「……以上です」

 唐突に前方から声が発せられた。それは、ちょっと舌っ足らずな幼い声であった。おかげで、俺は自分の意識が迷子になりつつあった事実を知る。「以上です……編集長」

 余計だとしか思えない一言を付け足したその声の主が、室内の全ての窓を覆っていたカーテンを、次々と手際よく開いていった。

 舞い散るほこりが煌く中、斜めから差し込んできた太陽光が、机に肘をつけていた俺をも照らし始める。

 我に返った俺は、改めて自分の周囲を確認した。真っ白な防音壁に囲まれたこの部屋には、五人掛けくらいの長机が、前後左右に四十台ほど設置されてあった。単純計算でいくと、二百人くらいは収容できるのだろう。

 ちなみに室内には段差が存在しており、もちろん後方にいくほど高くなっている。要は、映画館のような造りだ。正面には、さっきまで眺めていた大型モニター。こちらも映画館クラスとまではいかないものの、最後列に座る人間がスタッフロールの文字を認識できるくらいの大きさはあるんじゃないだろうか。

 なおかつ、その両側には馬鹿でかいスピーカーも兼ね備えている。

 ……さすが、一流私立大学の『視聴覚室』は豪勢だ。俺が通っている大学なんて、そもそも大人数で映像を鑑賞する施設自体が存在していないのに。

「さて、映像を見た感想は、いかがでしたか?」

 いつの間にか、声の主は俺の真正面に立っていた。三メートルくらい前方で、腕を組みながら俺を見つめていた。友人でも知人でもない二人が語るには、なかなかしっくりくる距離感だ。チェック柄の上着にシックなフレアースカートといった清楚な服装の彼女もまた、夏の夕日の恩恵に全身を預けている。

 今時珍しい、腰辺りまで伸びきった茶色気味のおさげ髪。ダサすぎる黒縁眼鏡。そして、恥ずかしすぎる大きなカチューシャリボン。――そんな野暮ったいアイテムをもってしても、彼女の上品に整った顔つきをごまかしきれてはいない様子だった。レンズ越しでもはっきりと認識できるその眼光が、まるで獲物を見つけたライオンの後を追跡するハイエナのごとく鋭いものじゃなかったら、あるいは俺だって、数秒間くらいは彼女の可憐な姿に見蕩れていたかもしれない。

 それでも、だ。

 今俺と対峙しているこの人物は、紛れもなく『容疑者』であった。

 容疑はもちろん、俺に対する『拉致・監禁』である。

 ……事件は今から約一時間前、具体的に言えば午後四時三十分頃に発生した。

 夏休み前最後のレポート提出を終えて、自分の通う大学の正門をくぐった直後に、俺は突然何者かに肩を叩かれたのである。

 怪訝に思いながら振り向くと、そこには眼鏡を掛けた一人の女性が立っていた。

 俺と同年代くらいに見える彼女は、なかなか可愛らしい顔立ちをしているものの、残念ながらまったく見知らぬ人物だった。

「……杉田 光樹(すぎた みつき)さん、ですね?」

 俺よりも頭一個分くらい背の低い彼女は、上目遣いながら見下すような、という実に器用な視線を送りながら、そう尋ねてきた。

「そうやけど……何かな?」

 正直に言おう。この時点で、俺はもう軽くビビッていた。面識のない人間に自分の名前を知られているという点もあったが、なによりその女性の表情があまりにも真剣そのものだったからである。

 しかも、続けて彼女の口から発せられた台詞は、もっと不気味なものであった。

「ちょっと、今からあたしについて来てもらえませんか?」

 その言葉の意味を悠長に妄想していたのが敗因だろう。気がつけば俺は、細い腕からは想像もつかないほど強い力で、彼女に引っ張られていた。

 つまり、『ええっと、実は今からバイトがあるから無理やねん』なんて嘘をつくにしては気まずいほどの距離を、すでに歩かされていたのだ。

 俺が彼女に当然の質問を投げかけることができたのは、そのまま最寄りの駅まで連れて行かれて、なおかつ電車に乗せられた時点のことであった。

「あのさ、君は何者なんや?」

 ……真面目くさった顔で答えてきた彼女を信用するならば、だ。俺の隣に座っている眼鏡少女の名前は『アンジェリーナ・ジョリー』であり、年齢は『六十億三千五歳』であり、現住所は『ジオン公国』とのことらしい。

