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☆ファランクス☆さん のコメント

はじめまして 津田さん 楽しく観ております
僕は17歳で、X と同じく バンドの 夢を追いかけているものです
僕は X と出会うまで夢などありませんでした、バンドに興味もありませんでした。しかしX がそれを変えました
X と出逢って 一年半程経ちました が、それから 僕はこの今の 日本のバンド、音楽を変えてやろうという、気でいます ! そして本当の意味で世界で認められること。
近年若者がどうだとか言われますが 、僕は頑張ります !いつかお会いできるときが来るといいですね! ではこれからも応援しております!
No.1
128ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 さて。  最近このブロマガでお伝えしている内容は、1988年のことだ。  この頃、日本の音楽シーンは一体どんな状況だったのだろうか。    まず象徴的なのは、BOØWYの解散だ。  僕は1985年にソニーミュージック入社、ちょうど尾崎豊がカリスマとして話題になり始め、レベッカが急激に売れていくのをプロジェクトメンバーの一人として体感しながら、他にもいくつかの新しい才能が、ライブでの説得力でどんどんにファンを増やし、メガヒットアーティストへ成長していく様子を肌で感じていた。  その頃は、同じフロアにソニーマガジンがあってよく遊びに行ったのだが、メガヒットを生む日本のロックバンドとして圧倒的な先駆者だったBOØWYは、常にスタッフの話題の中心だった。    社内のアルバイトの子やオーディションに応募してくる若い子などにも、BOØWYのファンは多かった。    サザンオールスターズとは明らかにバンドとしての意味合いが違い、ロックバンドの美学が、より明確に、ど真ん中にあるスタイルで、しかもメガヒットを放つバンド。    その存在は、ブルーハーツとは別の意味で新たな時代のフロンティア(開拓者)だった。    そのBOØWYが東京ドームで「LAST GIGS」を行ったのが、1988年の4月。    BOØWYの他にもレベッカやTMネットワークがメガヒットを生み、続いて聖飢魔IIや米米CLUB、爆風スランプなどオリジナリティのあるロックバンドがどんどん活躍し始め、さらにBUCK-TICKやユニコーン、エレファントカシマシなど、新しい才能を秘めたバンドが登場していった。     そんな1988年、僕がXに期待していたのは、それらのどのバンドよりも激しいエネルギー、どのバンドよりも美しい世界を、最も商業的ではない型破りのアプローチで炸裂させ、かつて見たことのないほどの大きな衝撃を、とてつもないスケールの大きさで日本中に与えることだった。    それは僕自身が作曲や編曲をするミュージシャン出身だったからかも知れない。  
音楽プロデューサー 津田直士の 「人生は映画 主人公はあなた」
音楽プロデューサー/作曲家の 津田直士が、その経験から得た、「主人公という生きかた」をもとに、① 人生の悩みや迷いへの答えを分りやすく答える『その答えは』 ② 世間の話題や素晴らしい作品、アーティストプロデュースや音楽制作などあらゆるテーマで自由に綴る『本能が吠えるまま』 ③ 伝説のバンド X JAPANと共に過ごした記憶が瑞々しくリアルに綴られた著書「すべての始まり」に記されなかった舞台裏とプロデュースの原点を新たな視点で描く『夢と夕陽』 ④ 自分らしい人生を積極的に生きている人にインタビューをして、生きかたのヒントを見つける『ある人生 』といったブログを定期的に展開します。