今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、川上弘美の『七夜物語』です。日常の位相を微妙にズラした幻想を描いてきた川上弘美は、本作で初めて「子供のためのファンタジー」に取り組みます。それは世界と個人を繋ぐ「夜の世界」への遡行であり、2011年9月11日以降、私たちの日常をゆるやかに蝕み続けている力に、物語としてのかたちを与えようとする試みでもありました。
※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
僕はたぶん日本人の平均よりもだいぶ意地汚い人間なのだと思う。朝起きるとだいたい日に二回の食事に(もう10年以上朝食を食べる習慣はない)何を食べようかをまず考える。出不精な人間で、ふだんはほとんど事務所のある高田馬場から動かないけれど用事があって他の街に出かけると必ずその行き帰りに○○のお店で××が食べられるな、と考えはじめる。お酒を飲まないので余計に食べ物のほうに関心が向かう。なんでそうなったのだろう、とときどき考える。原因のひとつは高校時代を過ごした寮の食事が信じられないくらいまずかったことだろう。あの三年間のせいで、すっかり出かけるたびに外食のチャンスを逃さないように考える習慣がついてしまった。もう少しさかのぼると、僕は子どものころから物語の中の食事のシーンが好きでそこだけを何度も読みかえしていた。『ちびくろさんぼ』の物語の最後に虎を溶かしてつくったバターを食べる場面、『大長編ドラえもん』ののび太たちの冒険の前半に必ず挿入される屋外で「みんな」で食べる食事の場面……。こうして考えると子どものための物語に登場する食べものたちはみんな、たぶん大人たちに向けた物語のそれとは異なった特別な役割を担わされているように思える。
もし子どものための物語と大人のための物語とのあいだに、ぼんやりとでも線を引くことができるのならそれはたぶんここに引かれているのだろう。物語の中で主人公たちが何を食べるかではなく、どんな女の子が出てくるのかを楽しみにするようになったのは、いつごろからだろうか。世界のすべてはメタファーだと述べた小説家がいたけれど、それはたいてい性的なメタファーとして僕たちの前に登場する。そう、僕たちは気がつくと、性的なものをチャンネルにして世界を捉えようとしている。それはたぶん、性的なものは人間の動物としての側面に訴える回路だからだ。それは社会化された人間の営みであると同時に、人間の動物としての本能に訴えるものだ。だから人間は自分と世界との距離感を測り直そうとするときに性的なものを通じて世界を捉えなおす。社会化されない動物としての自分と、社会化された人間としての自分を往復することで、世界の構造を捉えなおそうとする。たとえば例の世界のすべてはメタファーだと述べた小説家=村上春樹の描く男性主人公たちが、いつもセックスをしているのはたぶん、彼がまだ「あのころ」に壊れてしまった個人と世界をつなぐ回路の再構築を繰り返し試みているからだ。
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