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第七章 海の象形文字――シェイクスピアからメルヴィルへ|福嶋亮大(前編)
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第七章 海の象形文字――シェイクスピアからメルヴィルへ|福嶋亮大(前編)

2023-11-07 07:00
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。
    国家/個人としての主権の存在を宣言したとして発明的な出来事だったアメリカ独立宣言。ある種の「文学」とも言えるこの文書に潜む、ヨーロッパ文学の財産とは?

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ

    1、世界文学としてのアメリカ独立宣言

     アメリカの生み出した最初の、そして最も強い衝撃力を備えた≪世界文学≫は、一七七六年に発せられたアメリカ独立宣言(United States Declaration of Independence)である。政治学者のデイヴィッド・アーミテイジが指摘するように、この宣言は「現在まで存続し続けている政治的著述の一ジャンル」の誕生を告げた[1]。そのユニークさは、主権国家としての対外的な独立のみならず、諸個人の「生命、自由、そして幸福の追求」の権利も強く主張したことにある。国家の権利と人間の権利の価値を、世界という法廷で高らかに「宣言」し、現実のものに変える創設的な言説――それこそがアメリカ建国の始祖たちの発明したものである。独立宣言というジャンルは、ちょうど一八世紀のヨーロッパ人が「小説」を飛躍させたことに匹敵するような、言説の歴史における驚くべき発明であったと言えるだろう。
     しかも、この新しい政治的著述のジャンルは、強力な感染力を備えていた。アーミテイジによれば「アメリカ革命は、主権という名の伝染病の最初の大発生であり、この伝染病は一七七六年以降の数世紀の間、世界に大流行した」。この主権のパンデミックは「諸帝国が織りなす世界」から「諸国家が織りなす世界」への移行を決定づけた。この政治的疫病によって、世界じゅうに諸国家がひしめきあう新時代の扉が開かれた。一九世紀のヨーロッパが多極的な安定構造の時代であったのに対して(前章参照)、同時期の南北アメリカ大陸はむしろ国家の繁殖地となり、ハイチ、ベネズエラ、ブラジル等が相次いで独立を宣言し、二〇世紀になるとアジア、アフリカ、中東、バルカン半島、旧ソ連、東欧等で「主権という名の伝染病」が再燃した[2]。独立宣言という文書ジャンルは、この感染症の媒体になったのである。
     私がアメリカ独立宣言という「ノンフィクション」の文書を≪世界文学≫に数え入れるのは、そこにヨーロッパ文学の財産が受け継がれているからである。そもそも、一八世紀後半まで、文学(literature)は現代ならばノンフィクションに分類される著述――歴史、旅行記、哲学、科学等――を含む多義的な言葉であった[3]。当時のイギリスの『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』は、いずれもノンフィクションの体裁を利用した作品である。逆に、それ以降のロマン主義者たちは、「オリジナリティ」や「天才性」や「想像力」という概念を駆使し、literatureをむしろ現実から独立したフィクションに近づけた。一八世紀のクルーソーやガリヴァーが後に本格的な文学というより、しばしば児童文学のキャラクターとして扱われたのは、この大きな変化と関係している。一九世紀のliteratureの観念からすれば、一八世紀のliteratureは不純なテクストに映るだろう。
     しかし、われわれはむしろここで、今で言うノンフィクションからフィクションまでを横断する一八世紀的な「文学」の概念を呼び戻そう。なぜなら、アメリカ独立宣言という第一級の政治的文書のなかにも、大西洋を横断する(transatlantic)文学の痕跡があるからだ。
     現に、独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンは、ジョン・ロックの啓蒙思想に加えて、同時代のイギリスの小説家ローレンス・スターン、特にその最も実験的な『トリストラム・シャンディ』の愛読者でもあった。transatlanticな文学の研究者ポール・ジャイルズによれば、ジェファーソンがスターンの多面性――センティメンタルなモラリストにしてコスモポリタンな旅行者、下品な道化師にしてメタフィクション的なソフィスト――に魅了されていたのは、大いにありそうなことである。加えて、ジャイルズは独立宣言の掲げる有名な「幸福の追求」の権利も、スターンの思想と関連性があると推測した。
     ふつう「幸福」の意味は、共和主義的な公共的参加か、あるいはジョン・ロック的な私的財産の獲得と結びつけられることが多い。しかし、ジェファーソンの好んだ文学を鑑みれば、彼の幸福概念には恐らく、身体と心が複雑に織り交ざったスターン的な「感覚の衝動」のテーマが入り込んでいた。たえず揺れ動きながら、人間を本来的な「自然」と結びつける感覚(sensibility)は、一八世紀の知的パラダイムにおいて高く評価されたものであり、ジェファーソンの主著『ヴァージニア覚え書』を読んでも、彼が民主政治の諸制度の根底に、アメリカの風土や気候を感じ取る能力を置いていたことが分かる。公共的な生と個人的な生をともに包み込む「感覚」の哲学者・文学者としてジェファーソンを理解しようとするジャイルズの見解は、十分な注目に値するだろう[4]。
     その一方、アメリカがヨーロッパに及ぼした思想的影響も甚大であった。一八世紀の初期グローバリゼーションを背景として、当時のヨーロッパの思想家たちの観念は、環大西洋世界から強い作用を受けた。『カンディード』や『ロビンソン・クルーソー』の心象地理には、さも当然のように大西洋が組み込まれていたし、イギリスのデイヴィッド・ヒュームの哲学的著述も、環大西洋世界から得られる多くの情報によって支えられていた[5]。ジェファーソンもまた、アメリカの最も知的な政治家であり、かつ政治の前線に立つ一八世紀の大西洋人でもあるという二重性を備えていたと言えるだろう。

