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  • 【名言と愚行に関するウィキ】制度としての名言3

    2024-06-02 14:33
    550pt
    名言とギャグ
    センスの死
    現代的な病
    の3本だてです!
    • 名言とギャグ

     お笑いの世界での成功を夢見る全国の若手芸人たちが年に1度、賞金1000万円と次年度以降の大ヒット(=仕事)とを賭けて戦う『M-1グランプリ』において、島田紳助(敬称略。以下、芸名等について同様)やダウンタウン松本人志が、コメントや審査を担当するという形で「頂点を極めた雲の上の存在=神」としての役割を演じ、上から見下ろすようなコメントをする風景に対して、これといった違和感を覚える必要はなかろう。その種の儀式性をはらむこの舞台が、若手たちに「神聖さ」を感じさせずにはいられないこともさして不思議ではなく、それが求められ、しかも上等に機能していることも理解できるからだ。
     だが、こともあろうにこの聖地で、島田紳助が気の利いたギャグや警句めいた芸指導の代わりに、「感動」を安売りしはじめたとすれば(2003年、2005年ともに複数回「感動」と発話した※)、松本人志を含む誰もがテレビカメラから目線を逸らしながら、まるで偶然にもその刹那にだけは別の案件に思いを馳せていたのだといわんばかりの態度で接せざるを得ないのも致し方ない。視聴者は、不幸にも「感動」の文脈に巻き込まれた若手芸人が、テレビカメラにむかって、斬新な「ボケ」「ツッコミ」を誇示する代わりに「ありがとうございます」という穢(けが)れた駄言を呟く姿を目撃することになる。それに続く、「なるほどぉ……さて」といった禍々しい番組回しを余儀なくされた司会者の人工的な無表情と、この事態の推移とを目にすれば、東大生になるか医者になるかお笑い芸人になるかで少々悩んだあげく、結局凡庸なる東北大生になるよりなかった私が苦々しい思いを持つことも許されるだろうか。

     私は何も、これが島田紳助ではなく笑福亭鶴瓶であったなら、司会・今田耕司の「さっきから感動しすぎちゃいますのん……年末やからて、丸い顔して」程度の発言で、冗長な即席感動から最低限の笑いの文脈をかろうじて奪い返せただろうことをもって、権威性の暴力とお笑いとの縁遠い関係について論及したいのではない。島田紳助という偉大な芸人が、近年では、テレビに映るたびに「感動」を連発することのうちに秘められたある種の取り返しのつかなさと、皮肉にもそれが表している氏の成功=安定、即ちテレビにおける「お笑い以外もできる人」という役割の偽らざる獲得ぶり、そこに至る過程の一つとなったと目される感動生成番組への出演――やしきたかじんらによって、ことの残念さは当時から既に指摘されていたが――に対して、特段の個人的な悪意を伝えたいわけでもない。
     面白さを出すための最良の方法が「それ面白いね、と言うこと」では決してないのと同様、感動を演出するためのそれが「感動した、と発言すること」とは真逆の何かに他ならないという真実に対する氏の無頓着ぶりを示したいのでもなければ、「明石家さんま、千秋、ダウンタウン、ロンドンブーツ」といった反=感動的な芸人を並べ立てて、その下にそれと照応させる形で、これみよがしに「島田紳助、久本雅美……」などと書き連ねて差異を際立たせたいわけでもない。

     そうではなく、笑いの文脈、笑いを作りだすためのセンスと、感動の文脈、名言を生み出すセンスとの間にある、否応ない二律"排反"性・相互排他性をもう一度確認しておきたかったのである。
     わかちがたく結びついている感動と名言との関係は、そのまま権威と支配形態との関係になぞらえることもできよう。「堅く力強く」構築された感動や権威が自らの力を保持する上で恐れるべきものは、もはや相手にならない脆弱な反論やパフォーマティヴな反体制的運動ではなくて、「ずらすもの、調子を狂わせるもの」としての「笑い」に他ならない。
     学校の先生が何かクラス内で生じた道徳的問題――例えば、いじめ――を発見して昂ぶっている場面を考えよう。平素は取り立てて嫌われたりバカにされたりしているわけではない、この大声を張り上げる大人を前にして、生徒は一応静まり返っている。教壇に立つ彼は、生徒が反省の色を見せ、従順になり始めるのを確認した上で、次第に自らの怒りの言葉を、感動の旋律と名言の文脈とに調和させはじめる。この手法で長年、彼はクラスをまとめてきたつもりである。
     ここでふと、いじめとは何の関係もないクラスの男子が、前の席の別の男子にちょっかいを出して小さな声でクスクス笑いはじめる。
    「人の話を真面目に聞け~~ッ!!!!!」
     いじめを発見した時よりもさらにいっそう顔を赤らめた彼が怒号をあげる。全てを「教室システム」の内側に回収し直し、いつものように平和が戻ってくるという筋書きを通すために――。

