2014年2月より約1年にわたってお送りしてきたメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。この年末は、200本以上の記事の中から編集長・宇野常寛が選んだ記事10本を、5日間に分けてカウントダウン形式で再配信していきます。第3位は、Yahoo!Japan CSOで『イシューからはじめよ』著者の安宅和人さんへのインタビューです!(2014年4月3日配信)
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▼編集長・宇野常寛のコメント
安宅さんの『イシューからはじめよ』という本は「ほぼ日」を通してビジネスマンにとても支持された隠れベストセラーで、僕自身も非常に影響を受けました。で、実はこの本は、ビジネス書というよりも安宅さんの哲学と人間観を表現した理論書だと思っています。要するに「高度な思考は言語化できない」という前提を受け入れることで、現代人のほとんどが避けている「非言語的」な論理的思考法を提案していると言えると思います。
そしてこのインタビューでは、「その非言語的な思考を部分的に可視化するものとして、現代の情報テクノロジーを捉え直すことができないか」という話をしている。言葉が簡単なわりに話している内容が抽象的でわかりづらかったかもしれないですね。でも、ここで話した内容は僕の自分の本にもかなり直接的に活かそうと思っているので、そのあたりも楽しみにしていてほしいと思っています。
2010年末に出版されベストセラーとなったビジネス書『イシューからはじめよ』の作者である、Yahoo! Japan CSOの安宅和人氏は、経営コンサルタントと神経科学者の2つの経歴を併せ持つ異色の人物だ。ネットユーザーには人気ブログ「ニューロサイエンスとマーケティングの間」のid:kaz_ataka氏としても有名である。
このブログや著作からも窺えるように、氏の経歴は双方ともに華々しい。外資系コンサルティングファームで、独自の消費者マーケティング手法によってヒット商品の開発に関わってきた一方、米国イェール大学での研究者時代には、平均7年弱かかるプログラムを、当時最短の3年9ヶ月でPh.Dを取得している。そんな氏の仕事術を明かしてみせた本が、『イシューからはじめよ』であった。
今回、ひょんなことから安宅氏と知り合った宇野の希望で、我々PLANETS編集部は六本木の東京ミッドタウン内にあるYahoo! Japan本社を訪問することになった。宇野が今回、強く興味を惹かれていたのは、安宅氏の「哲学」である。『イシューからはじめよ』の背景で彼が考えていた内容にはじまり、二人の議論はインターネット時代における「言葉」や「人間」についての認識を問うものになっていった。
◎構成:稲葉ほたて
■『イシューからはじめよ』は"科学書"だった
宇野 今日僕が聞きたいことは究極的には一つで、それは安宅さんの『イシューからはじめよ』という本の背景にある人間観についてなんですよ。あの本には、安宅さんが冒頭で書かれているように、ニューロサイエンスとマーケティングの間で考えた仕事術が詰め込まれているのですが、僕の興味はむしろその背景にある人間観の方なんです。科学者・安宅和人はニューロサイエンスとマーケティングの間からかなりユニークな人間像を持ち帰っている。そこを引き出したいんです。
安宅 ありがとうございます。あれはブログで書いた記事の反響を受けて、重い腰を上げて書き始めた本なんです。しかも、ブログのハンドル名で出すつもりだったのですが、最後になって「こんなに濃い本なのだから、ちゃんと実名で出しましょう」という話になってしまった(笑)。
でも、本来は科学研究のためののような本だったんですよ。大量のサイエンス事例を載せていたのですが、優秀なエディターの強烈なパワーによって一般向けに味付けが代わり、ビジネスチックな話を多く差し込みました。
宇野 だとすると、僕が読みたいのはその理論編ですね。事例というのは研究結果についてですか。
安宅 いえ、研究における知的生産の手法についてです。そもそも僕のブログの読者は何らかの研究をしている人がどうも多く、彼らのリクエストによって書籍化されたわけですから。そこで書いたのは、まさにタイトルの通り、「イシューからはじめよ」を優れた科学研究の事例に沿って説明しようとしたものでした。
宇野 門外漢からすると、この2014年の現在においては特定の業界ではこの本の影響か、僕の周囲にいる人、たとえば楽天の尾原和啓さんなどがその代表ですが、「イシューから始める」ことを意識している人は決して少なくはない。でも、日本の自然科学の現場ではそういう発想が弱かったのですか?