 へぇ、ずいぶん変わったプロフィールの持ち主じゃないか。とりあえず、絶対に就職はできそうにないな。

 それでも俺がキレて電車から降りなかったのは、彼女の口から『月川早苗』という名前と、『奥旅亜(おくたびあ)大学』という目的地が出てきたことに起因する。

 自分と最も近しい関係にあった人物と、その人物が通っていた大学――怪しい女性にしぶしぶながらもついて行く動機としては、それでも充分だったのだ。

 果たして、この辺りではトップクラスの偏差値を誇る私立大学、すなわち奥旅亜大学に辿り着いた俺は、ハリウッド女優と同じ名前を持つと自称する女性によって、ある大きな部屋に通された。それは、『視聴覚室』という、実にストレートなネーミングの部屋であった。

 やけに清潔感あふれる室内には、俺達以外に誰も人がいなかった。早い話が、二人きりという訳だ。意味もわからず周囲を見渡していると、やがてスペースコロニーで暮らしていると主張する女性が、素早い動作で部屋中のカーテンを閉め始めた。

 地球よりも以前から存在しているはずのこの女性は、一体ここで何をするつもりなんだろう? 

 俺が首を傾げていると、ふいに視界が明るくなった。部屋の端に設置されている大きなモニターで、ある映像が流れ始めたのである。

 ――それが、冒頭で紹介した映像だった。

「この映像を見た感想、やって?」

 今日初めて出会った少女から睨みつけられている理由を再確認するように、俺はゆっくりと訊き返してやった。

「ええ、そうです」

 コクリと頷く容疑者。

「……特に、ないなぁ」

「おお、そんなひどいことは言わないでください」

 棒読みのように平坦な口調で、彼女は述べた。「……もう一度お尋ねします。映像を見た感想は、いかがでしたか?」

「だから、特にないって言ってるやんか」

「おお、そんなひどいことは言わないでください。もう一度お尋ねします。映像を見た感想は、いかがでしたか?」

「あのなぁ……俺はRPGの主人公ちゃうんやから、なんべん訊かれても同じ返答しかせえへんぞ!」 

 さすがにイラついた俺がそう突っ込むと、

「……ちっ」

 心をえぐるような音が聞こえてきた。「ちっちっちっちっ……」

 無表情のまま、舌打ちを繰り返す彼女。

 おいおい、嘘やろ? なかなか良い突っ込みやったはずやんけ?

 その屈辱的な反応に、俺が軽く眩暈すら感じていると、

「それでは、質問を変えてみましょう」

 今度は冷淡な口調になる彼女であった。「具体的に言えば、質問の表現を変えてみましょう。例えば、ですね。……何か、この映像から感じるものはありませんでしたか?」

 うん? それはどういう意味なんだろう? ひょっとして、この映像には霊みたいなものが映り込んでるのか?

