんから、『物凄い別嬪(べっぴん)さんらしいから、ぜひ一度会ってみなさいよ!』と強硬に薦められたお見合いを断りきれなかった――俺が今、慣れない場所に慣れないスーツ姿で鎮座している理由を一文で説明するならば、そういうことになるんだろうよ。
会話が途切れたのを見計らって、俺は再びもう一方の主役である物凄い別嬪さんに視線を移してみた。ストローの袋いじりに飽きたのか、今度は無謀にもコースターで折り紙を始めた模様である。言うまでもなく、その眼差しは常に下へと注がれていたさ。よくもまぁ、次々と色々な遊びを思いつくもんだ。ひょっとしたら、遊びの天才かもしれないね。その遊びが全然楽しそうじゃないという致命的な欠点を除けば、な。
いずれにしたって、彼女もこの縁談にはまったく興味がないらしい。だったら、お互いの為にもそろそろお開きにする口実を考え始めようかね……なんて俺が思っていると、
「確か、天野さんは竜策市役所で働いてらっしゃるんですよね?」
また性懲りもなく、麻淋さんの父親が話し掛けてきやがった。おいおい、これではまるであんたが俺と結婚したがってるみたいじゃないか。
「まぁ、厳密に言えば、隣にある民芸博物館勤務なんですけど……」
竜策市役所に隣接されている、『竜策市民芸博物館』。――素人から見れば、ゴミとしか思えないような代物を掻き集めて展示しているこの二階建てのしょぼい博物館が、俺の現在の職場だった。ちなみに、料金は大人二百円、子供五十円。一日の平均利用客数は、足の指を使わずとも余裕で数えられる程度。……はっきり言って、市役所内では限りなく『閉職』に近いともっぱら評判の部署でもある。当然、あまり他人様に自慢できるような職場ではさらさらなかったさ。
しかしながら、どういう訳か俺の言葉を聞いた途端、麻淋さんの父親の目の色が明らかに変わった。
「念の為にお訊きしますが、天野さんはその博物館で、いかほどの権力をお持ちなんでしょうかな?」
身を乗り出すような彼の態度と大袈裟すぎる質問内容にいささか戸惑いながらも、俺はこう返した。
「一応、副館長ではありますけどね」
もっとも、正式な職員が二人しかいないような博物館だから、俺が猿だって副館長には就任できただろうがな。
「素晴らしい! これは、本当に素晴らしい!」
麻淋さんの父親が、ますます相好を崩す。今までの威圧感が嘘のようなはしゃぎっぷりだ。
「あの、それはどういう意味でしょうか?」
困惑する俺を前に、
「いやいや、古代史というものには、実にロマンがありますぞ!」
一瞬で脳細胞が大量に失われてしまったとしか思えないような台詞を発する彼。今度こそ、一体何が素晴らしいのか、さっぱりわからなかったね。
同時に、俺はいい加減このコントめいたやり取りにうんざりし始めていた。
ひょっとして、こいつらは俺をからかいに来たのか? 今日のお見合いは、金持ちのお嬢さんが貧乏人の心を弄ぶ為に開かれたって訳なのか?
……ああ、きっとそうに違いない。じゃなければ、本人はおろか両親までもがこんなふざけた態度を取る訳もないだろうからな。
だとしたら、恥さらしもいいところである。結局のところ、この麻淋という女性にとって一番の遊び相手は、ストローの袋でもコースターでもなく、俺だったってことかい。なるほど、遊びを考えることに関しては本当に天才的みたいだけどさ、あいにく感心はまったくしかねるね。
なんてこった。今日はとんだ茶番劇に付き合わされたもんだぜ、おい。
――ところが、である。
続けて麻淋さんの父親は、恐ろしいことを言い出した。
「では、さっそく具体的な結婚手続きへと参りましょうか」
「はい……って、ええ!?」
驚くほどベタなノリ突っ込みを披露してしまう俺。「結婚って……それはつまり、僕と麻淋さんの、ってことですか!?」
「それ以外に何があるんですかな? 今日はその為の集まりでしょう」
「だ、だけどですね! 僕達はまだ何も会話すらしていないですし……」
「何をおっしゃる。本当に心が通じていたならば、会話などかえって不要というものでしょう」
彼は至って真剣な面持ちのままそう言い切った。……いやいや、それは永年交際しているカップルとかの場合のみだろうが! あくまでも俺達は、つい三十分ほど前に初めて出逢った、見も知らぬ他人同士なんだぜ。
「……どうだ、麻淋。君もこの結婚に異存はないだろう?」
父親の問い掛けに、麻淋さんが小さく頷いた。やっと会話に参加してきたみたいである。どうやら日本語は通じるらしいな。ただし、依然として俺との目線は一切通じていないんだけどさ。「ほら、娘もこう申しておりますことですし」
