アニメーション監督として新たなプロジェクトを始動している山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにしていく新連載の第二回。
<この夏最大の話題作だった『天気の子』について、かつての先端だった「セカイ系」という表現様式が「歴史(伝統)」化し、青臭い不全感を抱えながらも老いに向かっていくことの意味を、改めて問い直します。
先日発生した台風19号により被害に遭われた方々には謹んでお見舞い申し上げる。
被災地の復旧・復興のために、僕自身も協力を惜しまないつもりだ。
と、こんな書き出しで始めざるをえないのは、今回取り上げるのが『天気の子』(2019)だからだ。
どうも今年は、いろいろな意味でアニメが不幸を呼び寄せているようにしか見えない。他人事ではない。
さて、PLANETSのニコ生で石岡良治×福嶋亮大×宇野常寛「『天気の子』とポスト・ジブリアニメのゆくえ」を観た。
もう痛快も痛快、三人の論者の歯に衣着せぬ大論陣には思わず大笑し、反論の余地もなく共感できた。
が、しかし。
意地悪かも知れないが敢えて反論しよう。
僕は本作を最初観た時、思わず大泣きしてしまって、一緒に行った女性スタッフ二名をドン引きさせてしまった。
その後カフェバーで力説したのだが、解ってもらえるはずもなく。
そうか、この想いは普通に解ってもらえないだろうなぁ、そう思いつつ、この論を始める。
一言で述べると、この作品は「セカイ系」という、アニメ界に「かつてあった」不思議な存在をどう捉え、どう感じてきたかによって、評価が決められるのだと思う。
そして先のお三方の論者の発言は、確かに「セカイ系」への批判としては実にまっとうだし、『天気の子』という作品そのものへの批判としても実にまっとうだ。
ただ、ひとつだけ異議を唱えたい。
『天気の子』が「セカイ系」ではない(ですらない)、という証明にはなっていないのである。
『天気の子』が傑作か駄作かを論じるのは非常に些末なことであり、僕たちはもっと俯瞰して、「セカイ系」の歴史とその現代的意味を、この作品を通して今こそ考えるべきではないだろうか。
それをまず提案したい。