今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回取り上げるのは芦原妃奈子の作品。少女漫画における母による娘の支配と、その克服はどのように描かれていたのかを考察します。※7月から、リニューアル準備のためメールマガジンの配信日を「月曜日と金曜日」に変更とさせていただきます。今後とも各媒体での記事・動画の配信や書籍刊行を含め、さらなるコンテンツの充実に務めてまいりますので、引きつづきPLANETSをよろしくお願いいたします。
三宅香帆 母と娘の物語
第九章 芦原妃奈子――なぞる娘|三宅香帆
はじめに―芦原作品のテーマ
芦原妃奈子の作品の主題は「少女の成熟」である。少女はどうしたら大人になることができるのか。その主題をさまざまな角度から描いているのが作風となっている。たとえば『砂時計』においては母の呪いを解くこと、『Piece』においては父の呪いを解くこと、『Bread & Butter』においては家族をつくることによって、少女の成熟は達成される。芦原作品において、少女が大人になるためには家族という通過儀礼を通らなければならなかった。
特に母親という主題について切り込む『砂時計』の連載が開始されたのが、2003年。よしながふみの『愛すべき娘たち』の刊行と同年のことだった。2000年代前半のほぼ同時期に、両作家によって母との絆を断ち切る物語が描かれているのは注目すべき事象だろう。
本章では芦原作品にみる母娘像から、2000年代に描かれた母娘の主題を読み解きたい。
1.『砂時計』の母娘像
『砂時計』は母の自死から始まる物語である。
主人公の杏は、12歳のとき母の離婚をきっかけに島根の田舎へ引っ越してきた。最初は厳しい祖母や田舎の空気に馴染めなかった杏だが、同い年の大悟、藤、藤の妹・椎香と出会い、仲良くなってゆく。そしてとくに大悟との仲を深めてゆくが、ある日突然母親が自殺してしまう。
大悟は杏を支え続けると言い、ふたりは一緒に成長することを誓う。しかし杏が父に引き取られ東京に引っ越すことになり、ふたりの距離は離れることになる。
杏の母は、もともと精神的に不安定なところがあった。とくに東京で鬱病になり、アルコール依存症にもなっていたという。故郷に帰ってからも、過労で倒れ、精神的にもさらに疲れ切ってしまう。娘の存在を見て自分を奮起させようともするが、母親に「情けない、しゃんとせえ」と言われたことをきっかけに、発作的に自殺してしまう。
杏の祖母は、母について以下のように杏に伝える。
「…昔っから 弱い子だったけん 気ばっか強いくせに どっかもろくて
だから心配で ずっと手元においておきたかったんよう…私が殺した…!
言っちゃいけんのわかっとって はがゆくて…!
“がんばれ”て…!」
(『砂時計』1巻)
杏は祖母の発言を「おばあちゃんのせいじゃない」と否定するが、祖母の罪悪感は杏にうつることになる。杏は過去に母親へ「がんばれ」と言ってしまった経緯もあり、「ママはきっと最初からこうするつもりだったんだ この村に戻ると決めた日から きっと」「あたしはとめられなかった」と思うようになる。
『砂時計』において、杏は母の死をトラウマとして何度も反芻するが、中でもとくに顕著なのが、杏は母の死に対して罪悪感を持つ点である。たとえば偶然出会ったシングルマザーが「この子たちは私の希望だわ」と言うのに対し、杏は「あたしは母の希望になれなかった」と発言する。母の死を止められなかったという罪悪感から、杏は母の存在に囚われ続けて生きることになるのである。
そんな杏に対して、幼馴染であり恋人である大悟は何度も支えようとするが、うまくいかずに二人は別れてしまう……というストーリーが『砂時計』の概要となっている。
2.『砂時計』と『成熟と喪失』の主張の相似
実は『砂時計』のテーマは、1988年に出版された江藤淳の批評集『成熟と喪失 ―“母”の崩壊―』の主張と似通うところがある。
