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記事 2件
  • 碇本学「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」 第2回〈少年サンデー的なもの〉はいかにして誕生したか

    2018-10-03 07:00  
    540pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第2回では、80年代にあだち充と高橋留美子が生んだ「ラブコメ」ブーム。その舞台となった「少年サンデー」の成り立ちを、60年代以降の少年漫画誌の歴史と共に追いかけます。
    「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の誕生
     今回の第2回では、あだち充作品そのものについてではなく、最初のブレイク作『ナイン』と代表作でもある『タッチ』、そして共犯関係にある高橋留美子『うる星やつら』が『少年サンデー』に連載されるまでの少年誌の歴史について振り返る。  時代を変える作品が出てきたことを理解するには、それまでの歴史や関係性を知っておくことが必要になってくる。そして、今や当たり前になっている週刊少年誌の歴史には、「漫画の神様」と呼ばれていた手塚治虫が大きく関係していた事実がある。  あだち充と高橋留美子が活躍することになるラブコメ全盛期の〈80年代『少年サンデー』的な特色〉が生まれた経緯はいったいどんなものだったのか。  少年誌の始まりから見ていくと『少年サンデー』が紆余曲折した上で、ラブコメ方面に向かっていったのがわかる。
     現在のように週刊誌での漫画雑誌が発売されるようになったのは、1959年3月17日に『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が刊行されたことによる。この二誌が週刊誌における少年漫画の歴史の始まりだった。  1958年の秋頃に小学館では「学習路線以外の雑誌」の検討が開始された。子会社である集英社で、漫画の月刊誌が成功していたことが大きな要因とされている。その動きを知った講談社が翌年の1月に『週刊少年マガジン』創刊準備を始める一方で、小学館の『週刊少年サンデー』は学年誌(『小学○年生』)で付き合いのあったことで手塚治虫に連載執筆の了承を得ていた。続いて寺田ヒロオや藤子不二雄などの「トキワ荘グループ」の連載も獲得して、創刊ラインアップのメンツを揃えていった。  当時の『少年サンデー』と『少年マガジン』は、連載する漫画家の獲得に奔走していた。藤子不二雄(A=安孫子素雄)の日記によれば、『少年サンデー』から創刊一ヶ月前の1959年2月11日に執筆依頼があったその二日後に『少年マガジン』からも執筆依頼があったが、すでに『少年サンデー』での連載を引き受けたという理由で断ったという。  ちなみに、その数年前に藤子不二雄は講談社の少女誌『なかよし』で連載をしていたが、仕事を抱えすぎてパンクしてしまい、原稿を落としたことで連載を打ち切られていた。そのことが原因で同社から四年間、一切仕事が来ないという状況にあったが、当時の『なかよし』の編集長だった牧野武朗が『少年マガジン』の初代編集長になり、藤子不二雄に執筆依頼をしに来たという因縁もあった。しかし、運命のいたずらか、彼らは『少年サンデー』での連載を先に引き受けていたために、土下座して牧野からの依頼を断ることになった。その後、編集長が変わってから、藤子不二雄は『少年マガジン』に連載をするようになるのだが、この藤子不二雄の執筆経緯は、両誌の路線の決定的な差、分岐点になってしまったのではないだろうか。それは藤子不二雄を起用できたかどうかが二大少年誌の最初の明暗を分け、雑誌のカラーの確立に大きな要因になっていると考えられるからだ。
     漫画界のトップランナーであった手塚治虫は『少年サンデー』での連載を引き受けていたが、週刊漫画の二誌創刊をとても喜んでいたこともあり、ライバル誌である『少年マガジン』にも何かできることがあればと声をかけていた。  トキワ荘グループのメンバーでは、石森章太郎だけが初期から『少年マガジン』に執筆していたが、彼が作画していた山田克原作『快傑ハリマオ』の構成を、手塚が密かに引き受けていたことが『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』の中で明かされている。 『少年サンデー』は野球の長嶋茂雄が創刊号表紙、創刊号のラインアップは手塚治虫『スリル博士』、横山隆一『宇宙少年トンダー』、寺田ヒロオ『スポーツマン金太郎』、 藤子不二雄『海の王子』、益子かつみ『南蛮小天狗』で価格は30円。発行部数は35万部だった。 『少年マガジン』は相撲の朝汐太郎が創刊号表紙、創刊号のラインアップは忍一平(原作・吉川英治)『左近右近』、山田えいじ『疾風十字星』、高野よしてる『13号発進せよ』、遠藤政治『冒険船長』、伊東章夫(原作・鈴木みちを)『もん吉くん』 で価格は40円。発行部数は20万5000部だった。
    ▲少年サンデー(左)と少年マガジン(右)の創刊号
     どちらとも1959年3月17日の水曜日に発売され、店頭に並んだ。部数でいきなり差を付けられた『少年マガジン』は、同年5号から30円に値下げして対抗しようとするが、『少年サンデー』は創刊ラインアップ作品で、読者に都会風で洗練された印象を与えたことも作用して、リードを続けていくことになった。その後も忍者ブームを受けての横山光輝『伊賀の影丸』、赤塚不二夫『おそ松くん』、小沢さとる『サブマリン707』、さらには藤子不二雄『オバケのQ太郎』が大ヒットして60年代中盤までに万全の態勢を作っていくことになる。  もし、藤子不二雄への執筆依頼が『少年マガジン』の方が先だったのなら、『オバケのQ太郎』は『少年マガジン』で連載されたいたという、「if」の可能性も、もしかしたら存在したのかもしれない。
    劇画とスポ根による「マガジン」の成功(60年代)
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  • 【新連載】碇本学「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」 第1回『あだち充の〈終わってしまう青春〉』

