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デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』
前回に引き続き、『黄金勇者ゴルドラン』について分析しています。成熟を拒否することで成熟する「逆説的な成長」とは?

池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編

■ワルター・ワルザックと「大人」になること

ワルター・ワルザックは、第一話から本作のヴィランとしてとして物語に登場し、主人公たちとパワーストーンの争奪戦を繰り広げる。ワルターはワルザック共和帝国(という架空の国家)の王子として、父親であるトレジャー・ワルザック皇帝の命を受け、黄金郷レジェンドラに至ることを目的とする。キャラクターデザインは容姿端麗な貴族を意図してデザインされており、またカーネル・サングロスという老齢の執事を常に従えている。そしてその名前が戯画的に描き出すように、ワルターは典型的な「悪のプリンス」として置かれている。年齢は20歳と設定されており、12歳である主人公タクヤたちからすれば、十分に「大人」と言うことができる。
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▲ワルター・ワルザック。美青年としてデザインされている。

勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p167

ゴルドランにおける「冒険」とは、子供たちの想像力による遊びそのものを示していると本稿では考えた。そしてタクヤたちが無邪気に「遊び」として冒険を追い求めていくのに対して、ワルターは父親から認められるために――「成熟すること」を動機としてタクヤたちと対立する。主人公たちのカウンターに置かれたワルターは、設定だけ見ると、イマジネーションによる遊びを妨害する「大人」を象徴するかのように見える。

ところが実際のワルターは、そのように振る舞わない。それどころかワルターの存在が、むしろ作品のリアリティラインを下げ、タクヤたちの冒険を「遊び」たらしめている。そしてワルター自身は、タクヤたちの影響を受けてむしろ成熟を拒否することで成熟していくという逆説的な成長を見せる。そしてこのふたつは、密接に絡み合っている。

どういうことか説明していこう。まず本作品のリアリティの操作は、ワルターという「敵」を通じて行われる。主人公たちの遊びの世界が本当に命にかかわる危険なものなのか、それともおふざけで済んでしまうようなものなのかを襲いかかる脅威であるところの敵のトーンで表現するのは、作劇として順当な手法であるだろう。物語当初におけるワルターは、タクヤたちを「お子たち」と呼ぶ年上の存在でありながらも、むしろタクヤたちよりも情けない、ある意味で子供っぽいコミカルな悪役として描かれる。外見は二枚目だが、中身は三枚目というのがワルターのスタート位置だ。そしてワルターがこうした存在だからこそ、物語空間――ゴルドランにおいてあるべきおもちゃ遊びの空間は、リアリティを欠いた、いわゆる「ギャグ時空」として成立する。ワルターは敗北のたび「どっしぇ〜!」という台詞と共に退場していく。これまで基本的には真面目なトーンで進行してきた勇者シリーズの伝統からすると、こうしたヴィランの振る舞いはいささか例外的に映る。

■宇宙に出ても人が死なない世界

しかしゴルドランが特徴的なのは、そのリアリティラインが作中でダイナミックに変動することだ。たとえば一行が宇宙に出た際、宇宙空間に生身で出てしまったらどうなるのかという問いに対して「血液が沸騰し圧力の関係から全身が粉々になって死ぬ」と説明がなされる(これが科学的に正しいかどうかはひとまず置いておく)。しかし同じエピソードの後半で、ワルターは見栄を切るためだけに、生身で宇宙空間に出てしまう。そして長々と向上を述べたあとで、他のキャラクターから「そこは空気がない」と指摘される。それに対するワルターの反応は、次のようなものだ。

「ぎぇ〜! はやくなんとかして〜!」

そして息ができずに苦しそうな素振りをしながらも、宇宙船(厳密には勇者ロボの内部)に戻った次のカットでは、なにごともなかったように活動している。

重要なのは、この流れが同一のエピソードの中で行われることだ。ここではふたつの異なるリアリティが、意図的に混在させられている。より具体的に言うならば、「宇宙空間に生身で出たら死ぬ」というリアリティをいったん定義しておきながら、それを「ギャグ時空」で上書きしているのだ。

そしてこれは、単に作劇上のご都合主義以上の意味を持つ。ワルターは当初、父親に認められることを通じて成熟を試みる。しかしタクヤたちに巻き込まれ、これは一向にうまくいかない。それでも執念深くタクヤたちを追いかけ、ついにはすべてのパワーストーンを一度手中に収めることに成功する。勇者たちは一度パワーストーンに戻って主君が変われば、それまでのことをすべて忘れてしまう。ワルターは勇者たちを一度は我が物にしようとするが、葛藤の末それをあきらめ、パワーストーンをタクヤたちに返還する。なぜか。これまで父親に認められる以外の目的を持たなかったワルターは、タクヤたちとの争奪戦という冒険そのものに価値があったことを悟ったのだ。

つまりこういうことだ。マイトガインは旋風寺舞人の圧倒的な万能感によって、そしてジェイデッカーは人間となったロボットとの絆から父性と母性をバランスすることによって成熟を目指した。しかしこうした種類の成熟を目指したワルターは徹底的に失敗する。「大人」になろうとするワルターの試みは、タクヤたちの「遊び」に巻き込まれ、「子供」に引きずり降ろされ続ける。真面目な殺し合いは、常におふざけへとラインを変更される。勇者シリーズが開拓してきた成熟のイメージは、ゴルドランに至って、タクヤたちのように子供の遊び=冒険を続けることこそが成熟である、という逆説的な価値観にたどり着いているのである。