江藤は戦後文学を批評しながら、「今後、日本は前近代的な『母性』の庇護も失い、同時に欧米的で個人主義の規律である『父性』を得ることもできないままになるだろう」という主張を行う。女性は母性を引き受けることを拒否し、そのような母性に逃げ込む場も喪失される。かといって代わりに父性が台頭するわけでもないまま、子供は成熟できずにさまようのだろう、と。
『砂時計』のタイトルにもある「砂」のモチーフとは、杏たちの住んでいた島根県に砂丘があることに由来する。大悟は砂丘に足を踏み入れた時のことを以下のように話す。
「オレさ 昨日一人で行ったんだ 小雪がちらついてシーズン・オフで人もおらんで
なんちゅーか 砂丘の真ん中に立ってるとすげー不安になるんだよ
目指す指針が何も見えなくて 自分がどこに立ってるのかもわからない
足元砂にさらわれておぼつかんし」
「答えが見えなくて 目的も見えなくて
本当にこっちに進んでいいんか道を間違ったんじゃねえかとか 焦って 迷って
結局どこにも行けなくて 訳もなく不安になって どつぼに陥って
ああ こぎゃん状態の時ってあるよなって 杏は多分ずっとこぎゃん状態なんだろうなって 12の冬からずっと」
(『砂時計』7巻)
砂に足をとらわれ、どこに向かっていいかわからない。杏は母を喪失してから、ずっとそのような状態にある。かといって父が新たな指針になるわけでもなく、ただ砂丘をさまよっているのではないか、と大悟は言う。
これはまさしく江藤の主張する「母性が喪失された後の状態」そのものであった。
とくに杏の母が、思春期のころから前近代的な田舎からずっと出たがっており、しかし離婚を契機に田舎に帰ることになったことが自殺のトリガーだったことは注目すべき点である。杏の母にとって、田舎の閉鎖的で情緒的な、つまり前近代の日本的な空気がなによりも耐え難いものであった。しかし杏の母として、田舎で母親として生きることを選ばざるをえない。それは江藤の言う「女性が前近代的な母を引き受ける」ことそのものだった。
杏の母は、田舎で母の役割を担うことを拒否する。前述したように杏は「ママはきっと最初からこうするつもりだったんだ この村に戻ると決めた日から きっと」と述べており、まさしく江藤の言う拒否の構造を直感的に理解している。杏の母が拒否したのは、『成熟と喪失』で説明された「母性」そのものだった。
杏と母は距離の近しい母娘だった。母が自殺しに行く前日、出かける際に杏が「私も一緒に行っていい?」と言ったことが象徴的である。しかし母は杏が一緒に来ることを拒否する。そして杏は母を喪失することになる。
また江藤は母を喪失した子のことを以下のように表現する。
「母」の拒否は子のなかにかならず深い罪悪感を生まずにはおかない。つまり自分が「母」にあたいしない「悪」の要素を持っているからこそ、「母」は自分を拒んだと思うのである。
(『成熟と喪失』)
これもまた『成熟と喪失』の主張と『砂時計』が同じ話をしている点である。前述したように杏は母が自分の母であることを拒否し、自ら命を絶ったことに、自分に原因があると罪悪感を持ち続けていた。母の希望になれなかったことにずっと罪悪感を抱えているのである。『成熟と喪失』は俊介を、その罪悪感から「彼のなかにほとんど処罰されたい欲求がある」と評するが、『砂時計』の杏もまた母への罪悪感から自らの幸福を許さない傾向がある。
そして杏は、罪悪感を抱えたまま、母の人生をなぞることになる。母と同じように結婚相手を見つけるが、結局結婚は破談となり、杏は無意識に自殺を図る。妻となろうとし、しかしそれを拒否する、という母のルートをなぞるのである。これは江藤が日本の女性たちについて説明した「母になることの拒否」という行動を杏は母と同じく実行したのだ、という点も強調したい。
3.喪った母をなぞる「娘」と、その成熟
しかし『成熟と喪失』と『砂時計』のもっとも異なる点は、ほかでもない子の性別だ。
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