 ……まぁ確かに、“もうこの世には存在しない人物”は映ってるけどさ。

「そうやなぁ……しいて言うなら、『あいかわらずアホな女やな』ってことくらいかねぇ」

 あえて俺はぶっきらぼうに答えてやった。「それ以外に、感想はまったくないわ」

 すると、彼女はあからさまに落胆したかのような溜息を吐いた。

「月川先輩に対して、その言い方はないんじゃないですかね?」

「月川先輩? ってことは……」

「ええ、その通り。あたしはこの奥旅亜大学の一回生なんです」

 ニコリともせずに首肯する彼女。「つまり、月川早苗さんの二年後輩にあたります」

「早苗とは……あいつとは、面識があったんかよ?」

「もちろん。月川先輩にはとても可愛がっていただいておりました。……おっと、これは性的な意味ではないですよ。勘違いしないでくださいね」

「へぇ……」

 どうリアクションしていいのか困っていると、

「ちなみにあなたは、本当に『杉田光樹』さんなんですよね」

 再び、彼女は俺の名前を口にした。

「え?……ああ、そうやけど」

「南波(なんは)大学文学部、三回生」

「よう知ってるな」

「大阪府泉集(せんしゅう)市在住の、二十歳」

「うん……」

「趣味は、電子画面上に構成された擬似空間に浸りながら、快感にもだえ、興奮すること」

「いや、素直に『テレビゲーム』って言ってくれや! それやったら完全に変態みたいやんけ!」

 なんて抗議しながらも、改めてこの眼鏡姿の女性が不気味に思えてくる俺であった。どうしてこいつはそこまで俺の個人情報を知っているんだ? もとい、知ること自体は簡単だろう。でも、どうしてそんな情報を知ろうとしたんだ? 知ったところで、彼女に何かメリットがあるのか?

 いささか心もとない思考能力を駆使している最中、突然予想外の事態が発生した。

 彼女が、勢い良く俺に近づいてきたのである。

「だったら……」

 戸惑ってしまうくらいに顔を近づけながら、彼女は言った。「だったら、ほんまにそれだけなんですか!? ……自分の恋人の、生前最後の映像を見た感想は!?」

 それまでの演技めいたものとは明らかに異なる、心から問い詰めるような口調だった。表情も、鬼気迫るものがある。なるほど、ようやく彼女は真剣に俺と語り合う気になったのかもしれない。

 ……だけど。

「………………」

 俺は思わず視線を逸らし、黙り込んでしまった。

 そりゃあ、いくら『人気(ひとけ)のない公園でアホみたいな独り言を発している』だなんてシュールな映像であったとしても、それがもうこの世にはいない恋人の映像だったならば、残された彼氏はある程度以上の感慨を抱くべきなんだろう。例えば、涙を流して画面に駆け寄ったりするべきなのかもしれない。

 けれど、そんな気にはさらさらなれなかった。

 誓ってもいいけど、俺は早苗がいなくなってから一度たりとも、そして一滴たりとも、涙なんか流していない。

 ――何故ならば、月川早苗という女性に対して、激しい怒りを覚えていたからだ。

 言葉では言い表せないくらいの憤りを、感じていたからである。

「……君には悪いけどさ、やっぱり俺の感想は一切変わらへんで。だってそうやろ? こんな映像を撮影するやなんて、あいかわらずアホな女としか言いようがあらへんやんか。正直、ムカついてしょうがないわ」

 だから、たとえ親の敵と相対するような瞳で睨みつけられようが、そこから軽い殺意すら感じようが、俺は意見を曲げる訳にはいかなかった。

 当然、そういう態度を取ることによって、さらなる詰問を受ける覚悟もできていたのだけど、

「そう、ですか……」

 彼女は意外にあっさりと矛を収めて、もう一度俺から三メートルくらいの距離を取るのであった。「まぁ、いいでしょう。要するに、あたしはなおさら作戦を決行しなければいけなくなったってことですね」

「作戦……?」

「それでは、本日の用件をお話ししましょう」

「用件って、この映像を見せるだけちゃうんか?」

「まさか、それだけの為にあたしがこんな犯罪めいたことを行ったとでも?」

「ああ、自覚はあるんやな」

「罪悪感はないですけどね」

 涼しい顔でそうのたまった後、彼女は大型モニターを指差した。「さっきの映像ですが、実は生前の月川先輩が監督として製作していた、『自主映画』のワンシーンなんです」

「自主映画、ねぇ……」

 その解答を聞いたところで、俺はちっとも驚かなかった。むしろ、軽く安堵してしまったくらいである。もしこの不自然かつ不気味な映像が『生前の月川早苗の日常を描いたドキュメンタリー』だとすれば、それはすなわち彼女は亡くなる前から、すでに脳が死にかけていたってことをも意味するだろうからな。

