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  • 【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説⑤『Dear My Friends』第7話

    2018-10-15 12:02
     ……ところが、である。
     そんなエリとの約束によって、ほんの僅かとはいえようやく前向きになりつつあった私の気分も、バイトを終えて帰宅したのと同時に送られてきた一通のメールのせいで、一気にぶち壊しにされてしまうのであった。
    『明日、演劇部の緊急ミーティングを行います。夕方五時に、必ずプレハブへと集合する事。欠席者は、演劇部員資格を剥奪いたします。    ――泉州大学演劇部 部長代理 島谷康夫』
     ……全くもって不愉快な文章だった。島谷が我々を招集する権限や、退部を決定する権限を持っていた事も、それ以前に、そもそも彼が演劇部の部長代理だったという事実も、この時始めて知った。というよりは、そんな事を認めた覚えがなかった。
     にも関わらず、さも当然かのようにこんなメールを送ってくる島谷の厚顔無恥さ、横暴ぶりに、改めて激しい憤りを覚える私であった。
     とはいえ、このような状況になるかもしれないという事は、桜井が死んだ直後から薄々予想できていた。元来、桜井のカリスマ性があまりに強すぎて、その他の役職やシステムがおざなりになってしまっていた演劇部において、一番年長者であり、口だけは達者である島谷が付け入る隙なんていくらでもあったのだろう。特に、桜井亡き今となっては、面と向かって彼に意見できる人間が皆無に等しい事も想像に固くない。
     ――いっそ、このまま退部してやろうか。
     私も、最初はそう考えた。こんな状態に陥ってしまった以上、これからの演劇部活動が楽しくなる訳もないし、何よりあの場所には嫌な思い出が多すぎる。島谷のメールがなかったとしても、そのうち退部するつもりではあったのだ。
     しかし。辛い事やしんどい事を乗り越えて一年間続けてきた演劇部が、このまま黙って島谷の天下となるのも、癪だった。とても許される事ではなかった。
     そこで、私はさっき別れたばかりのエリにすぐさま電話したのだった。
    「なぁ、そっちにもメールが来た?」
     その言葉だけで充分伝わったようで、
    「来た来た来た! 最悪や!」
     嫌悪感丸出しの彼女の声が聞こえてきた。
    「最悪やろ! ……で、あんたはどうするつもりなん?」
    「へ?」
     まるで、予想外の質問だったと言わんばかりに、気の抜けた返事をする彼女。どうやら怒りの感情によって、ただでさえ低い思考能力がほぼ停止状態に陥ってしまったらしい。「どうするって……明日の晩御飯?」
    「あたしはヨネスケか!!」
     本当に、食べる事しか考えていない女だ。「じゃなくって、明日のこの召集に、あんたは行くのか行かないのかや!」
    「行くのか行かないのかって……呼ばれてるんやから、行かなあかんやろ」
     本当に、自主性のない女だ。
    「あんた、島谷の言いなりになるつもりか!?」
     呆れつつ、私が声を荒げる。「こいつ、いつから演劇部の部長代理になったねん! いつから部員を辞めさす権限を持ったねん! あまりにも勝手すぎるやろ! そんな奴の命令に、あんたは大人しく従うんか!?」
    「……そう言われれば、なんか腹立つなぁ!」
     本当に、流されやすい女だ。「うん、めっちゃムカつく! あいつの好き放題なんて許されへんわ!」
    「そうやろ?」
     彼女の反応に満足した私は、そのままゆっくりと話を続けた。「そこで、や。あたしは島谷の召集に応じようと思ってるねん」
    「なるほどねぇ……って、はぁ!?」
     馬鹿みたいに大口を開けているエリの顔が、容易に想像できるような奇声が返ってきた。「ちょっと待ってや! 意味がわからへんわ! それやったら結局、島谷の言いなりになってるやん!」
    「まぁ、落ち着けって。そういう訳じゃないねん」
     薄く笑いながら、私はからくりを説明した。「これはな、参加するだけ参加して、その場で島谷に思いっきり文句を言おうって作戦なんや」
    「“思いっきり”?」
    「いや、そんな単語に引っ掛かられてもなぁ。どちらかと言えば、『その場で』とか『文句を言おう』ってところに引っ掛かって欲しかったんやけど」
    「ええっと、“その場で”?」
    「そのまんまやなぁ……。まぁ、いいわ。とにかく、とりあえずあいつと顔を合わさないと、言いたい事も言えないってもんやろ」
    「なるほど、ハマちゃんが言いたい事が、だいたいわかったわ!」
     得意げな口調になる彼女。
    「だいたいじゃなくって完全にわかってや! そんなに難しい事は言ってないやろ!」
     エリと会話をすると、どうしても余計な注釈が多くなってしまう。すなわち、なかなか話が前に進まないのだ。まぁ、そこが楽しかったりもするんだけど。
    「うわぁ、面白そう!」
     彼女が声を弾ませる。「いつか島谷をけちょんけちょんにしたいと、うちも前から思ってたねん!」
    「これが、最初にして、最後のチャンスや」
     決意を滲ませるように、私は強く言い切った。「大丈夫、あたしに任せときや。あいつの思い通りには絶対にさせないから!」
    「頼もしい! ハマちゃん、男らしい!」
     こいつの褒め言葉は、いつも素直に喜べない。「よ~し! うちも、頑張ってなんとか文句を言うわ!」
    「え? ああ、うん、ぜひ頼むわ……」
     そうは言いつつも、私はたいして援護射撃を期待していなかった。エリは、無神経なように見えて、実はとても引っ込み思案で弱気な性格だったりもするのだ。過去を振り返ってみても、いざという時に彼女が頼りになった試しはほとんどなかった。
    「ああ、それとさ」
     思い出したかのように、エリが尋ねてきた。「夕方五時に集合って事は、授業が終わってから少し暇ができるやろ?」
    「ああ、そうやな。だけど、それがどうかしたん? あ、また学食でパフェを食べるつもりか? 余計に太ってしまうで」
     少し贅肉が付き始めた事が、最近のエリの悩みだった。というよりは、元々大食いの彼女が、今まであのスタイルを維持していたという方が驚きだ。
    「違う! それは昼に食べる!」
     食べるのはきっちり食べるらしい。「それより、その時間を利用して、ちょっとみんなの話を聞きたいねん」
    「みんなって、誰や?」
    「並川さんと、城野さん。あと、一応沙紀さんや島谷も、やけど」
    「ああ、事件の夜に大学に残ってた人達って事やな。……でもさ、何の為にや?」
    「何の為って、事件解決の為にやんか!」
    「事件解決って……あんたが!?」
     私は思わず吹き出しそうになってしまった。
    「そうやで! こう見えても実は最近、推理モノばっかり読んでたから頭が冴えまくってるねん!」
     どう考えても頭が冴えまくってなさそうな台詞が返ってくる。
    「へぇ……漫画しか読まないあんたが珍しいな」
    「推理漫画やけどな」
    「納得」
     それなら筋が通る。「だけど、そういった事はとっくに降矢さんや警察がやってると思うけどなぁ……」
    「うちは自分の耳で聞きたいねん! そうしたら、また新たな推理が生まれるかもしれんやろ!」
    「いかにも古い推理がありそうな言い方やな。それに、水を差すようで悪いけどさ、刑事でもなんでもないあんたの質問に、相手がちゃんと答えてくれると思うか?」
     幼稚な発想を披露する幼馴染を、私がたしなめる。「そもそも、前もって『話を聞きたいので予定を空けておいて下さい』みたいな約束はしてるんか?」
    「そこは、アポなしで突撃やん!」
     相変わらず、無計画な女である。そういえば高校の頃、エリに旅行の幹事をさせたところ、予定表に『広島市まではヒッチハイクで』なんて平然と書かれてあり、慌てて私が幹事代理になった事があった。あれから二年近くが経ったというのに、この女は一向に成長した様子が窺えない。
    「アポなしねぇ。あんたらしいな」
     呆れながら私が呟いた。
    「うちらしいやろ!」
     皮肉も通じない。これではもう、どうしようもなかった。
    「あのさぁ……事件の事は少し忘れようよ」
     かなりの無理難題とはいえ、そう言いたくなる心境であった。消せないだろうけど、塗りつぶせるものならば別の色に変えたい記憶。桜井の死について、話を聞くどころか、話題にも出して欲しくなかった。
     しかし、エリはこう言った。悲痛な、泣きそうな、そして叫ぶような声で。
    「嫌や! ……うちは桜井さんの仇を取りたいねん!」
     私は愕然としてしまった。
     まさか、こいつがそんな事を考えているとは……。
    「……わかった」
     そう答えるしかなかった。「仕方がないから、あたしもそれに付き合うわ」
     彼女の頑固ぶりを知っている私にとって、やむを得ない決断だった。だいたい、『夕方五時まで』という制限があるのだ。少なくとも、長々と茶番劇に付き合わされる恐れはあるまい。
    「よっしゃ! じゃあ、明日授業が終わったらまた電話するわ!」
     ――かくして、二月二十七日。
     笑顔で近寄ってくるエリの姿を、げんなりとした表情で見つめる私の姿が、泉州大学正門前にあった。
    「おいっす! 待った?」
     昨日の悲壮な発言が嘘のように、晴れ晴れとした顔で彼女は尋ねてきた。
    「待ってない! ……色々な意味で!」
     苦々しく答えたところで、
    「そう、それならよかった」
     この女に嫌味が通じないという事実をコロッと忘れていた私の負けだった。
    「それよりさぁ、もう夕方の三時半やろ。さっさとあんたの事情聴取を始めないと、肝心の島谷の招集に遅れちゃうで!」
     急かすように、私がエリの背中を押す。
    「痛い痛い! しかも、まず最初に行くのは並川さんのいる警備室なんやから、押す方向が逆やって!」
     どうでもいい指摘を口にしつつ、エリが歩き始めた。「では、警備室にゴー! ゴー!」
     力が抜けてしまいそうな掛け声だったが、しぶしぶ私も彼女の後に着いていった。
     警備室のある第二学舎に着いた途端、エリは私に目配せをしてきた。
    「……はいはい」
     ため息と共に私が答える。つまり、私に先に入ってほしいという合図なのだ。なんてワガママかつ気弱な名探偵だろうか。