    2018-09-19 07:00  
    540pt

    ライター・碇本学さんの新連載「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」が始まります。『タッチ』『H2』などのヒット作で知られる漫画家・あだち充。その50年にも及ぶキャリアは、戦後のアメリカの抑圧のもとで、日本の少年漫画が〈成熟〉を描こうとした試みでもありました。第1回では、戦後民主主義の落とし子としての3人の漫画家、手塚治虫・高橋留美子・あだち充について取り上げます。
    なぜ今、「あだち充」を読むべきなのか
    「2020年について何を想像するか?」と聞かれたとき、多くの人は「東京オリンピック」と答えるはずだ。  今から約80年前(1940年)に行われる予定だった「幻の東京オリンピック」は関東大震災からの復興と皇紀2600年記念行事として準備が進められていた。しかし、支那事変の勃発や軍部の反対から中止となり、その後、日本は太平洋戦争に突き進んでいくことになった。  1964年の「東京オリンピック」は、第二次世界大戦で敗戦した日本が焦土からの復興を成し遂げたことを全世界へアピールし、再び国際社会の中心に復帰したシンボルとして歴史的には認識されている。  そして、2020年開催予定の東京オリンピックは、東日本大地震の復興を掲げて招致されている。  日本で行われるオリンピックは、なぜか大災害や人災からの復興アピールを理由に立候補し、開催されるという流れがあるようだ。  来年2019年には、宮藤官九郎脚本のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が放送される。ドラマでは、日本が初めて夏季オリンピックに参加した1912年ストックホルム大会から1964年の東京大会開催までの52年間を、三部構成で描くということが発表されている。
     この連載で取り上げるあだち充は、1970年(昭和45年)に漫画家デビューしており、次の東京オリンピックが開催される2020年は、画業50周年という記念すべき年でもあるということは、あまり知られていないかもしれない。  あだち充は1964年の東京オリンピックの翌年に連載が開始され、スポ根漫画ブームの元祖と言われる『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)から始まったムーブメントに、終止符を打った漫画家でもある。スポ根の定義は「スポーツの世界で根性と努力によってライバルに打ち勝っていく主人公のドラマ」(米澤嘉博『戦後史大事典』より)であるが、あだち充は代表作『タッチ』において、それを乗り越えて過去のものとしたことで、少年誌だけではなく、漫画というジャンル全体の革新につながる新境地を切り開いていった。
     あだち充が描いてきた漫画とは何だったのか。それは一言でいえば「戦後日本社会の思春期」であった。  戦後日本社会は、軍事はアメリカに丸投げをして、彼らの核や軍事力によって庇護されながら経済発展を成し遂げた。一方、表向きには過去の戦争に向き合い、「二度と戦争のない世界を」という平和主義を謳った。その矛盾した「本音」と「建前」の二枚舌を使い分けた繁栄が続いていたが、バブル崩壊以後の長い不況によりそれを維持できなくなっているのが現在の日本である。  大人になることをできるだけ先延ばしして、責任を持ちたくないという「本音」と、自らの行動と発言に責任を持つ大人になることを対外的に表明する「建前」が当たり前のように、この日本社会には共存している。その「建前」の部分にあたる戦後日本社会の思春期の片側を、あだち充はずっと描き続けている。
     あるいは、1980年代の「ラブコメ」ブームは、「スポ根」や「劇画」の全共闘世代へのカウンターでもあったと言えるだろう。その中心となった『週刊少年サンデー』で大活躍していたのが、高橋留美子とあだち充という二人の若い漫画家である。 『うる星やつら』を大ヒットさせた高橋留美子が描いていたのは「終わらない思春期」であり、それに対して、あだち充が描いていたのは「終わってしまう思春期」だった。両者は相反し合いながら、同時に表裏一体の関係として『週刊少年サンデー』を躍進させる原動力となっていった。
     長く続いた昭和が終わり、構造改革に失敗し、先進国からも没落して、もはや経済大国ではなくなっていった日本の「平成」という元号がもうすぐ終わる。  昭和の20年間と、平成の30年間を通じて、絶え間なく作品を描き続けてきた漫画家・あだち充。これまで彼が描いてきた作品の要素がミックスされた、現在連載中の『MIX』は、おそらく次の元号まで連載が続いていくはずだ。『MIX』を読むということは、昭和、平成、そして次なる新しい元号の「三つの時代」を読むということになるのかもしれない。  あだち充のデビュー作から、最新作『MIX』までを読んでいくことで、かつてこの国にあった「青春時代」から、現在に持ち帰れるものはあるのだろうか。あるとすれば、それはどんなものなのだろうか。
    クール・ジャパンと「日本すごい」論の不毛
     バブル経済とその崩壊による、1991年からの約20年以上にわたる日本経済の低迷は「失われた20年」と呼ばれた。さらに構造改革が失敗したことで、「平成」という元号の期間は、そのまま「失われた30年」になった、という印象である。  21世紀に入ると、日本の漫画・アニメは国境を越えて海外にも熱狂的なファンがいることが一般的にも知られるようになり、それは国策として「クール・ジャパン」と謳われるようになった。  2010年に経済産業省が「クール・ジャパン室」を設置し、2013年には政府と電通など官民ファンドによる海外需要開拓支援機構(クール・ジャパン機構)が設立された。今年2018年のクールジャパン関連政府予算は459億円にのぼる(参照)。  しかし実際のところ、投資と宣伝には税金が投じられているが、国内の人材育成はまったくされていない。  国策というのならば、韓国映画のように海外でも戦えるようなレベルの人材を育てることが最重要の施策であり、海外の市場で日本とその国がどうコミットしていくかという部分に税金を使うべきだが、自国で売れているものをただ海外に持って行って、「日本の文化すごいでしょ!」という傲慢さは、かつての箱物行政の失敗を繰り返しているようにしか見えない。
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