 だいたい、二ヶ月ほど前から、また早苗の悪い癖が始まったということくらいは、さすがに俺だって感づいていたさ。もっとも、その為に彼女が髪型を変えたのかどうかについてはとうとう聞きそびれてしまったけど、とにかく再びくだらない創作熱にとりつかれている事実を見逃すほど、俺と早苗は遠い存在でも、短い付き合いでもなかった。

 まぁ、どうせいつものように、早苗は早苗によって早苗の為に突き進んでいたのだろう。そういえば、あいつの尊敬する人物の一人は、エイブラハム・リンカーンだった。

 ……ただし、いつもと違う点も一つあった。

 早苗が良からぬ計画を立てた場合、常に俺は『雑用係』というありがたい役職を頂戴して働きまわらされる運命にあった。リンカーンを尊敬していたくせに、あいつは俺を奴隷のようにこき使っていたのである。

 だけど、今回に限って、彼女はまったく俺に教えてくれなかった。

 ……何を創ろうとしているのか、あるいは、何をしようと考えているのかすらも。

「そうか、あいつは自主映画を作ってたんか……」

 複雑な心境を隠すかのごとく、余裕めいた笑みを浮かべる俺を、

「厳密に言えば、さっきお見せしたのは、その『自主映画』のラストシーンなんです」

 あいかわらずまっすぐ見据えたまま、彼女はそう付け加えた。

「ラストシーン? じゃあ、その他のシーンも見せてくれよ」

「……へぇ、興味がなさそうなわりに、他のシーンも見たいんですか? あなたって不思議な人ですね」

「一応、やけどな。ラストシーンだけ見せられても、意味がわからんしさ」

 何かを見透かされたような問い掛けに、動揺しながらも俺が応じる。「ほら、最初から通して見れば、俺かってまた別の感想を抱くかもしれへんやろ」

「しかし、残念ながら他のシーンをお見せすることはできません」

「なんでやねんな?」

「簡単なことです。このシーンしか撮影されていないからですよ」

「はぁ? じゃあ、ラストシーンから撮影を始めたってことなんかよ?」

 どんだけ変則的な撮影スケジュールなんだ。プロでもあるまいに。

「『ラストシーンが一番思い入れのあるシーンやから、まずはここから撮影するわ』……月川先輩がそう言っていたような気が、しないでもない今日この頃です、はい」

「いや、そこははっきり思い出してくれよ! だいぶ大事な部分やろ!」

「そこであなたには」

 またもや俺の突っ込みをスルーした彼女が、あくまでも淡々とした口ぶりでこう続けた。「月川先輩の代理監督として、この映画を完成させてもらいたいんです」

 視線と同時に、彼女の指先は俺に向かってまっすぐ伸びていた。

 だからといって、俺がすぐに彼女の真意をまっすぐ理解することはできなかった。

「代理監督……? どういうことや?」

「本来監督業務を行うはずだった人間に代わって、別の人間が監督業務を行うことを指します」

「言葉の意味はわかるわ! そうやなくて、なんで俺がそんなことをせなあかんねん?」

「 “月川先輩の一番近くにいた人だから”。……これで、理由にはなりませんか?」

 恐らく自分の台詞にすっかり陶酔してしまったのだろう。最も肝心であるはずの俺のリアクションを見る前に、眼鏡の奥のまぶたを閉じてしまう彼女であった。本末転倒にも程があるってもんだ。 

 なるほど、確かに『死んでしまった恋人の跡をついで、未完の映画を完成させる』だなんて、話としてはなかなか綺麗だろう。涙腺の弱すぎる奴ならば、この説明を聞いただけで瞳を潤わせてくれるかもしれない。

 だけど、あいにく俺はそんな綺麗事に騙されるほど甘い人間ではない。ついでに言えば、眼鏡娘の戯言みたいな願望に付き合うほど、お人好しでもない。

 だいたい、いくらど素人が作る自主映画とはいえ、俺に監督業なんて仕事が務まるとは到底思えなかった。残念ながら俺には、そういう芸術的感性がまったく備わっていないのである。