     建物の中に足を踏み入れてみると、目的の部屋は簡単に見つかった。入り口のすぐ右手に、『警備室』というプレートが貼り付けられている黒いドアがあったのだ。まぁ、緊急事態に備えるのならば、三階の奥なんかより、このようなすぐ外に出られる場所にあってしかるべきなんだろう。
    「すみません、文学部の濱本綾香ですが!」
     バレー部時代に培われた、よく通る大きな声で、私がドア越しに用件を告げた。「誰かいますかぁ!」
     即座にドアが開かれた。
    「ど、どうした?」
     中から現れたのは、白髪が目立つ壮年の男性だった。「何かあったのか!?」
    「い、いえ、そういう訳ではないんですけど」
     血相を変えて訊いてくる彼に、私はたじたじとなってしまった。「ただ、その、並川さんにお会いしたいなぁと思って……」
     その説明を聞いて、彼はようやく強張った表情を緩めた。
    「なんや、てっきり事件でも起きたんかなと思ったわ」
     時期的に、警備員が過敏になっていてもおかしくはなかった。「おおい、並川君! 可愛い女の子がお呼びやで!」
     壮年の男性が部屋の奥に向かってそう呼びかける。すると、けたたましい物音と共に、若い男が飛び出て来た。
    「ちょ、ちょっと! ここには来るなって言ったや……」
     何故か慌てふためいた様子の彼だったが、私達を見るなり、口を大きく開けながら「……うん? 君らは誰や?」
     当然のリアクションである。こっちだって初対面なのだから――と、最初は思ったのだが、よくよく考えてみるとそれは間違いだった。
     その事にまず気付いたのは、エリの方だった。
    「ああ!」
     突然、奇声をあげる彼女。「あの時の!!」
    「急になんやねん! あの時のって……ああ!」
     遅まきながら、私にもエリが驚いた理由がわかった。「あの時の警備員やん!!」
     ――そう、彼こと並川竜也は、我々が桜井の遺体を発見した際、最初に現場へとやってきた、あの頼りない警備員だったのだ。
    「……ああ、あの時の二人か」
     並川の方も私達の事を思い出したようだ。彼は警備室のドアを閉めて、周囲をキョロキョロと確認した後、困惑したような表情でこう尋ねてきた。「でも、一体俺に何の用なん? 今さらあの時の対応について文句を言われても困るんやけどなぁ……」
    「もうそんな事はどうでもいいんです!」
     あいかわらず冴えない顔の並川に対して、私は強い口調で言った。「それよりも今は、事件のあった当日、つまり二月二十一日の夜についてお伺いしたいんですよ」
     結局、私がメインの取材者になってしまっていた。相棒は、おどおどしながらそんな私を見ているだけだった。
    「事件のあった夜について? 俺にか?」
    「そうです。……あの夜は、並川さんもこの大学に居たんですよね」
    「そりゃあ、居たで。仕事やからな」
     露骨に顔をしかめる彼。「だけど、そもそもなんでそんな事を君達に話さないといけないんや? 関係ない事やろ!」
    「被害者の……桜井さんは、私達の、演劇部の、尊敬していた、先輩なんです」
     ようやく、エリが少しだけ前に出た。「だから、その、なんで殺されたかを訊きたくて……で、並川さんの、あの、話を、お伺いしたいというか……」
    「でもさ、そういった事は警察にちゃんと話したし、正直あんまり触れられたくないねん」
    「お願いします! そこをなんとか……」
    「嫌やな! さぁ、帰ってくれや! 俺も仕事中で忙しいねん!」
     頼み込むエリに対して、並川はまるで虫を振り払うかのような仕草でそう言い放った。その反応に、私の方がキレてしまう。
    「あの夜は、奥さんに、ずっと電話をしていたんですよね!」
     並川をキッと睨みつける私。「しかも、ここの電話を使って、なおかつ午後九時から十一時まで、二時間も!」
    「な、なんでその事を知ってるんや!?」
     彼の顔色がさっと変わる。
    「知り合いに、刑事がいましてね!」
     嘘ではないけど、あまりフェアなやり方とは言えなかった。それに、情報を漏らしたという事がばれて、降矢に迷惑がかかるかもしれない。でも、頭に血がのぼっていた私には、そんな事を気にする余裕がなかった。「だけど、そんな事が大学にばれたら、並川さんの立場もかなり危ういですよねぇ。なんせ、大学に電話代を肩代わりさせてるようなもんやからなぁ……」
    「ま、待ってくれ!」
     蒼ざめる並川を尻目に、
    「下手したら横領ですよね! ああ、結婚したばかりやのに、職を失うなんて可哀想やなぁ」
     けっして褒められた事ではないが、降矢との一件のおかげで、私は脅迫のコツのようなものを掴んだらしい。この時も、訳もなくスラスラと言葉が出てきた。
    「わかった! 何でも質問に答える!」
     無条件降伏であった。「だから、その、電話の件は内緒という事で……」
    「忙しい中、わざわざありがとうございます」
     皮肉たっぷりに私は言ってやった。すかさずエリの方を向く。「さぁ、あんたは並川さんに何が訊きたいんや?」
    「……え?」
     この女、今回の主催者が自分だという事を既に忘れてしまっているらしい。「何が訊きたいって……血液型とか?」
    「あんたは占い師か!」
     せっかくのお膳立てを叩き割ってくれた彼女に、私は般若のような形相で詰め寄った。「そうじゃなくって、事件について訊きたいんやろ!」
    「あ、そうそう」
     能天気な声で応じるエリ。「ええっとですね、とりあえず一度、警備室の電話を見せて欲しいんですけどぉ」
    「……それはまずいって」
     急に小声となる並川。「そんな事をさせたら、奥野さんに怪しまれてしまうやろ。事件の夜に俺がここの電話を使ってた事は、あの人にも言ってないねん」
     奥野さんとは、さっきの壮年の男性の事だろう。
    「別に、それが目的だなんて言いませんよ」
     私が柔らかな笑顔を浮かべてそう言った。「ただ、今私が研究しているテーマの為には『警備室』の取材がどうしても必要なんやって事にしておきますから。……それなら大丈夫でしょ?」
     我ながらかなり無理のある設定だったが、
    「そう? じゃあ、少しだけやで」
     並川は納得したように軽く頷いた。私って、意外に刑事向きの性格かもしれない。
     彼はそのまま我々を警備室に招き入れた。
     警備室は、三つの部屋から構成されていた。一つは彼らが常駐している部屋、一つは休憩室、一つは給湯室といったところか。
    「あ、奥野さん。この子達が、警備室を見学したいって言うんですよ。なんでも、研究の題材に『警備室』を取り上げるんですって」
     並川が、椅子に座りお茶をすすっているさっきの壮年男性に対して、私の言葉通りの報告を行った。
    「そんな研究をするなんて、珍しいやっちゃなぁ。まぁ、別にかまわんけど、あんまり長居したらあかんで」
     優しくそう答える奥野。好人物らしい。
     部屋に入ってすぐの場所に、問題の電話機はあった。黒光りしていてかなり埃の目立つ、二十一世紀のものとは到底思えないような、よく言えばアンティークな代物だ。
    「これが、例の電話機ですよね」
     私が彼の耳元で囁く。
    「うん、そうやけど……」
    「本当に、これで奥さんに電話を掛けたんですか? 例えば、携帯電話から掛けていたとかいう事は……」
    「あのね、ひょっとして俺を犯人やと思ってるん?」
     苛立った様子を隠さない並川。「質問がおかしいで」
    「そういう訳ではないですけど」
     慌てて私が首を横に振る。
    「で、各施設の鍵ってどこにあるんですか?」
     気にする様子も見せずにエリが質問する。
    「そこの金庫にあるわ」
     彼はそう言いながら、部屋の隅にある大きな金庫を顎で指した。
    「あそこの中に、全ての鍵が保管しているんですね?」
     私もその方向に視線を送る。「あの金庫は、いつも閉まっているんですか?」
    「使う時以外は、いつも今みたいに閉めてるねん。もちろん、事件の夜もずっと閉めてたで。それが聞きたいんやろ?」
     並川が挑発的とも取れる目付きで私を見つめた。「心配せんでも、警察から何回も訊かれたわ。次は、『盗まれたりした事はありますか?』やろ。少なくとも、俺が働いてから、つまり、五年前からはそんな事件は起きていない。……これで満足でっか?」
     早口でまくしたてた後、彼は嫌みったらしい笑みを浮かべた。
    「おい、何の話や?」
     奥野が立ち上がって我々に近寄ってきた。「事件がどうのこうのって、そんな事まで研究してるんか?」
     怪訝そうな顔つきになる彼に、
    「いや、これはオマケの話です。やっぱり、この子達もあの事件の事が気になるみたいで」
     苦しい言い訳を述べる並川。それでも、奥野は首を傾げながら自分の席へと戻っていった。
     私が部屋中を見回していると、一台のモニターが目に入った。
    「このモニターは何ですか?」
     私の問い掛けに、彼は面倒そうな顔で、
    「ああ、これは監視カメラのモニターや」
    「監視カメラ?」
    「そうや。あんまり知られてないけど、この大学には一個だけ監視カメラがあるねん。そこの映像がここに映し出されてるって訳や」
    「へぇ、そうなんですか」
     もちろん、私はとっくにその事を知っていたのだが、ここはあえて知らないフリをしながら質問を続ける事とした。「じゃあ、事件のあった夜もこれは動いていたんですよね」
    「当たり前やろ」
    「何か変わったモノが映ってたりしませんでした?」
    「変わったモノ?」
    「……そうそう! 例えば女の子とか!」
     突然、エリが会話に割り込んできたかと思えば、この質問だった。これではあまりに露骨すぎるうえに、『監視カメラの事なんて何も知らない』という私の演技も台無しとなってしまう。完全に想定の範囲外の行動である。
     ……しかし、この問い掛けに対する並川のリアクションは、さらに想定外のものであった。
    「馬鹿な事を言うな! そんな訳がないやろ!」
     彼は急に激昂し始めたのだ。「あのなぁ、俺はあの夜もずっとこのモニターを見てたねん! 何かが映ってたら、絶対に気が付いてるわ!!」
    「で、でも、電話をしてたんじゃ……」
     脅えたように後ずさりするエリに向かって、
    「電話をしながらでもモニターは見れるやろ! 俺はなぁ、こう見えても仕事熱心な男なんや! あの夜も、片時も目を離さずにこのモニターを見ていたわ!」
     仕事熱心な男が職務中に自宅へ電話するのだろうか、なんて疑問はさておき、私には彼がここまで興奮する理由がわからなかった。電話はしていても、さぼってはいなかったというアピールなのだろうか?
