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第十章 絶滅――小説の破壊的プログラム|福嶋亮大(後編)
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第十章 絶滅――小説の破壊的プログラム|福嶋亮大(後編)

2024-02-20 07:00
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    6、倒錯的な量的世界――スウィフト『ガリヴァー旅行記』

    『ロビンソン・クルーソー』への自己批評と呼ぶべき『ペスト』からほどなくして、一七二六年にスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の初版が刊行される。この奇怪な旅行小説は、一八世紀の初期グローバリゼーションを背景として、人間の可変性や可塑性を誇張的に示した。

    イングランドの政治を批判する一方、故郷のアイルランドをも罵倒した非妥協的な著述家らしく、スウィフトはまさにルカーチ流の故郷喪失者としてガリヴァーを描き出した。海に出ることを「運命」と感じて、医者として船に乗り込んだガリヴァーは、何度も冒険と漂流を繰り返し、そのつど新たな国家に接触しては、ヨーロッパとは異質の文化的習慣を「ありのまま」に記録しようとする。そこには、人間はいかようにも変化し得る動物だというスウィフトのクールでシニカルな認識があった。

    周知のように、ガリヴァーは第一部では小人国リリパットに漂着し、自身の十二分の一サイズの王侯貴族に歓待されるが、第二部では大人国ブロブディンナグで、十二倍の巨人に小さな玩具のように扱われる。第三部では、飛行島ラピュタ(ラプータ)から日本の長崎に到る多くの土地が登場した後に、第四部では奇怪な「馬の国」が舞台となる。そこでは「フウイヌム」と呼ばれる理性的な馬たちが特定の支配者をもたず「集会」によって政治を進める一方、人間は下等な「ヤフー」として使役されている。馬の国にすっかり魅せられたガリヴァーは、ヤフーの皮(!)でカヌーを製造して帰国し、妻子と再会した後も、人間の体臭に耐えられず馬たちと暮らす。

    人間の象徴的な優位性をさまざまな手口で失墜させること――それが『ガリヴァー旅行記』を貫く明晰な悪意である。それは究極的には、ジェノサイドの構想にまで到るだろう[26]。馬の国のフウイヌムは理性の命令に従って、人口を完璧にコントロールする一方、醜悪で悪辣きわまりないヤフーを地上から絶滅(exterminate)させるべきか否かを議論する(第四部第九章)。ちょうどデフォーの『ペスト』と同じく、スウィフトの馬の国でも固有名は蒸発し、生物は操作可能な量に還元される。『1984』の著者ジョージ・オーウェルは『ガリヴァー旅行記』の第三部に相互監視的な警察国家のモデルを認める一方、第四部の「馬の国」を順応主義がすみずみまで行き渡った全体主義体制の予告編と見なし、ヤフーをナチス・ドイツ統治下のユダヤ人になぞらえたが[27]、それもあながち突飛な解釈ではない。

    そもそも、『ガリヴァー旅行記』は子供向けにも思える前半から、すでに人間の量的操作を実行していた。『ペスト』や『ソドムの百二十日』がいわばエクセルのように犠牲者の数値的データを記録したとすれば、『ガリヴァー旅行記』はいわばフォトショップのように図像のサイズを伸縮させた。リリパットでは人間と動植物の「比率(proportion)」が正確に決められている(第一部第六章)。ブロブディンナグでは万物のサイズが大きくなった結果、その図像の解像度も変わり、シラミが異様に拡大され、女性の皮膚の気味悪くでこぼこした様子がクロースアップされるのだ(第二部第五章)。

    かつて批評家の花田清輝が鋭く指摘したように、『ガリヴァー旅行記』の認識と論理は「量的把握という一事につきる」。ガリヴァーの旅行は「量的変化をみちびきだすための力学的位置変化」であり、そこには「人間の質のみを強調するルネッサンス以来の人間主義にたいする批判」が含まれる[28]。この比率の操作された量的世界においては、シラミや皮膚のような平凡なものが平凡なままで吐き気や嫌悪感を催させる[29]――それがフォトショップ的な比率変更の効果なのだ。スウィフトはある意味ではデフォーやサド以上に徹底した悪意によって、倒錯的な量的世界を描き出した。