安宅 私の関係する分野では一部の優秀な研究者を除いて、明示的には行っていなかったと思いますね。日々これはどうだろうと実験をして、面白い結果が出てこないか、それをみて考えようという人が多かったのではと思います。現在もそうかは難しいところですが、僕のブログに対する数多の研究者からの反応を見るに、さほど状況は変わっていないように思います。
しかし、少なくとも私の体験、見聞した米国の一部のラボは違いました。例えば、僕が留学していたとき、たった5人程度のある名もないラボが年間5本も6本も超一流誌に論文を掲載していたんです。その手法は驚くべきもので、彼らはまず論文のタイトルから真っ先に決めてしまうんです。そして、もう研究完成時の絵ができていて、「この5つが示せればよい」ということまで最初に設計しているんです。しかも、最初の問題の立て方が非常に秀逸で、みんなが議論している問題の本当に重要な論点を見事に突いてくるので、答えが何であろうが必ず大きなインパクトを持つ結果になるわけです。当時の僕はもう「こいつら、なんちゅうやり方しとんねん」と大変にショックでしたね。
この研究室のやり方を書いたブログエントリーは、私が全く想定していなかったレベルの評判を呼びました。ある時など、国内の著名な分子生物学の研究者の方から「ぜひこれについて学会で紹介して、一席ぶちたい」とメールが来たり(笑)。あの本は、こういうふうに課題設定の在り方から先に始めて成功した研究、知的生産事例についてまとめたものだったんです。
■「ビジュアルの思考」が伝わらない世界で
宇野 安宅さんはこの本で「言語で考える思考」と「絵で考える思考」のふたつを対置させて、ご自身は後者の思考を用いるタイプだと位置づけていますね。そしてこの「イシューからはじめよ」という本は、タイトルの通り回答の追求よりも問題設定を優先せよというメッセージを訴えた本なのだけど、これは同時に言語的な思考ではなく、絵的な思考でアプローチせよと主張しているのだと思うんです。
安宅 そういう面は、確かにあるかもしれないと思います。自分はさておきですが正しい問いを見出す人というのは、個別の現象を解釈せずに、まずは構造的に全体で見る人が多いように思います。例えば、彼らは、法律を研究するとなったときに、六法全書を読んで条文にある言葉を一つ一つ意味を考えていくようなことをしないでしょう。一体、どの法律がどういう関係の中にあるのかを、まずは見るはずです。あるいは、この分野はここの部分がまだ研究されてないぞ、とかね。
それは、やはり俯瞰して見る能力ですよ。一体どの問題が大事なのかということは、まずは大きい絵の中で見なければわかりませんから。そういう考えができる人のほうが有利ですが、少ないです。
これは個人的に、非常に悩んだことでもあります。僕は日本の大学院で分子生物学の研究をしていたときに、コンサルティングファームに偶然、誘われたのですが、そこで急に科学者同士だと分かりあえていた話が通じなくなってしまったんです。ビジネスの世界に入ると「お前が言っていることは正しそうだけど、何も理解できない」と言われて、大変に苦労したのですね。
科学者って、言語化が困難な部分をムリヤリに言語化して論文に叩き込むところがあって、そういう世界が存在する前提で生きてるんです。でも、一緒に仕事をしたチームの人たちの経済学部や法学部出身の人の多くには、それが伝わらない。だから、この言語化し得ないメタ形而上学のような世界をどうにか形にしなければいけないと感じました。
宇野 「ビジュアルの思考」を用いないと「イシューからはじめることは困難」というのは大きな問題だと思います。ちょっと変な言い方になるのだけど、少なくともいま僕たちが用いている言語的な思考では記述することが難しい論理というものが世界には間違いなく存在している。それは「直感」や「感性」と呼ばれることも多いのけれど、実はあくまで「論理」なのだということですよね。