    「では、その時のテープなんかは残ってますか?」
     私が負けじと強い語気で訊くと、
    「残ってる訳ないやんけ! こういうテープはなぁ、経費削減の為に、次の日にはまた上から録画されるんや!」
     テープが警察に押収された事まで私達が知っているとは、並川も考えていないらしい。「確かに俺はあの夜、自分の家に電話してたで。けどな、これだけは神に誓ってもいい! 監視カメラには何も映っていなかった!」
     青筋を立ててまで熱弁してしまったのが、彼の失敗だったのだろう。
    「ちょっと、並川君。電話してたって……どういう事や?」
     警備室内に、冷徹な声が響き渡った。
     ふと見れば、また奥野が私達の近くまで来ていたのだ。
    「……へ?」
     情けないほど気の抜けた声で返事を返す並川。「い、いや、その、これはですね……」
    「そういえば、やけに最近電話代がかさむなぁと思ってたんや。犯人はおまえか?」
     今までの温和な表情からは想像もできないような険しい表情になる奥野。
    「い、いや、それは……」
     返答に窮する並川をよそに、アイコンタクトを取り合う私とエリ。
    「今日はありがとうございました! 失礼しまぁす!」
     我々はプチ修羅場となってしまった警備室から、さっさと退散する事にした。
    「……で、話を聞いてみた感じはいかがでしたか、ポアロさん?」
     第二学舎の外に出てから、私が開口一番に感想を求めると、
    「うちはそんな間抜けな名前じゃない!」
     ミステリーファンを全員敵に回しそうな発言をした後、「なんか、よくわからんかったなぁ。並川さんって、怪しいような怪しくないような」
     といったあやふやな解答が返ってきた。もっとも、彼女に論理的な説明なんて全く期待していなかったので、
    「それは残念やなぁ」
     素っ気ない返事だけで済まそうとする私。
    「あ、でも、一つだけ気になった事があったわ!」
     エリは嬉しそうに私の肩を叩いた。「凄いやろ!」
    「ああ、やっぱりあんたもアレには気が付いたんや」
     さすがのエリも、並川の不可解な言動には引っ掛かったらしい。そう受け取った私は、意気揚々と言葉を続けた。「いくらなんでも、あんなに頑なになって否定するのは不自然やろ。『神に誓ってもいい』とまで言うなんてさ。かえって怪しいっていうか、意味がわからないっていうか……」
     やはり、どれだけ考えても並川の対応は腑に落ちなかった。『ちゃんと覚えていない』とか、『自分が見た限りでは、何も映っていなかった』とか言うのならばまだわかる。だが、彼は『絶対に何も映っていなかった』と主張した。その自信は何なのだろうか? あるいは、そこまで強硬に主張しなければならない理由でもあるのだろうか?
     ……ってな感じの会話をエリと繰り広げる予定だった。
     ところが、私のスケジュールはおおいに狂わされる事となる。
    「え? それって何の話?」
     一方的に喋る私を、キョトンとした顔で見つめる彼女であった。「うちは、あの警備室にお香が焚かれてあったって事が引っ掛かったんやけど……」
    「は?」
     さすがの私も、エリがそんな点に引っ掛かっていたなんて考えもしなかった。「お香?」
    「うん。ほら、警備室に入った途端、きっつい匂いがしたやろ。あれって、お香の匂いやねん」
    「そうなん?」
     そういうジャンルにはかなり疎い私であった。「でも、それがどうかしたんか?」
    「だって、お香なんて普通、若い女の子がするもんやろ。それに、並川さんって、そんなモノを使うタイプには全然見えないし……」
     そういえば、彼女は一時期お香にハマッていた時期があった。もっとも、おこずかいの大半を注ぎ込むほど熱心に取り組んでいたその趣味も、結局は飽きっぽい性格が災いしてわずか数ヶ月で放棄されてしまったのだが、とにかく動物的感性が鋭い、というよりは、単に鼻が利くエリらしい、本当にどうでもいい感想だった。
    「それは凄い発見やなぁ……。ちなみに、会話内容とかで引っ掛かった点はないですか?」
     一縷の望みをかけて私が訊いてみたが、
    「別にないなぁ。うちは、あんまりそういう事を気にしないタイプやし」
     そういった人間に、『みんなの話を訊きたいから』と言われて引きずり回されている今日の自分……。
     おかげで私は、少し沸き始めていた今回の事情聴取に対するやる気を、大幅に失ってしまった。
    「それにしても、珍しい匂いやったなぁ……」
     まだお香の話題を続ける彼女。「あれはかなりマイナーなお香のはずやで。いったいどこで買ったんやろう?」
    「……なるほど、あんたは嗅覚で事件を解決する探偵なんや。ある意味新ジャンルやなぁ」
     完全に投げやりになった私に対して、
    「うふふ、ありがと! よぉし、じゃあ、次行こうか!」
     元気良くエリが腕をあげる。
    「次って……」
    「当然、城野さんのところやん!」
     逆らうと地味に怖いのもエリの直情的性格だ。やむなく、私は彼女を伴って文学部のある第一学舎へと向かう。
     かと言って、今回は並川のケースと同じように上手く面会できる保障はなかった。むしろ、ほぼ不可能だと言ってもよかった。なんと言っても、並川の場合は『警備員』なので、基本的に所在がはっきりしている。たまたま今日の午後に出勤していたという強運はあったけど、いずれにしても会うのはそれほど難しくない。それに比べて、現在の城野洋二という男について我々が把握している情報は、『文学部の二回生』だという事くらい。そりゃあ、私とエリだって同じ文学部なのだが、それだけでは彼が今どこで授業を受けているのかさえよくわからない。ましてや、一年近くも疎遠となっている彼が、授業後どこで何をしているのか、さらにまだ大学に居るのかすら……
    「あ、ハマちゃん、城野さんは三階の視聴覚室に居るんやって!」
     物事とは理論どおりには進まない。第一学舎で歩いていた女性に尋ねてみると、意外すぎるくらいにあっさりと城野洋二の所在は掴めた。変人だけあって、それなりに有名な存在なのかもしれない。
     いざ、三階にある視聴覚室へと出向いてみると、色黒で背が低く、精悍な顔立ちをした城野の姿がすぐに確認できた。髪型がちょっと変わったくらいで、ほとんど一年前と同じような佇まいだ。
     普段は映像を用いた授業などに利用されるこの部屋で、彼は一人で黙々とレポート用紙にペンを走らせている様子だった。おおかた、またサッカーに関する研究でも行っているのだろう。
    「あの~、城野さんですよね」
     私が声を掛けてみると、
    「いかにも、俺が城野やけど」
     聞き覚えのある声が返ってきた。あいかわらず変わった応対である。
    「お久しぶりです。私は演劇部の濱本綾香です。で、こっちが溝端愛理」
     それに合わせて軽く会釈するエリ。「私達の事、覚えてますか?」
    「おう、久しぶりやん。覚えてるよ」
     淡々と答える城野。「……それにしても今回は大変やったな、桜井が殺されるやなんて」
    「ええ……大変でした」
     思わず私が顔を俯かせる。
    「ええっと、それで今日は俺に何の用なんかな?」
     訝しげに私を見つめる彼。演劇部時代からそう親しい訳ではなかった私達の急な訪問に、少し戸惑っているような様子であった。
    「二月二十一日の夜の事について、ちょっとお話を伺いたいんですけど……」
     おずおずと私が用件を切り出すと、
    「二月二十一日っていうのは……例の事件があった夜?」
     城野は困惑したような表情のまま首を傾げる。まぁ、当たり前のリアクションだろう。
    「はい。あの夜、城野さんは一人でサッカーの練習をしていたんですよね」
    「よく知ってるなぁ! 君らは、警察に知り合いでも居るんか?」
     なかなかの推察力だ。「別に隠す事じゃないから、いいけどさ。その通りや……と言いたいところやけど、厳密に言えば『練習』じゃないで。俺は一人でPKの『研究』をしてたねん」
     細かい指摘を入れる彼。城野にとっては、とても重要な違いなのだろうが。
    「そうなんですか。……ほら、エリ、あんたは何か質問はないんか?」
     私が隣でモジモジとしている彼女を促す。そうでもしなければ、この発案者はずっと無口な傍観者を決め込みかねない。
    「城野さん、おひさです……」
     しぶしぶといった表情で、エリは口を開いた。「質問があるんですけど……城野さんは、桜井さんを殺したんですか?」
     直球勝負だった。
    「はぁ!? なんで俺が殺さないとあかんねん!」
     眉間に皺を寄せながら怒鳴る城野。こちらも、全くもって当たり前のリアクションであった。「あいつとは、俺が演劇部を辞めてから全く接点がなかったんやぞ!」
    「そうですよね!」
     私が慌ててフォローに入る。「すみません、こいつ、頭が悪くて! 悪気はないんですよ、きっと」
    「顔は良いのになぁ、勿体ない」