「けれど、その、僕自身の意思的なものは……」
「おやおや。では、あなたは結婚する意思もないのに、このような厳粛な場へとやって来たのですかな?」
凄まじい眼光で睨みつけてくる対面の男性。「……それとも、まさかうちの娘に恥を掻かせる為にやって来たという訳ではありますまいな!?」
「ち、違いますよ!」
「だったら、どうしてあなたは結婚に消極的なのですかな!?」
畳み掛けるように問い詰めてきた彼に、
「いや、やっぱりこういう大事な問題は、じっくりと考えるべきだと……」
俺は自分でも笑えるくらいの正論しか口にできなかったさ。「……ねぇ、そう思わないかい、叔母さん」
慌てて隣にいる叔母さんに話を振ったものの、彼女は目をオセロのようにしながら黙り込んでいるだけの体たらくだった。そういえばこの人も、お見合いが始まってから一切言葉を発していないぞ。いざって時に頼りにならないところは、昔から全然変わってないみたいだな、おい。
「ならばあなたは、自国が今正に侵略されているというのに、じっくりと時間を掛けて対策を検討するような指導者を是とするのでしょうか?」
諭すような口ぶりで、麻淋さんの父親が言った。「……問題の大小とそれに必要な考察時間が、必ずしも比例するとは限りません。むしろ、大きな懸案ほど即断すべきではないかと、私は考えております」
「例えが、よくわかりませんが……」
俺の脳内は、まさしく侵略されているかのようなパニック状態に陥っていたさ。さっきは麻淋さんの態度に憤りを感じてしまったけど、実はそういう俺だって、『結婚する』なんて選択肢はハナから度外視していたからな。本音を言えば、“物凄い別嬪さん”とやらを一目見てみたかっただけなのである。
だけど、眼前に座る男性は、何故か執拗に結婚を迫ってきていた。しかも、大切な我が娘との結婚を。
……この事態をわかりやすく解説できる奴がいたら、ダイナマイトの発明者に代わって何かの賞を贈呈したいくらいだぜ、おい。
適当な反論も思いつかないまま俺が黙り込んでいると、やがてさらに予想外の事態が発生した。
それまで、頑なに顔を俯けさせていた麻淋さんが、初めて俺と目線を合わせたのだ。
なおかつ、彼女は凛とした口調でこう言い放った。
「……私と、結婚してください!」
その瞬間、アメリカで超凶悪犯罪を行った人間が、生涯最後に味わうような感覚にさらされる俺。
芸術感性がひどく乏しい俺にも、春の太陽を想起させてしまうくらい、麻淋さんの表情は美しく煌いていた。まっすぐ見つめられると、冬じゃなくたって溶けてしまいそうだ。
続けて、彼女は少し目線を落としながらポツリと呟いた。
「それとも、私と結婚するのはお嫌でしょうか……?」
それは、夏の終わりを告げる蜩(ひぐらし)の鳴き声のように、いじらしく切ない声であった。再び、俺の体に強烈な電流が駆け巡る。心臓に悪い女性だな、おい。
……とまぁ、陳腐な詩的表現を連発するのはこれくらいにして、ここはひとつ冷静に考えてみようか。
いくらなんでも、この展開は怪しすぎるだろうが? どうしてこんな超美人が、出逢ってすぐの、それも会話すら交わしていない俺に結婚を申し込んできてるんだよ?
自慢じゃないが、俺は美形でも何でもない。もっと言えば、資産家でも天才的なアーティストでも驚異的なアスリートでもない。その辺にころがっているような、ごくごく平凡でしがない一地方公務員である。少なくとも、初対面の女性から熱烈に求婚されるような要素を、自分自身ではまったく見出せないね。
まぁ、言い換えれば、騙されて盗まれるようなものも何一つ存在しないってことなんだけどさ。かといって、簡単に『こんな僕でもよければ……よろこんで』だなんて食いつくほど知能がない訳でもないぜ。壮大なドッキリに引っ掛かって潰される面目くらいは、まだかろうじて残しているつもりなんだ。だいたい、しつこいようだけど、俺は結婚自体にまったく興味がないんだよ。
だから、冷静に考えれば、俺に『すみません。今回は、ご縁がなかったということで……』と答える以外の選択肢などあり得なかった。
けれど。
……けれども。
気がつけば、俺はこう答えていた。
「こんな僕でもよければ……よろこんで」
要するに、この時の俺は冷静じゃなかったんだろう。まるで魔法に掛けられたかのごとく、精神を操られていたんだろう。……鈴木麻淋という、恐ろしく魅力的な女性によって。
――『魔性の女』、そして、『結婚は人生の墓場』。
聞いたことはあっても、今までまったく縁がなかったこの二つの言葉を、比喩的な意味ではなく実際に体感する羽目となってしまった数ヶ月間が、こうして幕を開けた。