 小学校の頃、俺は当時好きだった女の子に、誕生日プレゼントとして一枚の絵を贈ったことがある。大きな画用紙に、色鉛筆でその子の似顔絵を書いた、今から思えば実にちゃちなプレゼントだった。それでも当時の俺は、なかなかの力作だと満足していた。もちろん、きっとその女の子も喜んでくれるだろうと確信していた。

 ところが当の彼女は、その絵を見るなり、たちまちくしゃくしゃに画用紙を丸めて、なおかつ顔もくしゃくしゃにしながらこう言いやがった。

「……なぁ、うちってそんなにフランケンシュタインに似てるんけ?」

 それ以来、俺は自分で何かを創ろうなんて気持ちを、まさしくフランケンシュタイン博士が人造人間を見捨てたかのように放棄してしまったのだ。

「断る」

 いずれにしても、俺の回答は一つしかなかった。「申し訳ないけど、君の頼みは受け入れられへん」

 思えば、この強引な女性と出会ってから初めて明確な意思表示を示したような気がする。ちょっとだけ達成感。

「あなたでなければ務まらない、と言ってもですか?」

 なおも食い下がる彼女に、

「ああ。むしろ、俺には絶対に無理やな。そもそも、あいつとこれ以上関わりたくないくらいやし」

 さっきも説明した通り、俺は早苗に対して怒っていた。 “激怒していた”、と表現しても一向に差し支えないだろう。

 そんなやつの手助けなんて、してやる気には毛頭なれなかったさ。

「……ま、そうでしょうね。あなたが簡単に引き受けてくれるだなんて、あたしもさらさら思っていませんでしたよ」 

 今度も、あっさりと引き下がる彼女。余計に不安を抱かせる対応である。「さて、ではここで “例えば”の話をしてもよろしいでしょうか?」

「あかん」

 さっきと同様、即答してやった。

「え? あかんのですか?」

 さすがに予想外だったらしい。彼女はあっけに取られたような表情を浮かべた。「ま、まだ内容も話してへんのに……」

「俺は、仮定の話が大嫌いなんや」

「ますます、変わった性格のお人ですね。杉田さんがこれまでの人生において、どうやって数学のテストを乗り切ってきたのか、ちょっと興味が沸いちゃいますよ」

「心配せんでも、そんな話が嫌いになったのはここ最近のことや」

「ええっと、ちなみに、他に苦手なジャンルとかはありますか?」

「そうやな……未来を見透かしたような話も嫌いかなぁ」

「これは一層困ったことになりましたね。予定では、ここから仮定の話であなたを追い込んで、未来の話で説得するはずだったんですが……」

 悩むように頭を掻いた後、「……まぁ、しょうがありません。では、予定を繰り上げましょう」

 やおら、彼女が自分のスカートのポケットに手を入れた。この時、本気で凶器みたいなものが出てくるんじゃないかと疑ってしまった俺を、どうか責めないでいただきたい。責めるならば、静かな殺気のようなものを常時放っていた、眼鏡の女性の方にしてほしい。

 そして、彼女が取り出したもの――それはまさしく凶器であった。

 信じられない光景だった。なおかつ、信じたくない光景でもあった。

 いかにも浮ついた小学生の男子が好みそうなファンシーな柄の封筒が、絶え間なく外から注ぎ込む光の粒子によって、残酷にもはっきりと照らし出されていたのである。

 いっせいに血の気が引いてしまうとは、きっとこのことだろう。大袈裟だな、と思われるかもしれないが、本当に俺は卒倒寸前状態にまで陥ってしまった。

「ちょ……なんでそれを君が持ってるねん!?」

 初期化してしまいそうな脳を奮い立たせ、なんとか言葉を紡ぎだす俺の前で、

「月川先輩から預かりました」

 自分のポケットから取り出した秘密道具の効果を目の当たりにして、いかにも満足げに頷く彼女であった。「では、ちょっと中身を拝見させていただきましょうか。……へぇ、意外に繊細な字を書かれるんですね。ええっと、『ぼくは、月川早苗さんのことが、ずっと前から……』」