     忌まわしげに呟く城野。当たっていて遠からずの感想と言ったところか。
    「じゃあ、本当にPKをやっていたんですね?」
     そんな苦言にへこたれる様子もなく、エリが言葉を続けた。無駄に図太さはあるらしい。
    「だから、やってたって! なんなら、その時の資料を貸そうか?」
    「資料だけじゃ、わからないです……」
    「なら、どうすればいいねん!」
     このままいけば、エリが『今から試しにうちとPKをしましょう』なんて言い出しかねない雰囲気だったので、私は話題を逸らす事にした。
    「そうそう、城野さんはあの夜に沙紀さんと会ったそうですね」
    「沙紀さん……ああ、西垣さんか」
     腕を組む城野。「確かに会ったで。久しぶりやったから、別にたいした会話はしてないけどな」
    「図書室に行く途中やったんですよね、沙紀さんは」
    「そんな事を言ってたな」
    「その時の沙紀さんの様子がおかしかったとか、そんな事はありませんでしたか?」
    「別に普通やったけど……なんや、その質問。あの子を疑ってるんか?」
     彼は不愉快そうに顔をしかめた。
    「そういう訳じゃないんですが……」
     私だって、こういう事情聴取的なモノは始めてなので、なかなか上手く話を進められない。「あ、じゃあ、犯人に心当たりはありませんか?」
     再びストレート勝負。どうやら私達は変化球が投げられない投手らしい。
    「心当たり? ある訳ないやん! さっきも言った通り、桜井とはここ最近顔を合わす事もなかったんや」
    「それならば!」
     エリが突如として大声をあげた。「城野さんが練習……じゃなくって研究をしている時に、怪しい物音や人影を見ませんでした?」
     彼女にしては珍しく、的確な問いかけだった。
    「あんなぁ、同じ質問を刑事にもされたけど、そもそもどうしてそんな事を知りたがるねん? 君らには直接関係のない事やろ?」
     猜疑心溢れる目付きになってしまった城野に対して、
    「桜井さんは、うちらの尊敬する先輩やったんです!」
     真剣な面持ちでエリが叫ぶ。「……だから、仇討ちをしたいんです!」
    「仇討ちって言われても……」
     気圧されたように身じろぐ彼。「……別に怪しい物音なんか聞こえなかったで。人影も見なかったな。まぁ、かなり俺が研究に集中してたからって事もあるけどさ」
    「そうですか……」
     がっかりしたように肩を落とすエリ。
     もっとも、そのような重要目撃談があるのなら、彼もとっくに警察に報告しているだろうし、降矢も私達に説明してくれているだろう。あの軽薄警部補が、我々に全幅の信頼を置いていると仮定するならば、の話だが。
    「……これでいいかな?」
     城野は、目線を逸らしながら鬱陶しそうに述べた。「俺も、ちょっと用事があって視聴覚室に来てるねん」
    「あ、すみません。ありがとうございました!」
     ――結局、私達はさっきに続いてまた逃げるようにその場を後にしなければいけなかった。
     第一学舎の外に出た後、私が再びエリに訊いた。
    「どうやった? 手掛かりは掴めた?」
    「全く! 全然! これっぽっちも!」
     吐き捨てるように言いながら、エリは首を横に振った。なんとも正直な探偵だ。
    「そんなもんやって」
     諭すような口調で言葉をかける私。「所詮、あたし達は素人なんやからさ」
    「でも、素人でも名人会に出てるやろ?」
     申し訳ないくらい意味のわからない事を呟く彼女。「うちらかって、頑張れば事件を解決できると思うねん」
    「はぁ……」
     いたって真顔のエリに、私はそれ以上喋る気力も失ってしまった。
    「だけど、残る二人に話を訊くのは、正直気が重いなぁ」
     お構いなしに彼女は話し続けた。「沙紀さんと……島谷やろ。簡単に話してくれるとは思われへんわ。どうしようかなぁ……」
     不安げに眉をひそめるエリだったが、主に話を訊くのはどうせ私なのだ。
    「とりあえず、プレハブに行こうや」
     こういう場合、彼女は私に後押しされたいのである。その目論見が嫌になるほどわかってしまう私は、携帯電話で時間を確認しながら幼馴染の腕を握り締めた。「ほら、今は四時二十分や。きっと沙紀さんはもう部室に来てるはずやで。ちょっと早めに行って、先に話を訊けばいいやん」
    「そうやな!」
     こっちまで嬉しくなるような笑顔で頷くエリ。「ハマちゃんの言う通りやわ! よっしゃ! 行くで!」
     そのまま彼女は走り出してしまった。苦笑いしながら後を追う私。
     果たして、最近太ってきたというエリの自己申告は正直なものだったようで、元々鈍足であるくせにさらにノロノロになってしまっていた我が親友を最終的には逆に引っ張るようにして、さらに言えば私だって、定期的な運動をやめてからほぼ一年もの月日が経っていたので、かなり息を切らしながらなんとかプレハブへと辿り着いたのだった。……今から思えば、別に走る必要はなかったような気がする。
     ちなみに、知らない間に例のドアは修復されていた。ドアが壊れている件について他の部員から疑問の声があがったらどうしようという私の懸念は杞憂に終わった。もうこれ以上、男っぽいイメージを付けられたくない。
     安堵しながら新品のドアを開けると、室内は既に二十名近くの部員によって埋め尽くされていた。集合している人間の全てが、二回生か一回生、要するに島谷より年下だった。演劇部内のヒエラルキーが如実に表れた光景と言える。
     そんな中、西垣沙紀は部屋の片隅で、誰と会話する訳でもなく一人で座っていた。虚ろな瞳で一点を見つめながら体育座りをしているその様子は、実に彼女らしい独特な雰囲気を漂わせていた。
    「……沙紀さん」
     異様なオーラに包まれたような西垣に、意を決して話しかけたのは、やはりエリではなく私だった。「こんにちは。隣に座っていい?」
    「濱本さん達も来たんだね」
     急に話しかけられて驚いたのか、目を大きく見開きながら彼女は答えた。「意外やな。きっと来ないと思ってたわ」
    「ちょっと、島谷……さんに、言いたい事があってね」
    「何を言いたいのかは知らないけどさ」
     ただでさえ吊り上がっている眉毛の角度をさらに鋭くさせる西垣。「下手な事は言わんほうがいいで。確かにきつい表現を使ったりもするけどさ、島谷さんの言う事は基本的にいつも正しいんやから」
    「いつも正しい?」
     私の口元が歪んだ事を見逃すほど、彼女は甘くなかった。
    「そうや。そりゃあ、ただの口やかましい先輩と思ってる人間もいるかもしれないよ。でも、あの人の言葉は常に正論やねん。それを理解できない奴の方が、馬鹿だと私は思う」
     ……早くも、私達と西垣の間を隔てている壁の原因が露呈される形となってしまった。
     どういう訳か、彼女は島谷康夫という人間を必要以上に尊敬しているのだ。いや、もはや“心酔している”と言っても過言ではなかった。演劇部内の口さがない人間達は、『周りにほとんど味方のいない島谷が、単身大阪に出て来て心細く思っている女の子を、同じ多府県出身という強みを生かして取り込み、自らの信者へと育て上げた』といった説明で、この現象を捉えていた。もっとあけすけな人間にかかると、この二人はデキているという事になるらしい。
     私には、西垣がどのような心境で島谷を慕っているのかなんてわからなかった。というより、付き合っていようが付き合っていまいが、はっきり言ってそんな事はどうでもよかった。
     ただ、『敵の味方は敵』だなんて子供じみた事を言うつもりはないものの、やっぱりどうしても彼女と仲良くなりきれない側面があるのは事実であった。自分が忌み嫌い、軽蔑しまくってる人間を必要以上に持ち上げる女性――この価値観の相違は、同じアパートに住み同じ演劇部の在籍している、要するに本来ならば親友になっていてもおかしくないはずの私達を微妙な関係へと導くのに、充分な要素となっていたのだ。
    「……今は島谷について話したいんじゃないんや」
     私がかぶりを振ると、
    「“島谷さん”、やろ」
     西垣は苦々しげな顔で言い放った。「先輩に対して、呼び捨てはおかしいよ!」
    「うちらは、沙紀さんに訊きたい事があるねん!」
     エリが助け舟を出してくれた。帆の破れた帆船のような頼りない助け舟だったが、今はとてもありがたかった。
    「訊きたい事?」
     しかめっ面のまま、彼女は尋ねてきた。「私に? ……何についてなん?」
    「二月二十一日の夜について」
    「二月二十一日って……桜井さんの事件があった日やん」
     西垣も、日付に言及しただけですぐに事件を連想したようだった。当たり前だが、事件の関係者にとっては忘れられない日になっているのだろう。
    「うん。あの日、沙紀さんは大学に居たんやってね」
     さりげない口調で私が訊くと、
    「誰から聞いたの?」
     あっという間に彼女の表情が曇った。「なんで、あんた達がそれを知ってるねん?」
    「ええっと、それは城野さんから聞いたねん」