    2、すべてを変えてしまった革命

     では、独立宣言の切り開いたアメリカではいかなる《世界文学》が産出されたのだろうか。この本題に入る前に、ヨーロッパ人がアメリカへの進出をどう理解していたかというテーマを、もう少し掘り下げておこう。
     独立宣言と同じ一七七六年に、イギリスでは経済学者アダム・スミスの『国富論』が刊行された。スミスはそこでヨーロッパ人の植民史を大きく取り上げている。彼によれば、古代のギリシア人やローマ人にとって植民地建設には居住空間の拡大という明快な目的があったのに対して、アメリカ大陸の植民地ははっきりしたニーズがないままに創設された。

    アメリカと西インド諸島における植民地の設立は、必要性から生じたものではなく、その結果生じた効用がきわめて大きなものであったとはいえ、それは、まったく明白かつ明瞭なものではなかった。それは最初に設立された時に理解されておらず、しかも、その設立の動機や、それを発生させることになった発見の動機でもなかったから、その効用の性質、程度や限界は、おそらく今日でも十分に理解されていないのである。[6]

     ヨーロッパ人は自らがなぜ植民地を欲するのか、植民地がいかなる効用をもつのか十分に理解しないうちに、アメリカと西インド諸島に植民地を創設した。しかも、このニーズを超えた過剰な集団行動こそが、世界を劇的に変化させたのである。ミクロな個人の利益追求がマクロな「意図せざる目的」を達成するという≪見えざる手≫に注目したアダム・スミスは、ヨーロッパの植民史にも人間の意図を超えた力を認めた。
     さらに、フランスのディドロも同時代のスミスとよく似た認識を記していた。フランス革命前夜の一七七〇年に初版刊行されたギヨーム゠トマ・レーナルの大著『両インド史』に寄せた序文で、ディドロは新世界の発見を「革命」だと明言した。「新しい関係と新しい欲望によって、もっとも離れた国の人間同士が相互に近づいた」。経済圏が広がり、人間どうしの距離が縮まった結果として「いたるところで、人びとは意見や法律や慣習や病気や薬や美徳や悪徳をお互いに交換してきた」。ディドロはここで、あらゆるものが交換可能な商品になった、グローバルな商業ネットワークの到来を率直に認めていた。
     そもそも、スミスやディドロが生きたのは、ヨーロッパの資本主義経済が急速に拡大した時代である。ウォーラーステインによれば、一七五〇年前後を境にして、インド亜大陸、オスマン帝国、ロシア、西アフリカといった諸地域が、世界経済に組み込まれた[7]。ディドロが気づいていたのは、それまで資本主義の外部にあった地域を内部化してゆく巨大な経済圏の出現が、前例のない「革命」であったということである。
     しかも、ディドロの考えでは、自ら植民地を築いたにもかかわらず、ヨーロッパ人はこの全人類の接近の帰結を十全に理解していない。「ヨーロッパはいたるところに植民地を作ってきた。しかし、ヨーロッパは、植民地がどのような原理にもとづいて作られなければならないかを知っているだろうか」。このスミスにも似た問いかけは、人類の未来に対するディドロの懸念をいっそう深くした。

    すべてが変わってしまったし、今後も変わっていくに違いない。しかし、過去に生じた革命は、人間本性にとって有益なものであっただろうか。また、今後、まちがいなく起こると思われる革命は、人間本性にとって有益なものになるだろうか。いつの日か人間は、これらの革命のおかげで、よりいっそうの平安と幸福と快楽を得ることになるだろうか。人間の状態は、よりいっそうよくなるだろうか。それともただ変化していくだけなのだろうか。[8]

     ディドロは植民地の獲得が、ヨーロッパのすべてを根本的に変えてしまったことに驚いている。ヨーロッパ人はこの思いがけない革命が「人間本性」にとって、幸福な変化であったかを検証する術をもたなかった。
     ヨーロッパ人が植民地事業によって、自らの根源的な自然=本性(nature)をも知らないうちに変えてしまったというディドロの考え方には、深い内省の跡が感じられる。それは、一八世紀文学の主人公像とも無関係ではない。例えば、ロビンソン・クルーソーは南米植民地の経営者、海賊の捕虜、さらに孤島の漂流者へと生まれ変わる。このめまぐるしい変身は、植民地の支配者であることによって、かえって不慮のアクシデントにさらされ、孤独な漂流者になったヨーロッパ人の姿を寓意している。『両インド史』に関わったディドロは、このクルーソー的な逆説を見事に捉えていたように思える。

     
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