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【特別寄稿】井上明人 それはどこにある「現実」なのか:作品について書くということ
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【特別寄稿】井上明人 それはどこにある「現実」なのか:作品について書くということ

2020-04-15 07:00
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    ゲーム研究者の井上明人さんの特別寄稿をお届けします。10代の頃、岡崎京子の『リバーズエッジ』の「露悪的な現実」を賛美する批評界隈の風潮に、反感を抱いていたという井上さん。しかし年齢を経たあとで、批評に内在する、違う誰かの生き方への想像力に開かれた、コミュニケーションの可能性に気付いたといいます。

     しばしば指摘されてきたことであるのにも関わらず、作品について論じること、すなわち「批評的な行為」がコミュニケーションとしての属性を持っているということを言うと、なかなか通じないと思うことが多い。学生にも通じないし、人文系の研究者にすら通じないことが多い。
     作品というのは、作者と読者のそれぞれの「現実」の観察を映し出す鏡のような性質をもっている。そのため、作品について論じるということは、コミュニケーションとしての側面を持つ。そのことについて、私なりに簡単に整理しておきたい。

    「この物語は、現実である」とみなすこと。:『リバーズエッジ』

     十九歳のとき、岡崎京子の『リバーズエッジ』をはじめて読んだ。この作品を褒める批評家の言葉に従って、作品を手にとって、最後まで読んだ。
     そのとき、私はこの作品を「露悪的」な作品だと、最初におもった。そして、この作品を褒める批評家達に、軽い嫌悪を覚えた。物語の技術的な質の高さという意味では、この作品を褒める文脈がありうることはそのときの私にも理解できた。だけれども、この作品を安易に褒める批評を軽蔑した。

     十九歳の私は、批評家たちのあさましさを憎んでいた。
     今思えば、その憎しみは、私が今よりも、若かったからだ、と思う。
     

     当時の私が気に入らなかった批評は次のようなものだ。リバーズエッジが語られるとき、この作品は1990年台当時の「時代」とむすびつけて語られることが多かった。作者もまさにそのように書いている。この作品は、現代の日本を象徴的にうつしとった作品なのだ、と書いていた。
     しかし、私にとって、この作品は私の生きる生活とは、ほとんど結びついていなかった。同性愛者の友人はさておくとしても、女性をレイプするような乱暴な友人もいなかったし、寂しさをまぎらわすためにセックスをしてまわるような女性もまわりにいなかった。あるいは、いたとしても、気づいていなかった。私の10代は、進学男子校の生徒として本を読んだりゲームをしたりして生活を送る日々であり、友人のほとんども文化系のおとなしい男の子たちだった。そういうリアリティの持ち主に、こういう作品を「現代という時代を反映した問題作」として語られても、私は同じ世界のリアリティを共有できない。私の生のリアリティは、なんだかんだで、おおむね穏やかな日常に彩られていたと思う。そういう人間にとっては、同時代のセンセーショナルで残虐な話をつきつけられても、そこに同時代性を見いだせるはずもない。まず、この点で、私はまったく岡崎の描いた物語が嘘くさいと思った。
     それに、岡崎京子がしばしば、ある種の残酷さを、何かロマンティックなものとして描くことに、酔うような話が多くて辟易したということもある。

     もっとも、岡崎は「現代性」を僭称することの「うそくささ」に単に鈍感であったわけではない。岡崎は、現代のメディア環境の「うそくささ」に気付かずにはいられない人々についてたくさん描いている。
     それは、たとえば、チェルノブイリを語るメディアの風景やら、環境問題を語るメディアの風景やら、そしてCMをにぎやかにしているやらイメージたちなどの象徴的にあらわれている、という。
     それはそうだ。
     それはそうだろう。
     あれは、テレビというメディアのもたらしたものに他ならない。
     だけれども、岡崎がテレビの「うそくささ」を登場人物に喋らせる以上に、私にとっては岡崎が「うそくさいもの」に見えて仕方がなかった。
     テレビの「うそくささ」を「ウソだ」と指摘することでしか、自身のリアリティを担保できていないように思えた。岡崎の作品は、マスメディアを「ウソだ!」と指摘することで、その真逆のリアリティを肯定しようとしているだけのように思えた。極端に善良できらびやかな風景を「うそだ」と攻撃してみせることが、その真逆に位置している極端に残酷でわけのわからない風景を「ほんとだ」と言うための方法になっているようにしか思えなかった。単に安易な敵を攻撃しているようにしか、見えなかった。

     これが「現代」だなんて。
     なんて、馬鹿げた悲壮感ただようロマンティズムに酔っているのだろう、と。
     こんな、手軽な、ロマンティズムが、ある種の「文学性」だとして語られるのであれば、そんなもの、クソくらえだと思った。おそらく「文学」という言葉を語る人種の中でも、自分が最も軽蔑すべき種類の人間だろうと思っていた。

    **

     しかし、今は十代の頃とは違う感想を持っている。
     岡崎京子のロマンティズムが、岡崎京子の描く現実は、そこまで露悪的である、と断定できる気分ではなくなったことだ。私は、なんだかんだで、あまり極端に治安が悪い地域で生まれ育った友人は少ない。岡崎京子の描く現実は、「わからなかった」。こんな現実が描かれているということが、どの程度まで岡崎京子の判断によるもので、どの程度までが判断によらないものなのか――すなわち、一部の人々の「日常」にどの程度まで対応しているのか、いないのか――ということが、理解できなかった。
     ただ、はじめて読んでからだいぶ経ってみてわかったのは、岡崎の描くよう世界に近いリアリティを生きている人たちは、同時代の日本に、どうやら、ほんとうにいるようだということ。少なくとも、「いない」とは言えない。
     つまり、私が十代の時に感じていたこと――岡崎の描く現実は、岡崎によって都合良く露悪的に粉飾された「現実」であるという感覚――は、私という読者にとっての真実であっても、別の読者には別の真実があったということだ。リバーズエッジが過度に「露悪的」ではなく、それが実際の日常の感覚の延長に位置するものとして受け止められることは十分ありうるということは、否定できなくなった。やはり、一部の読者にとっては、これは、それほど、日常の風景と遠いわけではないはずだ。
     実際に、岡崎の描く世界が自らの十代の日々のそれに近かった、という告白を人からうけたこともある。そういう人にとってみれば、岡崎の描く物語は、彼/彼女らの日常へと、極めて鋭く世界の再解釈を迫るような物語として機能したであろうことは想像に難くない。そして、さきほど少し記したような、十九歳の頃の私の岡崎への「嫌悪感」は、考えようによって、とても、乱暴で、粗い感想に聞こえて仕方ないものだろう。


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