     苦し紛れな弁明をする私。
    「城野さん? ……ああ、そうやな。あの日、あの人とも会ったもんなぁ。だけど、まだ城野さんと濱本さんに繋がりがあっただなんて驚きやわ」
    「たいした繋がりじゃないけどな」
     一年ぶりに会って、殺人事件について会話するくらいの繋がりだ。「沙紀さんはあの夜、大学で何をしてたん?」
    「何をしてたって……図書室で本を探してたんだよ」
    「何の本なん?」
     身を乗り出すようにして質問するエリに対して、
    「何の本でも別にいいやろ!」
     結局、前と同じパターンだった。「なんでそんな事を訊くねん? ひょっとして、あんたらは私を疑ってるんか?」
    「疑ってはないけど……」
     口篭る私。「ただ、事件解決の手掛かりになればいいかなと思って……」
    「意味がわからない!!」
     西垣は耳をつんざくような金切り声を我々に浴びせかけた。「大きく分けて、二つの意味がわからない! まず、私が何の本を読んでいたかという事が、どうして事件解決の手掛かりになるのかという点と、あんたらがこの事件を自分達で解決しようと考えてる点や!」
     その彼女の言い草が、おもいっきり島谷の影響を受けたものだったので、私は虫唾が走ってしまった。
    「あたし達がどう考えようが自由やろ!」
     売り言葉に買い言葉。自然に私の語気も荒くなる。「沙紀さんに心配される筋合いはないわ!」
    「じゃあ、私もどんな行動をしようと自由やろ!」
    「こっちはただ質問してるだけやん! そんなにキレる意味がそれこそわからんわ!」
    「失礼な質問やからや! どう考えても私を疑ってるとしか思えないやん!」
    「違うねん……うちらは……桜井さんの仇を……取りたいから……」
     脅えたような声でエリが割って入っても、
    「だからって、こんな乱暴なやり方はおかしいと思うわ!」
     そう言うと、西垣は勢い良く立ち上がった。「ごめんやけど、これ以上あんたらの話には付き合えないわ」
     そして、そのまま部屋のもう一方の隅へと去ってしまった。どうしても隅に座りたいらしい。オセロみたいな女だ。
    「怒らせちゃったね」
     突然の口論勃発に周囲がざわつく中、エリが不安げな顔で私に呟いた。「後で謝らないと」
    「ほっといたらいいんちゃう?」
     軽い調子で応じる。「怒るほうが大人げないねん。ホンマに、島谷みたいなヤツやな!」
     自分のやった行為を棚にあげて、西垣をなじる私であった。
    「だけど、肝心の質問ができなかったなぁ」
     深くため息をつく彼女を見て、私が首を傾げる。
    「肝心の質問? また星座か?」
    「違うわ! 事件に星座なんか関係ないやろ!」
     一時間前の誰かさんに言ってやりたいような台詞を吐いた後、「そうじゃなくって、なんでハマちゃんがプレハブのドアを蹴破ったって事を、沙紀さんが知っていたのかって質問やん!」
    「ああ……言われてみれば、そんな疑問もあったなぁ」
     不愉快極まりない西垣の言動によって、途中から本来の趣旨を忘れてしまっていた私に対し、意外にもエリは冷静さを保っていたようだ。だけど、それなら自分で質問しろよと思う。
    「ま、今さら言っても遅いけどね」
     彼女はペロっと舌を出した。描写するのも恥ずかしいほど、古くさいリアクションだ。
    「あ~あ、じゃあ結局、今回も収穫はなかったって事か……」
     落胆して顔を下げる私に対して、
    「収穫はなかった……かな」
     何故か語尾を濁すエリ。
    「なかったかなって……まるで、収穫があったかもしれないみたいな言い方やな」
     間髪入れずに突っ込むと、
    「いや、なんか引っ掛かったねん」
    「引っ掛かった?」
     謎めいたその台詞に、私の表情も自然と険しくなる。「何に引っ掛かったんや?」
    「何にって……沙紀さんにやん」
    「そこはわかってるわ!」
     もどかしさに悶えつつ、もう一度質問する私。「そうじゃなくって、沙紀さんのどの辺に引っ掛かったんかって事をあたしは聞きたいねん!」
    「う~ん、はっきりとした事は言えないんやけど……その、具体的には表せないみたいな、ていうか……」
     色々な方向をキョロキョロと見つめる彼女。これは悩みまくっている時の癖なのだ。「まぁ、とにかく引っ掛かったって事やねん」
     あいも変わらず、円周率を『1から5の間』とするくらい、あやふやな回答。いくら理路整然な説明なんかハナから期待していないとは言っても、ここまで意味不明だと私の頭まで混乱してしまいそうだった。
    「ああ、そうか。……また、その原因がちゃんとわかったら、教えてや」
     追求を諦めて、エリの肩をポンと叩く私であった。
     それにしても、エリはいったい西垣のどこに引っ掛かったのだろう?
     個性的過ぎるファッションも、印象的すぎる化粧も、西垣沙紀という女性にとってはごく自然な姿だった。そりゃあ、私も今回の彼女の言動はおおいに引っ掛かった。正直、引っ掛かりまくった。……だけど、それは『癇に障る』みたいな性格の引っ掛かりであって、事件に関するといった意味での引っ掛かりは、(少なくとも私個人としては)全く感じなかったのである。会話内容に関しても、特に違和感を覚える事はなかった。。機嫌を損ねると口調と表現が荒くなるのも、これまた西垣にとっては当たり前の展開なのだ。
     いずれにしても、肝心のエリがこの調子では、これ以上議論を深めようがない。仕方なく、そこから私達はしばらく無言のまま時間が過ぎるのを待ったのであった。
     つい十日前までは、心を躍らせて訪れていたはずのこの部室も、最近はロクでもない用事でしか来なくなってしまったなぁ。――そんな郷愁に浸るような気持ちも、プレハブのドアがけたたましく開かれた瞬間に吹き飛んでしまった。
     騒音の主は、私達を視界に入れると、即座に近づいてきた。
    「おや、濱本さんと溝端さんじゃないか」
     私の鼓膜を震わせたのは、高くて細い、それでいてとても嫌らしさを帯びた、例えるのなら蛇のような声だった。「君達も来ると思ってたよ」
     細身で、背が高く、目が釣りあがっているといった、いかにもいけすかない容姿のその男を、私は精一杯睨みつけた。しかし、彼は微笑みを絶やさないまま、部屋の一番奥へと歩み始めた。いつもにも増して自信たっぷりな彼の様子は、私の戦闘心にさらに火を付けさせる。
     別に、標準語や東京に偏見は持っていない。だが、一つだけ言える事は、関東人はこの男――島谷康夫のおかげで、小さな大学内とはいえ、もしくは小さな地域内とはいえ、まず間違いなく損害を蒙っているはずだ。それほど、彼が周囲にふりまく悪評判は、凄まじいものであった。
     けれど、だからと言って彼が実際に周囲からの罵詈雑言に身をさらされている訳ではない。島谷には、天性の弁舌能力が備わっていた。内容は別として、彼の発言には無駄に説得力があった。または、そう思わせる何かがあった。惜しむべくは、その才能が主に自身への賞賛、もしくは他人への誹謗中傷に使われているという事だろう。
     よって、面と向かって彼に直言する人間は(少なくとも演劇部においては)ほとんど存在していなかった。あの桜井ですら、島谷に関しては放置といってもいい状態だったのだ。とは言え、それでいてちゃんと主導権を握っていた桜井も、かなり凄い人物なのだけど。
    「全部員の三分の二くらい、か。まぁ、予想通りの人数だね。……新しい演劇部を作るのには、充分な人数だ」
    「あの~、いいですか?」
     突然、西垣が立ち上がって話し始めた。「桜井さんが亡くなって、我が演劇部は大変な混乱に巻き込まれている訳ですが、今後はどのようになっていくんでしょうか?」
     普段は物静かな彼女も、こういった場では常に進んで島谷のフォロー役を買って出るのである。いや、もしかすると、前もって彼からこの台詞を言うように命令されていたのかもしれない。そう思ってしまうくらい、あからさまに島谷に主導権を握らせるような発言だった。
    「よろしい。ではそれについてみんなに説明しましょう」
     我が意を得たりといった表情で、彼は話し始めた。このプレハブで見てきた中でも、最もお粗末な芝居であった。「ご存知の通り、去る二月二十一日、我が部の一員である桜井俊祐君が、あのような形で急逝しました。まず、彼への追悼の意を表明したいと思います」
     そう言って、彼は目を瞑った。ますますもって、腹立たしい演技だ。
    「……我が泉州大学演劇部は、先代の部長である金子さんが卒業して以来、はっきりとした部長職を設けず、半ば集団指導体制のような形で運営されてきました。もちろん、その中で桜井君が重要な位置を占めていたのは言うまでもありません。しかし、それによって責任の所在、もしくは業務執行形態の混乱、さらに言うならば、組織としての腐敗現象が進んでいたのも、見逃せない事実であります」
     あいかわらず持って回ったような言い方である。結局、『桜井体制は間違っていたのだ』という事が言いたいだけだろうに。
