「おーい」

 彼が部屋の外でドアをノックしているのを見て、私は飛び起きた。

 時刻すでに午前6時。彼との集合時間である。

「わぁああ、ごめんなさい…!」

「ほらー、やっぱりお前寝坊するんじゃんかよー」

 今日は二人で海に行く予定だ。少し不貞腐れた彼も可愛いけど、早起きが苦手な彼を無理矢理海に誘ったのは私である。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 そんな私の脳裏に、昨夜の回想が蘇る。

 午前三時に起きた私は、寝ぼすけな彼のためにサンドイッチを作っていた。慣れないながらもやっとのことで完成させた後、お弁当をしっかり包んで準備を済ませると少しだけベッドに横になった。横になった、筈だった…。

「ごめん…。でもはい、これ」

 私は出かけるばかりに準備されたランチボックスを取り出す。

「え、なにこれ! なにこれなにこれ、許す!」

 すごい勢いでランチボックスを開き、サンドイッチにかぶりつく彼。その嬉しそうな様子に私もほっこりする。

「急いで準備する、ちょっと待ってて!」

 口の中を大きく膨らませながら、彼が頷く。オッケー、の合図とともに。そんな子供のままのような屈託のなさのある彼が大好きだ。

 

 海に着くと、最初は乗り気ではなかった彼も一気にご機嫌になっていた。

「うみはーひろいなー!」

 二人で手をつなぎ、歌いながら浜辺を歩く。爽やかな青空とキラキラと陽の光を反射して輝く海。じりじりと照りつけるような日差しも苦にならないほど、私たちは思いっきりはしゃいでいた。

「あ、ねぇねぇ一緒にジュース飲もうよ!」

 海の家のパラソルを指さしながら私が言う。オレンジジュースを選ぶ私に、子供みたいだなと笑う彼。幸せだった。1つのジュースに2つのストローをくれた海の家のおじさんは、きっと仕事ができる人に違いない。

「ねぇねぇ、一緒に飲もうよ」

「嫌だよ。恥ずかしいんだけど…」

 抵抗する彼に半ばストローを押し付けると、堪忍したのかやれやれと飲み始めてくれた。誰よりも格好良くて優しくて、自慢の彼氏だ。

「お前、飲みすぎ! 俺の分ないんだけど!」

「だって暑いんだもん、早いもの勝ち!」

 私たちは口ぐちに言い合いながら、夏の一日を満喫していた。




 楽しい時間は過ぎるのもあっという間である。

 いつの間にか夕暮れが訪れ、昼間にはあれだけ人の多かった浜辺もどこかひっそりと寂しげになってきていた。寄せては返す波を眺めながら、どことなくロマンチックな雰囲気にお互い照れてしまう。

「ちょっと目閉じてて!」

 彼に言うと、私はその辺りに落ちていた小枝を拾って二人の名前を書き始めた。調子に乗って、相合傘もつける。さらさらと書きながらも、相合傘なんて久しぶりに書くなぁなんて指が照れるのを感じながら。

「はい! もー、いいよっ! 見てみて! ほら、ずっと一緒にいてね」

 私は彼に微笑みかけた。きょとんとした表情の彼が浜辺に書かれた相合傘に視線を落とす。

 彼も、きっといつもの照れた様子で、「おう」なんて応じてくれるものだと思っていた。が。

「……」

 彼は無言だった。寧ろ、端正な眉を顰めて何か言いたげな顔をしている。心ここにあらず、といった表情だった。

 こんな彼は初めてだ。うまく言葉をつづけられず、やっとのことで喉の奥から言葉を絞り出す。

「ねぇ、どうしたの、急に…」

 夏のじっとりした暑さに唇が渇くのを急に感じながら、私は彼をじっと見つめた。

「何でもないよ。ごめんな。なんか変な空気にさせて」

 ぽんぽん。彼はいつもの様子で、私の頭を撫でてくる。その手が、まるで世界中に熱気を奪われたほどに冷たいことに気づき茫然とした。そんな私の様子にも気づかず、遠い目で夕方の海を見つめる彼。高い鼻に、シャープな顎。その横顔は、不気味なほど整っていた。

「大好きだから。うん、大好きだから…」

 急に抱きしめてくる彼。痛いぐらいに強く、強く。その不審さに気づきながらも、私に何も言わせないかのようにぎゅっと抱きしめる。

 彼のこのときの大好きが、悲痛な叫びに聞こえてならなかった。

 この夏の終わりに精一杯抵抗するかのように、蝉の鳴き声がただただ虚しく浜辺に反響していた。