今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、2013年夏に公開された映画『風立ちぬ』です。東日本大震災以降、「いまファンタジーを描くべきではない」とし、宮崎作品の中でもっともファンタジー要素の薄い作品となった本作。「美しい飛行機(=ゼロ戦)をつくること」を夢見た主人公・堀越二郎を通してえぐり出された、宮崎駿という作家の中核にあるものとは?
※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
この夏公開された宮崎駿の新作長編アニメ映画『風立ちぬ』は、試写の段階から数多くの作家や批評家、編集者等の絶賛を集めていた。アニメ監督の細田守、特撮監督の樋口真嗣など試写で観た専門家の中には宮崎駿の最高傑作だと評する声も少なくない。この文章を書いている7月某日の時点ではまだ専門家の評価は出そろっていないし、興行成績の行方も分からない。しかし宮崎駿の5年ぶりの監督作品ということもあり注目度は極めて高く、今年最大の話題作になることは間違いないだろう。(かくいう僕も試写で数週間前に鑑賞している。)
論を進める前に、簡単にその内容を要約しよう。東日本大震災以降、宮崎駿は「いまファンタジーを描くべきではない」とする旨の発言を行なっている。その発言通り本作『風立ちぬ』は宮崎作品の中でもっともファンタジー要素の薄い作品となった。ゼロ戦の設計者として知られる軍事技術者・堀越二郎の半生を、堀辰雄の同名小説に着想を得て脚色したという本作の舞台は戦前から戦中にかけての時代である。主人公の二郎は比較的裕福な家庭に生まれ、優しい母親に慈しまれて育ち、弱いものいじめを見過ごさない高潔な精神をもった少年として登場する。二郎はこの少年期から飛行機の魅力に捉われている。しかし近眼の二郎は自分がパイロットにはなれないことを知り、その夢は飛行機をつくる技術者になることに傾いてゆく。とくに二郎はイタリアの技術者カプローニへの憧憬を募らせるようになり、いつかカプローニのような「美しい飛行機」をつくることが目標になってゆく。
そんな二郎が学生の折、関東大震災を経験する。このとき二郎と偶然出会うのがヒロインの菜穂子だ。二郎は菜穂子とその侍女の避難を誘導し実家まで送り届ける。その後、二郎は希望通り飛行機の設計者になり、戦闘機の開発に従事するようになる。そしてドイツ留学から帰国後に避暑地にて菜穂子と運命的な再会を果たし、恋に落ちる。菜穂子は重い結核にかかっていることを告白するが、二郎はそれを受け入れてふたりは婚約する。その後、二郎は主力戦闘機(のちのゼロ戦)の設計者に抜擢され、仕事に没頭する。一方の菜穂子の病状は悪化し、先が長くないことを悟った彼女は病院を抜け出して無理を押して二郎のもとにかけつけ、ふたりは結婚する。ちょうどゼロ戦の開発が佳境にさしかかったころ、ふたりの短い結婚生活が送られることになる。そしてゼロ戦の開発は成功し、菜穂子は間もなく亡くなったことが示唆される。「美しい飛行機」をつくるという夢を叶えた二郎だが、それが戦争の道具として使用され、巨大な殺戮と破壊の象徴になってしまった現実に直面するが、菜穂子の存在を支えに「生きねば」と決意する。
本作については、その完成度を評価する声が集まるその一方で「美しい飛行機をつくる」ことを追求する二郎と、菜穂子との恋愛の二つの物語が乖離して、噛み合っていないという批判も多く寄せられている。たとえば先日、僕はアニメ作家の富野由悠季監督と対談後、食事をしながらこの映画について語る機会があった。宮崎駿と同年齢である富野はこの映画の肝はカプローニの解釈、つまりテクノロジーと文明を巡る物語にあり、菜穂子との恋愛物語は添え物に過ぎないと語った。もちろん、富野はそれを否定的に語ったのではなくそれゆえに同作は傑作だと主張した。しかし、僕の考えは少し違う。僕の考えでは、むしろこのふたつの物語は根底で深くつながっているのだ。
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