    さらに、第三部では、テクノロジーの進歩への夢が批評される。天然磁石の力で飛ぶラピュタの住民は、数学と音楽に熱中して周囲を顧みず、ガリヴァーの存在には無関心である。この冷淡なラピュタを去ってバルニバーニの首都ラガードに赴いたガリヴァーは、さまざまな新規プロジェクトを推進するグランド・アカデミーを見学する。そこで「思弁的学問」の自動化を企てる教授は、まるで二一世紀の生成AIの研究者のように「どれほど無知な人間でも、費用も手ごろ、多少の肉体労働を行なうだけで、天賦の才や勉強の助けをいっさい借りずに、科学、詩、政治、法律、数学、神学に関する書物を著すことができるのです」と豪語し、百科全書を自動生成する機械を披露する。


    表の面には、おおよそ骰子の大きさの――ただし一部はもう少し大きい――木片が並び、細い針金でたがいにつながっています。どの木片も、すべての面に紙が貼られ、それらの紙に、この国の言語の全単語が書いてあります。あらゆる時制、語形変化、直接法や仮定法等々すべての叙法も網羅していますが、ただし順番はバラバラになっています。[30]


    この木片の並んだ装置を弟子たちが回転させると、そのつど新たな文が出力される。単語を網羅的にデータ化し、その膨大な順列組みあわせを試して、あらゆる分野の書物を自動生成する機械――それはAIの夢を先取りするものだろう。

    この教授をはじめ、ラガードの学者たちは人間の労力を減らすための「進歩」に駆り立てられているが、それをスウィフトは諷刺的に描いている。オーウェルが注目したように、第三篇で描かれるプロジェクトが、言語の全体主義的なコントロールに通じることは確かだろう。『ガリヴァー旅行記』では、人間のみならず言語も量的なものであり、いかようにでも操作され変形される。

    その後、ガリヴァーは降霊術を用いるグラブダドリッブ島で、偉人の亡霊(ホメロス、アリストテレス、デカルト……)に出くわした後、ラグナグ島で「ストラルドブラグ」と呼ばれる不死の人間たちを目撃するが、彼らは老醜をさらけ出し、身体も思考能力もむざんに衰え切っている。死ぬに死ねない不気味なゾンビのような不死人間たちは、長寿のおぞましさをその全身で表現していた。『ガリヴァー旅行記』において、ポストヒューマンな人工知能と不死の身体は、ときに滑稽で、ときにグロテスクなものとして描き出される。

    すでに『ガリヴァー旅行記』に先立って、ライプニッツとニュートンが近代科学の礎を築いていた。スウィフトの驚くべき先進性は、この科学の欲望の帰結――人工知能からアンチエイジングまで――を見通し、諷刺の対象にしたことにある。後にゲーテが『ファウスト』で描いたように、近代の知的冒険はいずれ、人間の枠組みを超越したポストヒューマンな存在を生成するだろう。世界の量的操作をアカデミックな「プロジェクト」に仕立てた『ガリヴァー旅行記』の第三部は、この超越の運動が希望のない世界に到ることを暗示していた。

    こうして、『ガリヴァー旅行記』の読者は馬の国で悪辣なヤフーに出会う前に、身体・知能・言語が可塑的なものであり、いかようにでも作り変えられるというクールでシニカルな認識を何度も突きつけられる(この人間の可塑性を全体主義的支配の前提と見なしたのが、後のオーウェルの『1984』である)。人間の象徴的な優位性をしつこく転覆するスウィフト的な教育――その極限に、ヤフー=人間を物理的に「絶滅」させようとする忌まわしい議論が現れるのだ。

     
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    最終更新日:2024-03-19 07:00
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