安宅 同感ですね。もちろん、解決するために言葉に落としこむのは大事ですから、言葉の重要性を否定しているわけではありません。しかし、そういう側面は大きいと思います。
■言葉にするのが難しいものをどう言語化するか
宇野 対して、現代の情報技術の発達は、従来の言語では記述できないものを可視化していっているんだと思うんですよ。例えば、僕はFacebookの「イイね!」の付け合いから、誰と誰が付き合っているかのような人間関係を見抜くのが得意で……
安宅 はっはっは(笑)
宇野 このとき僕は「イイね!」の数という、従来の言語では扱いづらかった、「空気」とか「感触」と言われていた曖昧な存在を数字というかたちで可視化する装置を用いて、論理的な分析を行っているんですよね。そこで『イシューからはじめよ』に話を戻すと、僕がこの本で面白いなと思ったのは、安宅さんがこうした「言葉にできない論理」をなんとか言葉に落とし込もうとしている悪戦苦闘の過程が見えているところで、そこに発見出来る試行錯誤こそが「イシューからはじめ」ること、つまり問題設定から解決のプロセスへの接続、つまりビジュアルの思考から言葉の思考へと接続する作業の極めて優れた例になっていることなんです。
安宅 あの本には、ひじょうに感覚的なことをたくさん書いた気がします。自分が上手く問いを立てた経験と見聞きした事例をグルーピングして、うんうん考えるというなかなか大変な作業でした。とはいえ、普段から僕がやっているのは、そういうふわっとしたものを言語に落とす作業です。この"言語化が難しいもの"を言語化して枠組みに叩き落とす作業というのは、知的生産と呼ばれる営みの半分以上を占めていると思います。
■脳の中で言語が占める部位はオマケのようなもの
宇野 そもそも世の中には、人間は言葉でしかものを考えられないとするか、言葉は考えられることの一部にしか過ぎないと捉えるか、の二通りがあると思うんです。僕は後者の方が正しいと思うのですが、これまでの世界では圧倒的に前者の考えの方が優勢ですよね。
ところが現在、世の中を動かしている情報テクノロジーは後者の世界理解に親和性が高い。どんどん言語が追いつかない領域も可視化してコントロールしはじめていて、そのせいでたぶん言葉の世界だけで思考してる人たちが、世界から完全に置き去りにされちゃってる気がするんですよね。
安宅 (スマホを手にとってスクロールさせながら)こういうUI/UXなんかによって、世界が変わってしまいますからね。言葉じゃない部分の実態に、人間が急速に気づきつつあるんだと思います。
宇野 その変化は、具体的にどういう形で起こっていくと思いますか?
安宅 やはり端緒はスマホになると思います。まず、このデバイスでのUI/UX自体が、基本的にTwitterのようなストリーム以外の形式で受け入れにくいんです。いつも手の中に何かがあって、あまりにも激しすぎる情報が流れてくるときに、上下にスクロールさせていくしかない。だって、昔テレビのチャンネルをチェンジしていた時の、1000倍くらいの情報を処理しているわけですから。そして、こういうふうに情報量がある閾値を超えたときに一瞬で理解する唯一の方法が、目で画像を見ることだと思うんですよ。結果的に、脱言語化しているんですよね。
最初に画像がスマホで流れてくるのを見たとき、僕も、単に「綺麗だな」としか思わなかったのですが、現在はこれが本質だと思っています。膨大な情報をみんなが普通に消化して生きていく時代に、我々の脳の基本構造に立ち返ると、画像が中心にならざるをえないからです。実際、我々の脳の中で言語にダイレクトに関係する箇所なんて、(ウェルニッケ中枢とブローカの)2箇所くらいしかなくて、ほとんどおまけみたいなものですよ。でも、視覚というのは(後頭部を触りながら)この辺りの全部ですからね。人間の脳の7割は視覚処理に何らかの形で関与していて、その中で視覚にメインに使われているところだけでも皮質の3割から4割を占めているんです。
宇野 そうなんですか!
