ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。
平成を代表する本格野球ラブコメ漫画となった『H2』を、今回はあだち充のヒロイン像という切り口から読み解きます。さらに、去る3月8日の公開以来、四半世紀にわたる国民的アニメシリーズの完結編として話題の映画『シン・エヴァンゲリオン新劇場版:||』との対比から、あのヒロインとの共通性についても考察します。
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
第16回(3)他者としてのヒロイン・古賀春華が世界の外側へと導いていった『H2』
あだち充の画業50年と『新世紀エヴァンゲリオン』四半世紀後の終焉
今回は『H2』で描かれたヒロイン像について考えていくが、本論への導入として、平成を象徴するアニメ作品が終焉したことについて触れておきたい。
2020年はコロナがなければ、東京オリンピックが開催されるはずだった。同年はあだち充の画業50周年という記念すべき年でもあったが、ずっと作品を刊行し続けている小学館からも特別なイベントやあだち充展のようなものは行われずに、ひっそりと過ぎていった。
第二次世界大戦は1945年に終わった。そこから四半世紀ずつ25年ごとに区切って考えると、2020年は敗戦から四半世紀×3の75年目でもあった。
あだち充がデビューした1970年には、第三次佐藤内閣が発足し、大阪万博が開催された。また、共産主義者同盟赤軍派によって「よど号ハイジャック事件」が起きる。これは日本で最初のハイジャック事件であり、共産主義者同盟赤軍派は日米安保条約に反対する安保闘争の目前に最左翼の分派として結成されたものだった。この年に小説家・三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部にて割腹自殺をした。そのため、2020年は三島由紀夫没後50年として、再び三島由紀夫作品が脚光を浴びることとなった。
本連載でもすでに取り上げたように安保闘争と学生運動と「劇画」は近い関係にあり、学生運動の終焉とともに「劇画」の時代も終わっていった。そこに新人の漫画家として巻き込まれながらも、「少女漫画誌」に形としては島送りになったことで生きながらえたのがあだち充だった。この1970年代という時代は、「日本では革命は起きないのだ」ということを国民が無意識に思うきっかけになったディケイドだったのではないだろうか。
日本の第二次世界大戦の敗戦から50年後、1995年はあだち充のデビュー25年目の年となった。この1995年は、その後の日本の行末に重大な影響をもたらす事件が立て続けに起こるとともに、現在まで続く国民的なアニメとなった作品の放送が始まった年でもあった。
まず1月には阪神淡路大震災が起きる。私の実家は岡山県と広島県の県境にあり、早朝にかなり揺れたが被害が出ていない地域でもあり、そのまま学校に登校した。学校から家に帰ってテレビのニュースを見ると、隣にあるはずの兵庫県が見たこともない風景になっているのを知った。
3月には地下鉄サリン事件が発生し、日本国内における最大の無差別テロ事件となる。ただし私の地元に電車が通っておらず、当時は地下鉄にも一度も乗ったことのなかった中学生の私には遠くの東京でのこの事件はほとんどイメージができないものであり、テレビで苦しそうに喘いでいる人たちを見ても現実感はまるで沸かなかった。
このように、何か時代の大きな転換になるような大事件が起きているという空気感がメディアの中で形成されている一方で、6月には「週刊少年ジャンプ」で11年間連載し、少年漫画を牽引し続けた『ドラゴンボール』の連載が終了した。また、同年の7月にはAmazonのサービスが開始され、GAFA帝国の第一歩が始まっていた。
そして、10月4日から『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)のアニメ放映がスタートした。もっとも、当時主人公のシンジたちと同学年の中学二年生だった私はリアルタイムでこの作品にハマったわけではなかった。部活から帰ってきて、テレ東系列の「テレビせとうち」をつけるとたいてい本編は終わっており、ギリギリ見ることができたのはエンディング部分だけだった。そのため、『エヴァ』の最初のイメージは、ED曲「FLY ME TO THE MOON」がかかる中で水中に浮かぶ月と逆さまになって回り続ける綾波レイの姿というものだった。数話はリアルタイムで観たはずだが、熱狂したという記憶もなく、謎本や批評などもまったく手にとることはなかった。