「やめろ! ……やめてください!」

 ありったけの声を振り絞って俺は叫んだ。眼前の女性の暴挙を制止する為に、あるいは、過去の自分の暴挙を悔いるように。

 ……自分で言うのもなんだけど、俺はかなり己を律することができる人間だと自負している。

 そんな俺でも、気の迷いみたいなものが生じたことが、これまでの人生で三回ばかりはあった。

 その内の二回目――それは、月川早苗と出逢ってから一年くらい経った、ある夏の日に発生した。

 当時小学六年生だった俺は、いつものように、そう、それまでの一年間ほとんど毎日そうしてきたように、早苗と公園のベンチで肩を並べて座っていた。

 あの日は確か、午前中に雨が降っていたはずだ。夕刻になっても、地面を濡らした雨の匂いがまだ残っていたのを記憶している。

「なぁ、早苗……」

 久しぶりに、俺が発言した。といっても、それまでずっと二人とも無言だった訳ではない。この日も例によって、俺達の会話はほとんど早苗の独演会と化していた。早い話が、一方的に早苗が喋って、一方的に俺がその話を聞かされるといった構図である。彼女の話題が途切れた、ほんのわずかな空白を埋めるようなタイミングで、俺は口を開いたのだった。「……俺と付き合ってくれへんか」

 ああ、どうしてあの時の俺は、そんな血迷ったかのような一言を放ってしまったのだろう。前の日の晩飯に、幻覚作用のある食材でも混ざり込んでいたのだろうか? あるいは、時計の短針がかなり元気をなくしているような時刻だというのに、未だパワーを失っていない灼熱の太陽が、俺の頭に何らかの異常を発生させていたのだろうか?

 なんにしても、その台詞を吐いた直後の俺の喉がカラカラに渇いていたのは、けっして暑さだけが原因ではなかっただろう。

「付き合う? ……付き合うって、どこへやねん?」

 少しだけ沈黙した後、早苗は同年代の女子に比べてやや大人びていた顔を軽くしかめさせた。

「そういう意味ちゃう」

 震えた声で、俺は続けた。「その、なんていうか、俺と恋人になってほしいねん」

「ええっと、さ……」

 速射砲以外に適切な比喩が見つからない彼女の口ぶりも、さすがにこの時ばかりは悠然としていた。「その『恋人』ってのになったら、一体どうなるんや?」

「そりゃあ、一緒に遊んだりとか、一緒に話したりとか……」

 正直に言えば、すでに小学校で保健体育の授業が始まっていたから、もう少しだけ恋人同士がする具体的な行動も知っていた。だけど、その件については一切触れなかった。ていうか、当然触れられなかった。「と、とにかく、そんな感じや。な、おもろそうやろ?   ……いや、絶対におもろいと思うで! もう腹抱えて笑ってまうくらいに!」

 すっかりしどろもどろになってしまう俺を見て、ますます大きな瞳を細めた早苗は一言、

「……じゃあ、今と全然変わらへんやん」

 とだけ呟いてから、当たり前のように自分の話を再開させた。

 ある一件のせいで三ヶ月ほど目線も合わせていない母親の話、生意気すぎる妹の話、気に食わない女友達の話……要するに、毎日のように俺に聞かせてくれた、というより無理矢理聞かせてきた愚痴を、再び速射砲のような早口でまくしたて始めたのである。

 そこに、もう一度俺が話題を変えるチャンスなんて、まったく見出せなかった。

 ……ここで素直に諦めておけば良かったものの、何をとち狂ってしまったのだろうか。俺は自分の想いを口頭ではなく、文書で伝えようというアイデアを思いついてしまった。小学生にとって、思いつきとはすなわち実行である。少なくとも当時の俺に、深慮遠謀なんて概念は存在していなかった。