    「そこで、桜井君が不在となった今、――不謹慎な言い方になるでしょうが、不在となったのを契機に、我が演劇部は新しい組織を形成するべきだと考えております。けれども、今は悠長に部員全員で話し合って色々と決めていくような状況にはありません。部自体の存亡が問われている、最大の危機といっても過言ではない状態です」
     大きく息を吸う島谷。下手すれば、このタイミングまで前もって練習されていたのかもしれない。
    「よって、今日、二月二十七日を持って、僕を委員長とした『泉州大学演劇部再建委員会』の設立を宣言します。この委員会主導の下、我が演劇部の新しい組織、そして新しいビジョンを作っていきたいと思っています」
    「……ちょっと待ってください!」
     我慢できなくなって、私が思わず挙手する。
    「何ですか、濱本さん?」
     自分の演説を途中で止められたせいか、苛立ったような顔つきで私を見る島谷。
    「演劇部を再建する……この案自体には、賛成できるんですが」
     強い口調で私が言った。「その先頭に、島谷さんが立つというのは、何故なんですか? どこで決まったんですか? 全部員の了承を得たんですか?」
    「……いいかい?」
     薄ら笑みすら浮かべて彼は答えた。「僕は三回生、すなわちこの部で一番年長だ。今日の参加者を見る限り、同じ三回生の人間は来ていない。これで、名実共に僕が一番古株って事になるね。それに、部長代理でもある」
    「島谷さんを部長代理に選んだ覚えがないんですが」
    「一回生が生意気な事を言わないでよ!」
     西垣が私に向かってヒステリックに言葉を浴びせかける。自分だって一回生の癖に。
    「まぁまぁ、西垣さん。気持ちはわかるけど、僕は、開かれたディスカッションを望んでいるんだ。年齢は関係ない」
     たしなめるように島谷が言った。さっきは『自分が一番年長だから』とかなんとか言ってた癖に、矛盾も甚だしい。「僕が部長代理なのは、桜井君に頼まれたからだよ」
    「桜井さん……に?」
     驚きのあまりに言葉を失いかける私。「本当ですか?」
    「本当だよ。『島谷さん、いざという時は、あなたにこの部をお任せしたい』って、生前の彼に言われたんだ。そうだな、あれは二ヶ月前くらいの事かな」
     ……絶対に嘘だった。桜井は、島谷に微塵の信頼も寄せていなかった。むしろ、すぐに派閥作りや抗争を繰り広げる島谷を、彼はひどく嫌っていた。それは、いつも桜井のすぐ近くにいた私が知っている。
     だけど、そんな事をここで言っても水掛け論になるのは目に見えていた。『死人に口なし』。こんな言葉の意味を、まさかこれほど早く実感できるなんて思いもしなかった。
    「しかし、だからと言って島谷さんが即、この部の代表になるなんて、私には納得いきません!」
    「じゃあ、みんなに訊こう!」
     島谷が、急にそれまでの穏やかな声とはうって変わったような大声を出しながら、周囲を見回した。「僕以上に、指導力があって、経験があって、知性があって、この部の代表にふさわしい人物が他にいると思う人間は、挙手して頂きたい! 無論、明確なその根拠も求める!」
     それに応じて手を上げたのは、予想通りとは言え、私だけであった。エリですら、その威圧的な態度に恐縮したのか、ずっと縮こまったままだった。前々から気付いていたが、この演劇部は全く自主性のない人間の集まりである。桜井のカリスマ性は、そんな事情もあいまって形成されていたのかもしれないし、島谷の強権性にも同じ事が言えた。「……この結果は僕への信任、と受け取ってもいいですよね、濱本さん?」
     挑発的な物言いに、歯軋りをしつつ何も言い返せない私だった。
    「う、うちも反対です!」
     隣に居たエリが、声を裏返しながらそう叫んだ。「ハマちゃんと同意見です!」
     空気の読めなさを遺憾なく発揮したような、今さらの発言だったが、それでも私は嬉しかった。
     私を守ろうとしてくれた事……そして、ほんの少しとはいえ彼女が成長していた事が。
    「ふふふ、いずれにしても、結果は変わらない。僕は今日から『泉州大学演劇部再建委員会』の委員長として、みんなの期待に答えられる様な新生演劇部を作っていきたいと思います!」
     島谷が語り終わるのと同時に、西垣が大きく拍手をし始めた。
     自然に、周囲の人間もそれに釣られるように拍手を始める。
     醜悪な、まるで独裁国家のようなその光景に、私は心底ぞっとした。それ以上何も言う気すら起こらなかった。こいつらに、何を言っても無駄なような気がしたのだ。
     負けた。
     私は島谷に負けてしまった。
     昨日までは、いや、ついさっきまでは、島谷を言い負かせると思っていた。信じていた。そんな自分が、恥ずかしくて、情けなくて、悔しかった。
     本当の私は、頭に血がのぼって、言いたい事もろくに言えずに諦めてしまう、弱く小さな人間だったのだ。日頃からエリに偉そうな事を言ってるくせに、結局は私自身も駄目な人間なのだ。
     気付きたくない真実に直面して、私は頭が真っ白になってしまった。
     それでも、時間は前に進む。
     気を取り直すのには短いが、もう一度自分を奮い立たすのには充分な時間が。
    「という訳で、今日の会合は終了します。委員会の人選や、次回の会合につきましては、またメールで連絡します。それまで部員は待機しておいて下さい。では、解散!」
     新委員長、そして恐らく新部長になるのであろう島谷の号令に従い、部員達は大人しく次々とプレハブから去っていく。
     だが、その波に逆らうように彼に近づいていく人間が居た。――もちろん、私とエリである。
    「……どうしたんだい?」
     西垣と談笑していた島谷が、私達に気がついて尋ねてきた。「何か僕に用でもあるの?」
    「島谷さんにお話があるんです!」
     物凄い形相で睨みつけてくる傍らの西垣を無視して、私が言った。
    「ほぉ、いったい何の話かな? もう、委員長の件は済んだ筈だけど……」
    「事件についてのお話です」
     この時の島谷の表情は、私の拙い表現力ではとても表せないほど気味が悪いものであった。とりあえず言える事は、彼は笑ったのだ。冷たく、歪んだような笑顔を作ったのだ。
    「事件って、桜井君の、だよね?」
     わざと言葉を区切るようにたどたどしく声を発する島谷。「まさか、君からそんな話題が出るとは、ね」
    「あの夜、島谷さんは大学に居たんですよね?」
     吐き気すら催しそうになるその顔から目線を逸らしながら、私は言葉を続けた。「何をしていたんですか?」
    「ほぉ、よく知ってるね。どこから漏れたのだろうか……まぁ、日本の警察の情報管理能力なんて、所詮この程度のものなんだな」
     皮肉っぽく呟く島谷。「そこまで知っているのなら、僕がメールをしていた事も知っているだろう。相手はアメリカの友人さ」
    「それを証明できますか?」
    「できるだろう。パソコンに記録が残っているだろうし、友人も証言してくれるさ。だけど、君達に対して証明する義務はないはずだし、そもそも君達に捜査権などないはずだけど」
    「島谷さんが桜井さんを……」
     今回は、さすがに直球勝負とはいかないエリだった。「あの、桜井さんの事件に何か関係しているんじゃないですか?」
     ソフトな表現になっていた。相手を選んで語る能力くらいはあるらしい。
    「溝端さん、それは立派な名誉毀損だ。訴えても充分勝算はありそうだよ。もっとも、君と一緒に裁判所に通うなんて無駄な行為はするつもりはないから、安心したまえ」
    「はっきり言って、桜井さんが亡くなれば一番得をするのはあなたですよね!」
     勇気を振り絞って言い放つ。
     ところが、私の台詞を聞いて島谷は突然大笑いをし始めた。
    「面白い! 君からそんな言葉を聞くだなんて!」
    「どういう意味ですか?」
    「一つだけ言っておいてあげる。今回の事件は、自分が得をする為に桜井君を殺しただなんてありきたりな動機では括れないものだと僕は考えている。……これは、確信に近い推理だ」
     言葉通り、自信溢れる口調だった。もっとも、島谷は日頃からそんな語り口の人間なのだけど。
    「……島谷さんの推理なんか聞いてません」
     嫌な気分だった。なんだか、とても。
    「おやおや、濱本さん。君は、この推理に賛同してくれると思っていたのに、そんな態度を取られるとは残念だよ」
     せせら笑うような彼の声を、もう聞きたくもなかった。第一、これ以上会話をしても、無駄どころか損になりそうな雰囲気であった。傷つけられるだけのような、傷をえぐられるだけのような、そんな感じがしたのだ。
    「……わかりました。話は以上です」
     私は、彼に背を向けて、そのまま帰ろうとした。
    「ちょっと待って!」
     島谷が、そこで初めて焦ったような声を出した。「君にはもう少し話があるんだけど……」
    「私にはないですから!」
     そう言って、私はもう一度だけ島谷の方に顔を向ける。「一年間、お世話になりました。私は、今日をもって演劇部を退部します!」
