【『ガンダム Gのレコンギスタ』放映記念!】
いま、ガンダムと富野由悠季の歩みを振り返る(中川大地)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.9.4 vol.151
本日のほぼ惑は、10月からの『ガンダム Gのレコンギスタ』放映を(勝手に)記念し、2004年刊行のムックシリーズ『ガンダムヒストリカ』(講談社)にて、富野由悠季と「ガンダム」シリーズの歩みを総括した中川大地のエッセイをお届けします。
ファーストガンダム放映35周年となる今回の『Gレコ』開始にあたり、25周年当時の富野由悠季が置かれていた状況を振り返る、貴重なドキュメント・レポートです。
【富野由悠季プロフィール】
1941年生まれ。虫プロで『鉄腕アトム』を手がけ、日本初のTVアニメ制作に参加。斧谷稔名義で「コンテ千本切り」の伝説を築き、『海のトリトン』で初のチーフディレクターを担当。『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』の原作・総監督を経て『ガンダム』に至る。小説家としても数々の作品があるほか、井荻麟名義で自作の使用歌曲の作詞も行う。
2004年4月17日。金沢工業大学にて、昨年度に第1期を終えた公開講座「ガンダム創出学」の第2期が開講した。講師は、富野由悠季ガンダム総監督。「リアルに対面するために」と題されたその最初の講義に、『ガンダム』四半世紀史の中核にある「リアル」の意味を再検証してきたすべく、筆者は学生たちの列に混じった。
■「ガンダム創出学」で起きたこと
金沢工業大学の学生触発企画のひとつとして、2003年度から催されている公開講座「ガンダム創出学」。昨年度の第1期「現代編」の講座は、メカデザインやSF設定に携わった『機動戦士ガンダム』制作当時の関係者たちを講師とし、エンジニアの卵たちに「ものづくり」の発想をガイドする主旨で、全10回の講義が行われた。第2期「未来編」となる今年は、ガンダム世界の未来像と通底するコンセプトを呼び水に、自動車デザインや二足歩行ロボットの専門家など、より実業の現場に近い講師陣での展開になる。
この、授業と講演の合いの子のような独特の講座の全体を設計し統括するのが、富野由悠季「客員教授」。連続講座の最初と最後は、いわずとしれたガンダム総監督自身が導入と総括を務める。
その最初の講義を聴講すべく、筆者は金沢を訪ねた。タイトルは、「リアルに対面するために」。真新しい超近代的な設備の校舎に感心しながら、興奮気味で『ガンダムSEED』の話をしてる学生たちに混じって教室の片隅に陣取ることしばらく。襟のない牧師みたいな黒いスーツの、スキンヘッドのおじさんが入ってきた。
――トミノさんだ。大学スタッフからの紹介ののち、その人は低い声で学生たちに語りかけた。
「富野です、おはようございます。タイトルの通り、いま皆さんとリアルに対面しているわけですが、まず教えてください。今年、こちらに入学なさった方、手を挙げてください」
教室の半分以上の手が挙がった。こんな調子で、学生たちの手応えをすこし丁寧すぎるくらいに確認していきつつ、徐々に話は熱を帯び、次第に歯に衣きせぬトミノ節があらわになってくる。ノートを取る気配のない生徒たちへの注意、「金沢工大にしか来られなかった」とクサっているかもしれない連中への檄、そして「皆さんよりもっと優秀で努力家だった人たちが考えた原理原則公式を、いまさら白紙から考えたら何回人生があっても間に合わないから」という、きわめて身も蓋もない学習の必要性の種明かし……。
「今日は、僕らのような人間からみて、工業大学という理科系の環境でこれから技術開発に携わっていく人に、いちばん大事だと思うことをお伝えしたいと思います。……はい、全員立って!」
そうきたか! ざわめき、戸惑う学生たちと一緒に立ち上がりながら、筆者は富野が以前齋藤孝(*1)と対談していたのを思い出していた。
「……両手を合わせて、まっすぐ伸ばして上へ、上へ。上げていく過程での肩の筋肉、肩胛骨の筋肉、指先の筋肉、お尻の穴から這い上がっていく感覚がどうに指先に伝わるかを、感じてください。……はい、では隣の人と手を合わせてください。合わせろっ(笑)! それぞれの掌のふくらみが相手とどう接しているか。指先同士が、その面積が何センチ平方メートル相手とどう接しているか、感じろ。感じるだけでなく考えろ! そしてできたら考えるだけでなく、それを認識として、自分の中に、取りこめっ!!」
