本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。東日本大震災の爪痕生々しい石巻で行われた〈Ingress〉のイベントを通じてジョン・ハンケとGoogleの思想を論じた前回に引き続き、世界を席巻した〈ポケモンGO〉を通じて世界と個人、公と私を接続する想像力がどのように更新されたのかを見ていきます。(初出:『小説トリッパー』2017夏号)
同じように遠くウクライナでは紛争地域である国境線を越えて、エンライテンドとレジスタンスが協力し、紛争地域のマップ上に「STOP WAR」という文字形を陣地で表現し、反戦をアピールしたケースが報じられている。
こうした「社会活用」がリリース直後から展開されていたことは、〈Ingress〉の、そしてハンケが代表するGoogleのアプローチの、高いポテンシャルを証明している。〈Ingress〉の成果は控え目に言っても、私たちが世界の情報化(データベース化)と適切なゲーミフィケーションによって、あくまで自分の物語として公共の価値にコミットすることができる可能性を示しているのだ。
二〇世紀とは世界と個人、公と私を接続するために物語を用いた時代だった。より正確には世界と個人とを接続することは、この時代においては他人の物語に感情移入させ、自分の物語だと錯覚させることと同義だった。たとえばこの錯覚によって、「個人」は「国民」化されていった。
しかし今日において、その技術的な限界は取り払われている。人々はごく自然に自分の物語を享受することでいつの間にか世界に接続されてしまう。そしてその自動的な接続によって一定の確率で、公共の価値にコミットする人々が出現する。あとはその発生確率を上昇させるためにゲーミフィケーションの精度を上げるだけだ。それがGoogleの、ハンケの、〈Ingress〉の「思想」なのだ。そしてその思想的な実験は相応の成果を収めた、と言って良いだろう。〈Ingress〉はこのとき大きな物語ではなく、大きなゲームで世界と個人が接続され得る可能性を示したのだ。国民国家という物語(歴史)に規定された共同体よりも、市場というゲームのルールにしたがって駆動するシステムが、接続されるべき世界として重要度が増す今世紀において、この世界と個人の非物語的(ゲーム的)接続方法のもつポテンシャルは計り知れない。
問題があるとすれば、それは〈Ingress〉の実験的な性格それ自体のもつ限界だ。〈Ingress〉のプレイのためには、一定の余暇を相応の経済的な余裕を持って過ごすことのできる環境と、そして、それぞれの土地の自然と歴史を観賞し得る知性と教養をプレイヤーに要求する。要するに〈Ingress〉とは、先進国の都市部のアーリーアダプターを対象にした実験的なゲームであり、その目的もこの時期のGoogleの進めていた現実そのものの検索サービスのテストと、そのためのデータ収集であったことも明白だ。ハンケも前述のインタビューなどで、〈Ingress〉がGoogle Maps上の自然物、人工物情報の強化にあったこと、将来的にここで収集されたデータベースが他社にも開放されたゲーム制作プラットフォームに活かされる計画であることを述べている。実験的な性格の強い〈Ingress〉は、境界なき世界を前提としながらも、その先進性ゆえに、ユーザーの高い能動性とスペックを要求するがゆえに、むしろ境界を再生産するというカリフォルニアン・イデオロギーのジレンマをものの見事に内包していたのだ。そしてハンケもまた、この〈Ingress〉の抱え込んだジレンマに敏感であり、より大衆性の高いゲームの制作をナイアンティックのミッションとして設定することになった。
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