その後、1997年公開の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』に連動した深夜帯での再放送時に高校の同級生がハマったこともあり、改めて第壱話から観るようになって初めて内容を把握し、そのまま映画にも行ったという流れだった。それもあって、中学時代よりも高校時代に『エヴァ』を観たという印象が強く、同世代にはそういう人が多かったはずだ。
『エヴァ』のアニメが放送されていた時期には、あだち充は「少年サンデー」で『H2』を連載していた。1995年は1992年から1999年の連載期間で考えるとほぼ真ん中にあたる時期でもあった。アニメ放映の半年間の時期に『H2』で描かれていたのは、高校二年の夏の地区大会予選での広田勝利率いる栄京学園高校との一戦だった。コミックスで言えば15巻から17巻であり、ちょうど全34巻の折り返しにあたる部分であった。この栄京学園高校との戦いのあとは、基本的には舞台は甲子園での試合がメインとなっていった。
そこからさらに四半世紀を経て、あだち充の画業50周年となる2020年はコロナウイルスの世界的な猛威によって、予定されていた東京オリンピックが延期となり、さまざまなイベントが休止となっていった。現在もなお続くそんな状況の中、公開を延期していた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全四部作の第四作目となる『シン・エヴァンゲリオン新劇場版:||』(以下『シン・エヴァ』)が、2021年3月8日に公開となった。1995年から26年が経っていた。当時中学二年生だった私たちは四十代に入る、そんな2021年だった。
Twitterでは公開の前からネタバレを喰らわないためのワード設定をしたり、SNSをしばらく見ないと広言するツイートも少なからず見受けられたり、多くの人々が国民的なアニメとなった『エヴァ』の最後をしっかりと見届けようとしていた。
私については、特に初日でなくてもいいと考えていたので、仕事のない公開2日目の9日の朝一の回に観に行った。観る前に思っていたのはひとつ、「お願いだから終わらせてほしい」ということだけだった。
「平成」が終わっていないような気がまだしているのは、「新世紀エヴァンゲリオン」に庵野秀明監督がしっかりケリをつけて終わらせていないからだと、いつからか思うようになっていた。
『虹色とうがらし』の回でも述べたように、昭和天皇が崩御し、「昭和」が終わっていく時には「昭和」を象徴する人物が相次いで亡くなった。「昭和の歌姫」である美空ひばりと「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫という巨星たちだ。
ところが、「平成」は同じようにはならなかった。現在の上皇明仁陛下は生前退位するかたちで「平成」という年号を終わらせた。その「平成」を象徴するグループともいえる「SMAP」は解散することで活動を終え、同じく「平成」を牽引したアーティストの安室奈美恵も引退してその活動を終えた。「平成」を象徴する彼らは亡くなることもなく、それまでの活動を自ら終止符を打つことで、次の元号「令和」へと時代が移譲されていった。それもあってか、どうも自分の中では、まだ「平成」が終わったという感じがしていない部分があった。そして、もしかするとこのまま「平成」を代表するアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』も彼らと同じように途中で活動を終え、未完のままになってしまうのではないかという危惧があった。
『シン・エヴァ』を観終わって感じたのは、「平成」がやっと終わったんだなというものだった。だから、いろんな思いはあるが、きちんと終わったのだから、これはこれでよかったのだと思えた。だが、僕らはすでに「令和」を生きているのに、という気持ちも同時にやってきた。
その後、宇野常寛さんのネタバレを含むnoteを読んだ。やはりここで書かれていることが、私に「平成」を感じさせたのだと思った。ネタバレに関わることでもあるので、まだ観ていない人は次の節を飛ばしてしまってほしい。
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