     頭を深々と下げてやったのだ。
    「う、うちも退部します!」
     エリが付け加えるように言った。そして、足早に歩き始めた私を慌てた様子で追いかけてきた。「ちょ、ちょっと待ってハマちゃん!」
     ――こうして私とエリは、プレハブに、いや……演劇部に別れを告げたのだった。
     去年の四月二十五日を思い出す。
     一年間の思い出が蘇る。
     桜井との思い出が蘇る。
    「……どうしたん、ハマちゃん」
     私の異変に気付かないには、エリはいつも一緒に居過ぎた。私の涙に気付かないには、エリは幼馴染過ぎた。「悔しいのはわかるけど……島谷がトップに立つんやったら、もうあんな演劇部なんてどうでもいいやん。また、これからこの大学のバレー部にでも入ってやで……」
    「うるさいわ!」
     思わず、彼女を怒鳴りつけてしまった。「あんたにあたしの何がわかるねん! 軽々しく言うな!」
    「ご、ごめん……」
     無意味に親友を罵倒してしまった。いや、意味はあっても、エリには関係のない事なのだ。
     空は、完全に色を失っていた。
     薄暗い風景に溶け込まないまま、私とエリは立ち尽くす。
    「……こっちこそごめん」
     素直になれた。「あんたを怒鳴ったりして」
    「ううん、うちはいいで。ハマちゃんには怒鳴られ慣れてるし」
     こんな時だけ、私の求める強さを持つ我が親友、エリ。「いつか、うちもハマちゃんの悩みを聞けるような、大人になるから、待っといてな。だから、泣かんといて」
     余計に泣かせるつもりか! ――私はそう突っ込みながら笑った。こんな時でも、笑い会える友達って素晴らしい。ありきたりだけど、真実だからあえて言おう。「……あんたと友達で良かった」
    「うちもやで!」
    「そうやなぁ、じゃあ明日は色々忘れてパァっとしようや!」
     ゆっくりと帰途に着きながら、力強く、彼女の肩を叩く私であった。「ストレス発散日やわ!」
    「カラオケカラオケ! ひっさしぶりやぁ! 歌いまくろうや! わっしょい!」
     満面の笑みで応じるエリ。
     しかし、彼女に悪いが、私にはカラオケに行くつもりがなかった。というより、別のプランを考えていたのだ。
     お互いの胸に、色々な感情を抱きながら、私達は駅まで歩く。
     ――三月までもう少しの、寒くて暖かい夜だった。
     
  • 【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説④『クリエイショナー』第7話

    2018-10-15 11:59
     そして迎えた、その日の昼休み。
     いつもならば、昼飯を買いに正門近くの購買部まで出向かなければいけないところだけど、この日の俺にはその必要がなかった。……後ろの席に座る同居人が、わざわざ早朝に起きて二人分の弁当を作ってくれたからである。
     色々な意味でドキドキものな代物だけど、この二日間、家事に関する参考書をみっちり熟読していた少女の作品なのだから、たぶん中身は心配ないだろう。いや、きっと大丈夫なはずだ。
     ……とにかくそんな訳で、入学してからずっと校舎の裏で一人寂しく昼食を食べていた俺が、美少女と机を囲みながら彼女の作ってきてくれた弁当を食べるといった、信じられないほどの幸福を享受できる時間――のはずだったんだけど、残念ながらそうはいかなくなってしまった。
     いきなり何かに気がついたかのように席を立ち上がった玲音が、二人分の弁当が入った通学鞄を手に、そのまま廊下側最後列の席まで駆け寄っていってしまったからである。
     ……なるほど、時間に余裕のあるこの昼休みに、さっそく例の『交渉』とやらを実行するつもりなのか。事情を察した俺も、しぶしぶその席――すなわち、星村凛子の席に近づいていく。
     俺の共同生活者が慌てた理由は明快だった。チャイムが鳴って十秒くらいしか経っていないのに、星村がすでに教室の扉に手をかけていたからである。……たぶんこいつも、どっか人気のない場所で一人寂しく昼食を食べているクチなんだろう。
    「お、お待ちください、マザーリア!」
    「…………何?」
     悲痛な声で呼び止める玲音に対し、星村は振り向くこともなく言った。「というか、またあなたなの? 初対面の私にまとわりつくだなんて、どういうつもりなのよ? ……あと、さっきも言ったと思うけども、その訳のわからない呼び方はやめてちょうだい」
     その点はすごく共感できるな、うん。
    「も、申し訳ございません。あの、その、実はマザ……星村さんに、ぜひとも見ていただきたいものがあるんです!」
    「見ていただきたいもの?」
     ようやく、すらっとした長身の肢体を振り向かせる星村。だけどその顔と声からは、あいかわらず何の感情も読み取れない。「……いったい、私に何を見てもらいたいというのよ?」
    「は、はい……」
     小さく頷いた後、玲音は自分の鞄から……厳密に言えばそこに入っていた銀色の封筒から、一冊の本を取りだした。「……とりあえず、これをご覧ください」
     彼女が自分の衣服を犠牲にしてでもこの時代に持ち込まなければならなかった代物――それは、ちょっとした辞書くらいの大きさと分厚さを誇る本であった。
     題名は、『The Word』。……事前に共同生活者から受けた説明によると、十九世紀の初頭にイギリスで出版されたものの、ある事情から、すぐに絶版となってしまった小説らしい。
     実際のところ、玲音が今手にしているのも本物ではなく、『中学時代からずっとこの本を追い求めていたマザーリアが、大学での四年間を全て費やして調査と取材を重ねた結果、創り上げた複製本を、さらに複製したもの』とのことである。
     要するに、高校時代の星村凛子にとっては、“喉から手が出るほど欲している本”であり、“当然ながら歴史が改変されてしまうリスクは充分あるものの、交渉道具としてはこれ以上ない本”でもあるという訳だ。……ああ、やっぱりややこしい話だな、おい。
    「……ど、どうして!?」
     案の定、星村はそれを見るなり、切れ長の瞳を大きく見開かせた。「……どうしてあなたが、その本を持っているのよ!?」
     おお、この女にも一応感情というものがあったんだな、と感心する俺の前で、
    「ああ、それは、その……じ、実は、あたしのパパが、この本の原作者の子孫と知り合いでして……ええっと、特別に、原著をお借りして複製させていただいたみたいですねぇ、はい」
     なんだか、某国民的ロボットアニメに登場する、いけすかない大金持ちみたいな弁明を繰り出した後、強引に星村の手にその本を押し付ける玲音。「……と、とりあえず、実際にその目でお確かめください!」
     少し躊躇するように自分の手元と玲音の顔を見比べてから、『The Word』とやらを手に取った星村は、最初こそ疑心暗鬼な様子でそれに目を通していたものの、
    「ま、まさか……そんな……」
     いつしか、食い入るように顔をうずめるのだった。
     ……どうやら、『交渉』の第一段階は成功したということらしい。
    「どうでしょう? ……本物だということが、おわかりいただけたでしょうか?」
     予想通りのリアクションに気を良くしたのか、余裕めいた口調でそう尋ねる玲音に対し、
    「……で、先峰さん、でしたっけ? 私は、いったいどうすればいいのよ?」
     本から視線を外さないまま、冷徹な口調を取り戻した星村が応じる。「まさか、ただでこの本をプレゼントしてくれる訳じゃないでしょう?」
    「ええ、この本を差し上げる為には、星村さんにある条件を呑んでいただく必要が……」
    「どんな条件でも飲むわ!」
     即答だった。「私がこの本を限りなく欲しがっていることを、どうして初対面のあなたが知っているのか、限りなく疑問でもあるけれど……この際、そんなことはどうだっていいわ。この本を手に入れる為なら、どんな努力や屈辱だって惜しまないつもりだもの。……ええ、たとえ処女を捧げたっていいくらいよ!」
    「お、おい、変なことを言うなよおまえ……」
     それまで少し離れた場所で二人のやり取りを眺めていた俺も、さすがに近づいて興奮した様子の星村をたしなめる。普段はまったく誰とも会話しない彼女がいきなり大声で放ったその衝撃的発言に、当然のごとく教室に残っていた弁当組の注目が集まっていたからだ。
    「……何よ、あなたも今回の件に関わっていたの?」
     そのせいで、初めて言葉を交わす女性から、いかにも侮蔑しきったような視線を浴びる羽目になってしまったけどな。「どうせ、いつかはなくなるものでしょ? ……だったら今失ったところで、何の不都合があるというのよ?」
    「ええっとですね、星村さん。……その『ショジョ』というやつが、どういうものなのかは知りませんが、少なくともあたしが求めているのは、そんなものではありません」
     平然とした顔で語るあたり、玲音はこの単語の意味をよくわかっていないらしい。……まぁ、約五十年後の未来では、それが『天然』という表現に変わっているみたいだからな。