     この皮肉な出来事の前後に、「先生-生徒」「指導する-指導される」「咎める-咎められる」「善を教える-善を教えられる」といったような関係性の全体は、何一つ転換されてなどいない。むしろ平均的には強められてさえいるのかもしれぬ。
     ただ、ごくわずかに弛緩し、文脈をずらされ、「調子が外れた」のだ。ある一人の生徒の悪意ない「笑い」を通して、生徒のうちの何割か――いや数名、ことによるとたったひとりだけ――が、この仕組みの中にある奇妙さ、各人の役割、演劇めいたもの、戯画性、そして名言性といったものに、センスや程度の差はあれ、薄々気づいてしまったのだ。つまり、どんなに荘厳な宗教的儀式(簡単な例で言えば、黙祷や葬式)も、漫才の席上に乗せられれば、さも真面目そうに漫才師に演じられれば演じられるほど、笑われる「オチ」がつくより他にないのと同様に、ずれた-ずらされた真面目さは容赦なく滑稽なのである。
    「感動すべき場面」で感動しなくなること、「名言」が通用しなくなること、そうした文脈の生成を妨害されることほど、教育者(あるいは上司等、「教育者の役割を担う者」)にとって避けるべき事態はないと体験的に感じていた教師は、だからこそ、いじめと比較すればそれほど「悪い」行為をしていないかに見える生徒の態度を厳しく咎めたのである。
     しかし実は、「感動」や「名言」が常に通用しているかに見える場面においても、必ずしも本当にそうなのではない――他ならぬ「ギャグセンス」のある者によってのみ、「感動」と「名言」は心の内でそれとなく反復され、笑われ、面白い話題の糧とされているに違いないのだ。だから休み時間になればいつでも、「先生の怒り方」を真似してみせる生徒が現れ、そこにいる全員を救ってくれる。

     頑なに名言を口にし続け、「感動を呼ぶ語り」を病的なまでに反芻する連中に、ひとたび「面白い話題」をふると、途端に彼らの口が鈍重になり、場合によっては場を凍りつかせてしまうのも、世界・社会・他人のありかたに悲劇的なものばかりを見てとろうとする輩がネット上に公開している「日記」とやらが例外なく笑いを提供しないのも、一方で洗練された「ネタ」を提供する者が、必ず何かしら言葉の端々に「知性」を感じさせるのも、笑いと感動との生成過程における不可逆性・不可侵性の構造が存在するからである。つまらない説教を垂れる人間に限って、オヤジギャグ(=名言的なもの、飽きることなく繰り返されるもの)を口にするではないか。
     感動が権威であり名言が(家庭的・学校的・職場的)支配形態となるような一種の通俗的あり方から逃れるための最良のスキルは、ギャグセンスの習得を除いて考え難いし、教育者的な役割を担う者にも「感動」「名言」以外の教育作法を身につける必要があるのだと仮定すれば、それもまた、ここで私がそう呼ぶところの「センス」以外ではありえない。

    ※なお、島田紳助の「感動」発言について、筆者が確認した限りでは、2005年のM-1グランプリではマイクに拾われたのは2回だけである。ただし、音声が入っていない場所で口が「KANDO」と動いているのをビデオで確認した。視聴者とは無関係の場面でも「感動」を口にしているのだとすれば――事態はいささか深刻である。

    • センスの死

    「犬は、近所の私に行くとき、スーパーマーケットを連れていく。その私のすぐ向かいにある別の私に比べて、こちらは安くてエサがいろいろある。」

     
  • ストレスフリーな人生のための「忘却力」

    2024-06-02 14:111
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    ストレスフリーな人生のための「忘却力」
     