 そして次の日の夕方、俺は早苗の顔を公園で見つけるなり、一通の封筒をランドセルから取り出した。一時間かけて選んだファンシーな柄の封筒の中には、三時間かけて書いた手紙が入っていた。文面について詳しく触れるつもりは毛頭ないけど、とりあえずお察しの通り、それはいわゆる『ラブレター』の類であった。

 ちなみにこの日、俺達が交わした会話は、

「これを読んでや」

「え? ……ああ、ええけど」

 だけだった。何故ならば、手紙を渡した直後に、俺が脱兎のごとくその場から逃げ出したからである。

 ……果たして次の日。公園のベンチで座っていた早苗は、笑顔を浮かべながら俺を迎え入れてくれた。

 ただしそれは、愛する人に対する柔らかな笑顔というより、むしろ逃げ惑う無辜の民に対する、恐怖の大魔王的な笑顔だった。

 理由は簡単である。彼女が迎え入れてくれたのは、けっして恋人としての俺ではなかった。『ラブレター』という、周囲に公開されたならば小学生といえども社会的生命が絶たれてしまうほどの外交カードを手に入れた早苗にとって、もはや自分の意のままに操れるであろう、奴隷としての俺だったのだ。

 こうして見事に俺は、『早苗さんと、もっと深い関係になりたい』(ラブレターから抜粋)という願望を叶えることに成功した。言うまでもなくその日から、月川早苗の忠犬として、忙しく働きまわる日々が始まったのである。

 夏休みの宿題の手伝い、目的地への自転車による送迎、買い物の荷物持ち――つまり、それまでかろうじてフィフティフィフティだった関係が、完全に主人と奴隷の関係にまで転落してしまったって訳だ。

 俺の尊厳が、名誉が、時間が、金が、一人の女性によって次々と奪われていく日々は、それから早苗の呼吸が止まる日までずっと続いた。

 言い換えるならば、ようやく最近になって、俺はそんな地獄のような日々から晴れて解放された……はずだった。

 なのに、である。

 今日初めて出会った女性が、いきなり俺に提示してきたのだ。……月川早苗しか持っていなくて、月川早苗以外に使用を許可した覚えがない、物騒な外交カードを。

 はっきり言って、その場で卒倒しなかっただけでも、俺を褒めていただきたいものである。

「さて、どうなされますか? これでもあなたは、あたしの要求を受け入れないつもりですか?」

 硬直してしまった俺を見て、いまや拉致・監禁だけではなく、脅迫容疑にも問われるであろう眼鏡少女が、ふいに思いもしない表情を浮かべた。

 ……それは、勝ち誇ったような笑みであった。まるで、自分の我侭が相手に通じて、はしゃぐ子供のような無邪気な笑顔。

「……なんや、笑えるんかよ」

 てっきり、笑顔を忘れた女の子だと思っていたのに。てっきり、『怒怒哀怒』みたいな女の子だと思っていたのに。

「なんで、ですか?」

 今度は、対面の女性が硬直する番だったようだ。何か信じられないものを見るような目つきで、彼女が俺に尋ねてくる。「……なんで、あなたも笑ってはるんですか?」

 少し怯えるような仕草が、やけに年相応の少女っぽくて可笑しかった。やっぱり、心の芯まで凍りついているような女の子ではなかったらしい。

 まぁ、彼女が訝しがるのも至極当然のことだろう。脅迫相手が、唐突に微笑み始めたのだ。きっと、ショックのあまりに頭がおかしくなったとでも思ったんじゃないだろうか? 

 とはいえ、俺は微笑まずにはいられなかった。自然と頬が緩むのを、止めることはできなかった。

 どうして笑っているのか、だって? 答えは複雑かつ、実に単純である。

 ふてぶてしい表情で、他人を馬鹿にしたような口調で、威風堂々とした態度で、脅迫道具である『ラブレター』を見せつけながら、自分の要求を突きつけてくる女の子を見ていると。

 ……なんだか、怒りよりも先に、懐かしさの方が先行しちまったのさ。