    「じゃあ、いったいどんな条件なのよ?」
    「はい。実はですね……」
    「……れ~お~ん! 何してんのぉ?」
     肝心の条件を言いかけた玲音の体が、唐突に大きく揺さぶられる。
    「きゃあっ!」
    「おいおい、そんな悲鳴あげんといてやぁ。なんかうちがセクハラしてるみたいやぁん。……いひひひひ、いつの間にこんなに成長してたんやぁ。うちにもちょっと分けてぇやぁ!」
     自分よりも頭一個分ほど背の高い少女を背後から抱きしめて、マスクメロン一個分ほど大きな胸を揉みしだくといった悪行の主は……何を隠そう、我が天使こと、東海林張乃であった。
     彼女も真壁と同様、女子サッカー部の熱心な部員であり、昼休みは毎日、昼食を食べる前に部室で開かれているミーティングに参加しているとのことだけど、今日はそれがたまたま早く終わったみたいである。
    「ちょ、ちょっと東海林……さん。い、今はあたし、星村さんとお話ししていて……」
    「ありゃありゃ、またさっきみたいにうちのことを裏切って、ホッシーといちゃいちゃしてたんかいな! あんたはほんまにホッシーのことが好きなんやなぁ! まさか一目惚れかぁ!?」
     言うまでもなく、『ホッシー』とは星村のことだ。例に漏れず、この東海林ですら星村からはまったく相手にされていないんだけど、それでも勝手にあだ名を作っているところが、いかにも彼女らしい。そして可愛い。激LOVE。「……あれぇ、那部坂君もいるやん!? あ、ひょっとして那部坂君も、ホッシーのこと好きなん!? 従姉妹をダシにして、なんとかホッシーとお近づきになろうとしてるんちゃうやろうなぁ!?」
    「ち、ち、違うよ!」
     とんでもない誤解である。俺が好きなのは、星村なんかじゃない。その近くで、無邪気な笑みを浮かべながらはしゃぎまくっている、ボブカットのちっちゃな女の子の方なんだ……なんてことはもちろん言えなくて、「……お、俺はその、つ、付き添いみたいなもんだよ」
    「ひひひ、ほんまかぁ? 怪しいなぁ……」
     悪戯っぽい口調と共にこちらの顔を覗き込んだ後、再び玲音の体を弄び始めた東海林の前で、
    「……どうやら、ここで話の続きをするのは不可能みたいね」
     幼馴染同士(一方は名前を借りているだけなのだけど)の賑やかなやり取りを、絶対零度な瞳で観察していた星村が、俺の耳元で囁いた。「では、こうしましょう。……今日の午後六時に、『黄蛸(おうたこ)崖(がい)』にまで来なさい。そこならまず、他人に邪魔されることなく話の続きができるわ」
    「『黄蛸崖』ってどこだよ? ……そんな変な名前の場所なんて、知らないぞ」
     急に女子に顔を接近させられるという慣れない経験に戸惑いながら、俺が訊き返す。
    「あなた、この街に住んでいて、『黄蛸崖』も知らないの?」
    「四カ月前に引っ越してきたばかりだからな」
     すると星村は、大きな溜息を吐きつつ自分の机に戻り、ノートを破ってわざわざ詳細な地図を描いてくれた。
    「いい? ……午後六時にこの場所へ、必ず来るのよ」
     そして彼女は、地図と共に、あれほど欲しがっていたはずの『The Word』までをも、俺に手渡してきた。
     交渉が終わっていないから、まだ受け取れないということだろうか。変に律義な女である。
  • 【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説③『奥さまは魔王』第7話

    2018-10-15 11:55
     音を立てないように恐る恐るドアを開けてみると、いきなりテンションの下がる物体を発見してしまった。
     それは、見慣れない男物の靴であった。しかも、安月給の地方公務員にはおいそれと手を出すことができなさそうな、高級革靴である。
     隠しもせず堂々と玄関に置かれてあるとは、俺もずいぶんなめられたもんだな、おい。きっと、夫がこんな時間に帰ってくるだなんて、想像もしていないんだろうね。
     ……ああ、なるほど。だから麻淋は、俺の帰宅時刻を執拗に確かめてきたって訳か。要するに、自分達が密会できるタイムリミットを知りたかったんだな。なんとも涙ぐましい努力じゃねぇか。
     玄関をくぐり、短い廊下を抜けて、二十畳くらいのリビングへと侵入する俺。ちなみに説明しておくと、ここはダイニングやキッチンも兼ねた部屋となっている。いわゆるLDKってやつだ。
     しかし、そこに麻淋の姿はなかった。
     続けて俺は、玄関から見てリビングの左手に設置されている、トイレやバスルームを覗いてみた……りしたら、今回の作戦が『浮気妻VS変態夫の戦い』へと堕落してしまいそうなので、外からこっそり様子を伺ってみることにした。
     でも、やっぱり中に人がいるような気配はない。
     だとしたら、残るはリビングの右手にある十二畳の和室と、そして同じく十二畳の寝室ってことになる。
     ……ますます嫌な予感がしたね。
     寝起きレポーターのごとく、慎重に寝室のドアを開く俺。自分が家賃を払っている家で泥棒めいたことをしなければいけないとは、実に情けない限りである。けれど、俺の存在がばれて、不貞野郎に窓から逃げ出されたりしたならば、せっかくの作戦が全て水泡に帰しちまうってもんだろ? ……まぁ、ここは四階だからその心配はほとんどないだろうし、仮にそうなったらそうなったで、麻淋が玄関の靴をどう言い訳するのか楽しみでもあるんだけどさ。それよりも俺は、明確な証拠が欲しかったんだ。妻が言い逃れできないような決定的証拠を、な。
     ところが、寝室にも彼女達の姿はなかった。拍子抜けしてしまうと同時に、少し安堵する俺。やれやれ、最悪の予想は外れたってことか。
     ……だけど。 
     この時点で、俺はようやく気がついたのだ。――うっすらと聞こえてくる、不快なメロディに。
     チューニングという概念を持っていないかのような交響楽団と、ハーモニーという概念を失ってしまったかのような合唱団が奏でているそのオペラらしき楽曲は、周囲の淀みきった空気と相まって、いかにもただならぬ雰囲気を醸し出していた。
     音の発信源がどこにあるのかは、いくら方向音痴な俺でもすぐに察することができたね。
     ……和室だ。
     今のところ荷物置き場としてしか機能していない、和室である。
     おいおい、一体そんな場所であいつらは何をしてるんだよ? それも、趣味の悪すぎる曲を流しながらさ。
     その答えを知る方法は、一つしか思い当たらなかった。俺が意を決して、和室に繋がる襖を開けようとする。
     だが、開かない。どうやら何かが引っ掛かってるようだ。
    「ぬぉぉぉぉ!」
     奇声を発しながらもう一度、今度は力任せに襖をこじ開けてみる。
     ――すると、俺の目にとんでもない光景が飛び込んできやがった。
     いや、ありがちな表現だけど、そうとしか言いようがなかったね。
     畳の上にたくさん転がっている水晶みたいな物体は、秒単位で色を変えながら怪しく発光していた。部屋の奥に設置された神棚みたいな台には、どこの宗教かはわからない、というより色々な宗教が混じったような装飾品と、おどろおどろしい怪物のオブジェが飾られてあった。しかも、そのすぐ近くにある蜀台では、不気味なBGMに合わせるかのように、紫色の炎がめらめらと揺れている。
     ……カーテンによって密封された真っ暗な和室で、こんな光景が繰り広げられていたんだぜ? それを『とんでもない』以外の言葉で表現するなんて、三流大学卒業の俺には到底無理な相談ってもんだろうが。
     衝撃のあまり、尻餅をついたまま動けなくなってしまった俺を見て、神棚の傍に立っていた若い男性が、肩をすくめながら口を開いた。
    「……どうやら、作戦は失敗に終わったようですね」
     両生類の鱗を連想させる柄の燕尾服を身にまとったその男は、やけに長い髪をかきあげた。なるほど、確かに仁美さんが言っていた通り、かなりのイケメンである。
    「こうなることが容易に想像できていたからこそ、私は声高に反対を唱えていたんですよ。……それも、作戦の極めて初期段階からね」
     隣で背を向けているもう一人の人物に対して、皮肉っぽい口調で話し掛ける彼。「さぁ、どうなされるんですか、魔王陛下?」
     ……やがて、魔王陛下と呼ばれたその人物が、ゆっくりとこちらに振り向いた。
     胸部におぞましい紋章が刻まれた黒いレザードレス、そして色とりどりに輝く動物の羽が刺繍された漆黒のマント。銀色のカチューシャを頭にかぶせて、顔のようなピースが連なっているネックレスを首にぶら下げている。
     そういった奇抜な服装の女性は、俺の顔を確認するなり、震えるような声でこう述べた。
    「貴様……見てしまったのか」
     ああ、そっちの作戦はどうだか知らないが、少なくとも俺の作戦は成功だったさ。自分の留守中に我が家を訪れる怪しい男性の姿を確認することができたし、なおかつ妻の本性も知ってしまったようだからな。
     それからしばらくの間、俺と麻淋は無言で見つめあった。
     ――まるで、愛し合う新婚夫婦のように。