よく考えてみると、僕が『自分らしい毎日』を送れるようになったのは、やはりXのプロデュースに携わったことが大きなきっかけになっていた。

今回は、その大きなきっかけとなった、プロデュース初期の、僕自身の心の苦しみや悩みについて書いてみよう。

結果として、この頃の心の苦しみや悩みのおかげで僕は人生の大きな宝物を得ることになるのだけれど、この話は今まで、どこにも書いたことがない。



実は、Xのプロデュースがまだ始まったばかりの頃をちゃんと思い出すと、僕は重苦しい気持になる。

あの頃は、起きてからしばらく、不安感と焦燥感、そして重くて暗い心を抱えて頭を抱える毎日だった。

腕を組んだり、正座をしてみたり、頭を抱えて突っ伏したりしながら、

「やべえ、どうしよう・・・」

「どうやってけばいいんだよ・・・」

暗い声で、ひとり呟きながら、あげくは倒れ込んでしまい、仰向けになる。

しばらく天井を見つめてから、

「とにかくやるっきゃないんだよな・・・」

と小さな声で自分を励ましてから起き上がり、会社へ向う。

そんな毎日だった。




Xのプロデュースがまだ始まったばかりの頃、といのはいつのことか。

たしか1988年の春から夏にかけてだ。


インディーズアルバム「Vanishing Vision」を引っさげてメンバーがツアーを開始した頃。

新しいセクションに対してプロデュースを進めていく宣言をし、徐々にメンバーとの会話を増やしていき、TOSHIがあるライブをきっかけに大きく変身を遂げ、圧巻の京都スポーツバレーライブを経て、無事CBS・ソニーと契約、そして音楽合宿が始まるまでの3ヶ月間のことだ。

もちろんそれ以降も心の苦しみは続いたけれど、圧倒的に強かったのは、この3ヶ月間だった。

このブロマガの【夢と夕陽】64. 夢の始まり(9)

で、僕がはっきりとプロデュースを手がけ始めることを意識している様子がわかる。

見てみると、

 
 そうか、あの予選大会の夜に突然沸き上がった何とも言えない気持ちは、僕がXのプロデュースを強く意識したから生まれたのか。

 この、孤独で切なくて、どす黒くて激しい感情が、きっとこれから僕のプロデュースを支えていくんだ・・・。

 僕は心の底から、Xのプロデュースを人生賭けてやりたい、と思った。


 絶対に負けたくない、と思った。 


 勝つためなら・・・どんなに辛くてもいい、と思った。


 自分の人生が、Xのプロデュースで変わるに違いないと思った。


 そしてそれが僕の人生なのだ、と思った。


とある。

人事発令前だから、これはまだ2月だ。

そしてその後、僕はメンバーとゆっくり話し合う時間を作るようにして、異動した新しいセクションが発足してから2ヶ月くらい経った4月のある日、セクションに対して正式にXのプロデュースを手がけることを宣言している。

これについては【夢と夕陽】73. 夢の始まり(18)にすべて書いてある。

その後だ。

僕が頭を抱え始めたのは・・・。

そう、春から夏にかけて人々がどんどん明るく華やいでいく中、僕は自分だけが暗い泥沼の中にいるような重苦しい気持でその季節を過ごしていた記憶がはっきりある。


僕がそんな自分自身の重苦しい気持ちを「すべての始まり」や「夢と夕陽」に書かなかったのは、それを書いてしまうと、大きなストーリーが展開していく流れが分かりにくくなってしまうと思ったからだ。

でも、あの頃の僕が重苦しい気持ちに毎日悩んでいたことは、僕の人生にとってはとても重要なことだった。

なぜなら、その苦しみを生んでいた原因は、「誰にも教わらず、指示も受けず、自分で見つけたオリジナルなやりかたを貫く」という生きかたそのものだったからだ。

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では、その重苦しい気持ちは、いったい何だったのか。

簡単に言えば、理想と現実のギャップだ。

あるいは目標と現状のギャップ。

上に引用した文でわかる通り、僕は人生を賭けてXのプロデュースを手がけていくことを決めた。

その後しばらくして、プロデュースを実際に実行し始めた途端、自分が望むプロデュースを進めていくために、自分が何をどうしていけばいいのか、全くわからないことに気づいたのだった。

それはある意味当然だった。

なぜなら僕は過去にプロデュースを一度もしていなかったからだ。

さらには、僕が考えるプロデュースを実行している人も、周りに一人としていなかったからだ。

だから、僕は自問自答を続けるしかなかった。

目標ははっきりしている。

その目標に辿り着く自信もある。

何より、メンバーの可能性を信じているからだ。

そして、自分の描く未来にも、自信はあった。

でも・・・

それを実現するために、僕は何をすればいいんだろう。

今日という貴重な一日に、一体何をすれば目標に近づいて行けるんだろう。

もし、僕のやるべきことを、ただ気づかぬうちに逃してしまっていたら、どうしよう。

大切なXというバンドの輝く未来を、僕の怠慢で逃してしまったら、どうしよう。

そんな気持が、僕の心を嵐のようにかき乱し続けていたのだ。

そして、その悩みを相談できる人間は、残念なことに誰一人としていなかったのだ。


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そう、結局僕は『誰にも教えてもらえないことをゼロから始める』という、非常にリスキーなことをスタートしていたのだ。

それでも辛うじて、僕は毎日を試行錯誤しながら全力で送っていった。

その原動力になったのは、明らかにXというバンドの、そしてそのメンバーの魅力だった。

そしてその魅力的な5人は、日々自分たちがやるべきことを物凄い勢いで進めていたからだ。

メンバーの5人が頑張っているのだから、僕も絶対、自分に負けてはいけない・・・。

そんな気持ちが、僕自身を必死で支え、前へ押し出し続けていた。



加えて、僕にはXのプロデュースをオリジナルなやり方で進めていくことに、人間らしい本能をかき立てられていた。

それは上記の引用、

この、孤独で切なくて、どす黒くて激しい感情が、きっとこれから僕のプロデュースを支えていくんだ・・・。

という言葉に表れている。

『孤独で切なくて、どす黒くて激しい感情』というのは、

『絶対に負けたくない』という感情と、
『一番大切なことは、わかってもらえない』という感情が
入り交じったものだ。

とにかく誤解や偏見に負けたくなかった。あの頃の僕は。

そして、その感情は、当時のメンバーの感情そのものだった。



なぜそう決めたのか、今はもう思い出せないけれど、1987年の春頃に、僕は自分のオリジナルな生きかたを一人で決めて、恐ろしい孤独の中、必死で動き始めていた。

そしてその原動力は、すべてXというバンドとそのメンバーからもらっていた。

僕が自分の書いた文章に『共闘』という言葉を使っているのは、そういう理由だ。



(つづく)