そして黒板に大書きした、「身体性」の3文字。筆者の脳裏に思い浮かんだのは、『ガンダム』最終話でのアムロとシャアの応酬だ。
『ニュータイプでも身体を使うことは普通の人と同じだと思ったからだ!』
『そう、身体を使うわざはニュータイプといえども訓練をしなければな!』
デジタル社会に適応しケータイやパソコンを苦もなく使いこなす新世代たちへ、おもねらずに真っ向から突きつける生身のリアリティ。かつて思春期的な感性で「子供騙し」のアニメを変革した〝御大〟は、その本質をまるで揺るがすことなく、そんなふうに大人をやってみせている。それはきっと、「アニメ新世紀宣言」以来、その時々の若者たちとの向き合いかたをずっと考えつづけてきたからこその姿だろう。そんな富野が過ごした25年の来歴に、筆者は思いを馳せた。
■その後のガンダムシーンと富野の苦悩
1980年の本放送終了から劇場化を経て、社会現象的な盛り上がりをみせた『ガンダム』の人気は、以後のアニメをめぐる状況を文字通り一変させた。次々と創刊されたアニメ誌がティーンエイジャーたちの間に「アニメファン」という共同意識をもたらし、ガンプラブームが玩具ではなくプラモデル市場を存立基盤とする「リアルロボット」アニメというカテゴリーを生み、一気に主流化する変化のなか、富野は一躍アニメファンたちのカリスマに祭りあげられることになる。しかし後年の談話が示す当時のムーブメントへの本人の認識は、常に苦々しいジレンマと裏腹だった。
「時代の問題だと思います。(中略)時代はそういう芯になるものを欲するんです。そういう時に、例えば僕のようながカリスマだと呼ばれて、ひょっとしたらそうかも知れないなと思ったという僕の馬鹿さ加減の方がよほど問題です」(*2)
子供向け玩具の古い約束事が、アニメの作品性を縛る状況はたしかに変わった。しかし次に訪れたのは、『ガンダム』の成功自体が新たな商業的束縛の枠組みとなり、MSVなど作品本編から独り歩きした設定遊び的な充足をも含めた期待が、劇場化の際にも頑なに拒んでいた続編の制作を富野に強いるという事態だった。
「結局『ガンダム』しか残ってないから、これから10年『ガンダム』でやるしかない。(中略)だけどこれを続けて行ったら、自分の作家性の部分は絶対にジリ貧になっていくというのと、これに甘えていく自分というのもあるだろう」(*3)
その自覚のとおり、'85年の『機動戦士Zガンダム』以降、「続ける」ことを前提づけられてしまったシリーズでは、白々しいウソを避け、「リアル」な作品性に誠実であろうとすればするほど、物語は余裕のない、痛々しい現実の写し絵へと陥ってゆく。地球連邦と宇宙移民の対立は永遠に解決を許されず、またニュータイプの希望は幻滅を重ね、やがて「なかったこと」にされる。そして'93年の『機動戦士Vガンダム』を「ガンダムを潰す」つもりで完結させると、富野は「キレて病気になった」(*4)。
そうして本編のドラマが求心力を失うに伴い、不満を抱きつつもガンダムを見限れないファンたちは、関連書籍やプラモを通じたモビルスーツや細部設定に執着したりファーストを絶対視したりするマニアックな層へとしだいに収斂していく。'80年代後半から'90年代にかけては、そのようにコア化した市場向けにOVAやゲームで「一年戦争外伝もの」が作られる一方、反対にまったく先入観のない新規層に向けては「ガンダム」の暖簾だけを継ぎ、宇宙世紀に無関係な『機動武闘伝Gガンダム』以降の、いわゆる「アナザーガンダム」のTVシリーズが放映。富野のパーソナリティが必要とされずにガンダムが再生産・消費される時代として、過ぎていったのである。
■「黒歴史」に向きあって
富野がふたたびガンダムに呼び戻されたのは、『機動新世紀ガンダムX』が打ち切りとなりTVからガンダムが撤退していた'97年4月10日のことだったという。'99年の「ガンダム20周年記念事業」に向けつつも、「記念イベント論はかんがえずに撤退をうけたニューガンダムを企画してくれ」とサンライズの吉井孝幸社長から要請される。『ブレンパワード』でようやく「病気」から回復しつつあった富野は、こうして『∀ガンダム』を作りはじめるのだった。