安宅 映画や小説を見ても分かる通り、別れた彼女のことや手のひらのことを思い出すだけでも、脳のスクリプトのかなりの部分が視覚で埋め尽くされてしまいますしね。そのくらいに脳の構造は視覚に依存しているのに、人間が言語で思考してきたということに、そもそも限界があるんです。これほど情報量が膨大になった現代で、脳のキャパを広げて対応しなければいけなくなったときに、もっとも処理が長けている部分で情報処理をせざるをえなくなっている。
宇野 情報技術はそうした「脳のキャパを広げて」過剰になった情報量を処理するための支援ツールとして発達しているわけですからね。それは言い換えると「ビジュアルの思考」を扱いやすくするための支援ツールだとも言える。
■ウィキペディアが示してしまった固有名の本質
安宅 たとえば、そういう情報量への対応という点で、ウィキペディアは偉大な実験をしていると思いますね。ブリタニカの時代には、項目ごとにその分野の大家が書いていたのが、なんと一般人の集合知に負けてしまったわけですから。それに、もう一つ面白いのは、概念を固定化しなくてよいと証明したことです(笑)。人間は概念がエボルビングに(進化しながら)動いていっても全然回していけるし、むしろハッピーである。そういう当然といえば当然なことを、これ以上ない形で明示してしまったんですね。現在のウィキペディアはなにか概念を浮遊させて、転がして遊んでいるような感じがします。この言葉はいまこの位置にあるのだなというのが見えるし、その動きもわかる。
宇野 なるほど。ある概念はいま、概ねこの状態にあるということがネットワーク上で常に確認できること、というかすべての概念が固定されるものではなくこの状態にあるというものでしかなくなってしまったとき、社会における言葉の位置づけが変わってしまいますよね。そうすることで今より「ビジュアルの思考」を置き換えやすいものに言葉を進化させることができるかもしれない。
安宅 日本人はずっと苦しんでいるんじゃないかとは思います。というのは、ビジュアルもそうですが、もう知覚全般にまつわる意識が非常に強い国民なのに、外から入ってきた漢字を中心とする言語体系というのは極度にドライで殺伐としたものなのですね。
宇野 たとえば、これまでの社会は専門職が専門家の言葉を使うことで成立していたのですが、現在はこうした言語の用法に規定された社会そのものからの解放が起きていると思うんです。インターネット以降、僕らは日常的に「書き言葉」でコミュニケーションをとっている。しかし、そこで使われる言葉は少なくとも日本語においては僕ら物書きが扱っている日本語の散文の形式からは次第に離れて行っている。文学の衰退や、オールドタイプの文化の没落の根源的な理由のひとつがここにあると僕は思うんです。要するに、ここでも日本語という言語が世界の変化に追いついていない。
で、そんな僕が、では新しい日本語の書き言葉として、どんな形が有望だと思ってるかというと、たとえばそれはウィキペディアの文体だったりするんです。あれって、グローバルな表記ルールに無理矢理日本語を当てはめた結果いろいろおかしくなっているけれど、そこに可能性を感じるんですよ。
いま僕らが使っている日本語の散文の文体は、どう考えても論理を記述するのに向いていないですからね。逆に、安宅さんのいうような「ビジュアルの思考」には適しているのかもしれないけれど、僕個人は「イイね!」の数を用いる方が「ビジュアルの思考」も取り扱いやすくなると思っています。だからウィキペディアのようなところから、ポスト近代日本語が出て来ると面白いと思っています。
安宅 確かにそういうところはあるかと思います。言語が世の中、我々の感じるものをちゃんと表現できないこの時代に、新しい表現が生まれてきている、あるいは表現そのものが進化しようとしているのかなと感じますね。
■消費を人間単位で考えるのは生命に対する"冒涜"?
宇野 もうひとつ、この本の背景にあるのは、「言葉の思考」の背景にある人間観への懐疑だと思うんです。安宅さんは一貫して人間の内面ではなく、人間と人間、あるいは人間とモノ、サービスなどとのつながり、構造に注目していて、そのためには「言葉の思考」ではなく「ビジュアルの思考」が必要だと主張しているのだと僕は解釈しました。言ってみると安宅さんには、内面に異様に高く価値を置くような「近代小説」的な思考とは根本的に異なる否定のものを感じますね。