    私は昔初めて就職する際、とある中央省庁に入りました。
    当時2001年とか、就職氷河期の時代でしたから、国家公務員になることはものすごく難しいことでした。また、年功序列制で、「当然、一生就職した企業に勤めるもの」というのが常識の時代でした。
    それなのに私が最初に配属された部署は、毎日朝9時から朝の3時までサービス残業するのが当然の世界でした。つまり、ブラックです。
    今から見ると信じられないだろうパワハラがありました。当時のうちの課長がパワハラ気質の人で、私が『科学する麻雀』という本を出版すること(が決まっていたこと)をすごく妬んでいたようで、毎日毎日別室に呼び出されて30分ぐらい「そんな本なんかしてる場合じゃない!」と怒鳴られまくっていたそうです。
     
    ここで「そうです」と伝聞形でお話しているのがポイントで、私はそれを一つも記憶してございません。当時上司の係長だった方が、のちに異動した私と同じ部署にたまたま配属された時、「凸くん、あの時は特に大変だったね。課長からずっとずっと叱られて、可哀想だったよ」と言われ、私はそのとき「えっそんなことあったんですか?」と聞き返したのです。つまり私は、その「嫌な記憶」を完全に忘れ去っていたわけです。
    言われて初めて、「あ……確かにそういえばそんな記憶もちょっとあるな……」ぐらいに思い出しました。その係長から詳細を聴いて、「そんなことがあったんですね……へええ……」と思いました。

    これは嫌なことを忘却する能力だと思っています。
    私はこれをすごく訓練しています。
    私は思い出してみると、小中高時代には、結構嫌な思いをしたと思うんです。もちろん、覚えているものも結構あります。一部の女子からすごく嫌われたとか、時には仲間外れにされたとか。また、大学時代は自分の麻雀の研究が認められず、教授がすごい私のことをしかったりしたような記憶がちょっとあります。
     
  • 「人の気持ちを理解する」「仕事も上手に進められる」マルチコア案出し思考

    2024-05-04 10:532
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    こんにちは、とつげき東北です。

    今日の記事は、「他人の気持ちをうまく把握する」めちゃくちゃ有用な方法をお伝えします。
    しかもこれは、結果的に「仕事も上手にできる」ことにもつながります。
    ぜひご覧ください。

    私は人の感情とか気持ちを言語化するのが非常に得意だと言われます。
    例えばある人が「フィーリングが合う人が好き」と言うとします。
    「あなたにとってのフィーリング」って何かは、まあこっちに伝わらないので、その人の普段の様子から、フィーリングが合う=話が面白い、話が合うということか、と色々聞いていきます。もっと細かく「会話の中で、所々でるちょっとブラックなジョークが好きなのか」「少しキザで気の利いた言葉がお気に入りのポイントか」と深掘りして行くほど、絞り込んでいくことができます。

    ですが、それではただの質問魔になってしまいますね。
    しかし私は相手が驚くぐらい、「自分でも全然気づいてなかった」フィーリングを当てることができます。実はここにはからくりがあります。
    ざっくりいうと、
    ・細分化がうまくできる
    ・バレずに聞き出せる
    の2つのテクニックを使っています。
    普通の人は、自分の心情とか気持ちとを、そこまで細分化して言葉にしていません。
    だからこそ「フィーリングの合う人」としか表現できなかったわけです。本当はもっと細かい条件があるはずなのに、なかなか言えない。
    料理で例えると、カレーは美味しいけど、なぜ美味しいかをうまく説明できずに「カレーが好き」とだけ言っているような曖昧な状態です。じゃあそのカレーの中のどういう要素が好きなのか。辛いことか。甘味があるところか。肉の味か。どんな成分がどういう割合で調合されているから舌が気持ちよくなるのか、普通は考えて言語化していないようなものです。
    そういったことを少し掘り下げると、カレーライスのうち、実は福神漬けが結構ライスにあって美味しいところがかなり高得点だったりする場合すらあります。
    これをもっと掘れば、細分化ができていきます。

    バレずに細部を「当てる」方法があります。
    「凸さんはよく当てられるよね」と言われますが、正解率が高いというよりも、失敗を失敗と認識させていません。確かに一般に、「こういうことを言う人は/こういうタイプの人は、こういうの好きがち~」とか「一般的にこういうのが好まれがち~」ぐらいはまあ事前に大体想像がつくのですが、もっと細かい部分で私が知らないはずの所まで当てられるのは、「相手の様子をうかがいながら、案をたくさん出している」ことにつきます。
    これは非常に大事なやり方なので身に着けてほしいです。
    わかりやすすぎる例として、「スポーツが好き」と言われたとしましょう。どんなスポーツか当てなさい、となって「サッカー?」と聞いたら「違います~」と外れてしまいます。
    なので、聞き方を工夫します。

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