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カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.337 ☆
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カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.337 ☆

2015-06-04 07:00

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    カルチャーを「自意識」から解き放つ
    (石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.4 vol.337

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    本日は石岡良治さんの連載『視覚文化「超」講義外伝』の第5回をお届けします。あるカルチャーを好きになっていくと、私たちの前に必ず立ちはだかるのが「教養主義」の問題。楽しいものだったはずの「文化」を息苦しくさせてしまうこの教養主義の構造について、より細かく読み解いていきます。

    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。
    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第2回放送日:2014年8月13日)の内容に加筆・修正を加えたものです。


    ■ 文化のレギュレーション
     
     教養がなんでもカルチャーになってしまった。その後どうするかということです。本書では「レギュレーション」という言葉を挙げています。「レギュレーション」とはF1などのモータースポーツやスポーツ観戦されている方はお分かりになると思いますが、競技規定のことを指します。柔道やボクシングで体重別で階級があるとします。するとある種のパワー厨の人は、一番重い階級がいいと思うかもしれませんが、そうではありません。軽量級のレギュレーションにはそれ固有の魅力があって、重量級とは全く様相が変わってくるんですね。私の家は教養とは無縁で、父親がいつもボクシングをテレビで観戦していたんですが、ボクシングの軽量級の魅力をそこで知りました。レギュレーションによって全く違う競技といっていいぐらいの幅が生まれます。
     
     レギュレーションによって様々なカルチャーを捉えるというのが、本書で提示した一つの事柄です。そこにハイカルチャー、ポピュラーカルチャーの関係を放り込むというのが本書の流れです。本書が出た後、図書館の日本十進分類でどこに入るのかな?ということを少し気にしていました。実際は、700番台である美術学に入ることもあったのですが、国立国会図書館では361.5、すなわちカルチャー系のメディア文化論に入りました。つまりポピュラー文化の本として扱われるときは361.5に入って、アート系の本とされたら704に入ります。映画論扱いだと778ですね。私は、図書館でよく利用する本の数字は覚えてしまっています。この分類もレギュレーションといえます。
     
     私はレギュレーションは一個一個定まっていると考えています。とはいえカルチャーでは、なんでもありになってゆるゆるにならないか、または、かつて科学哲学のパラダイム論にかんしてポール・ファイヤアーベントが唱えた、科学では「何でもかまわない(Anything goes)」というフレーズがあるのですが、なんでもありではないことは近年の科学を巡る諸問題から明らかです。だいたい、このような主張をすると多くの人文系の人たちから色々な批判を受けます。ニコ厨であることで、なぜか人文的な文化に対する教養主義へのアクセス権を失ってしまうという排他的な考え方は、今でも残っていると思います。残念ながら、人文厨の人はこの動画は視聴していないと思いますが、私自身は、人文のレギュレーションを一定程度学んだことがあるので、彼らの発想の仕方もわかります。例えばモーリス・ブランショの書籍に出てくるマラルメの言葉「世界は一冊の書物に到達するために存在しているのだ」という擬似存在論的な文化観が典型的です。そういう問題について考える必要があるということです。
     
     もしかしたら人によっては、私くらいの年齢の団塊ジュニア世代を疎ましく思う方がいらっしゃると思います。実際に、世代間のミスマッチは絶対にあります。私にとっては60年代後半生まれぐらいの世代がそれで、もちろん合う人とは合うのですが、彼らバブル世代の感覚は基本的には苦手なんですね。
     そこで68年生まれの清水真木さんの『感情とは何か』(ちくま新書)を紹介したいと思います。この本は「プラトンからハンナ・アーレントまで」の哲学的感情論をよくまとめています。哲学史を感情論でトレースしていくという2014年6月4日に発売された話題書です。
     
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     この本では「やばい」という言葉を最近の若い人が使うことについて述べています。その部分を少し読んでみますと、「「やばい」という言葉があります。「カッコいい」「ダサい」「イマイチ」という言葉も若者言葉でした。私は若者言葉としての「やばい」を使うべきでないと考えています。「やばい」を使うことで感情の質が著しく傷つけられ損なわれるように思われるからです。そして、私たちの言語使用の能力がその分だけ損なわれる」と書かれてあります。簡単に言うと「やばい」という一言でなんでもすます傾向を批判しているんですね。
     しかし私はこの文章を読んだときにまさに「やべー」と思ってしまったんですね。たしかに、清水さんの教養観である、型の習得という点からいえば、「やばい」がよくないのは明らかです。その一方で、顔文字は意外と良いものだと述べられているので、著書「これが『教養』だ」の頃のSNS批判からは一歩考えが進んでいます。でもこの本を全部読んだ後、もう一度「やばい」という言葉を捉え直してみると、私の考えでは「やばい」という言葉のニュアンスの違いを聞き取るという感情論の方が可能性があると思います。「強度」の問題ですね。教養主義の極致といえるハイモダニズムの作家サミュエル・ベケットの言葉は、彼の本を読んでみればわかるのですが、語彙がすごく貧しいことが分かります。言ってみれば「やばい」のような言葉を多用している演劇や小説なんですが、当然、物語の展開によって「やばい」といった貧困な語彙を用いた応答の意味作用・その他は、そのたびに全部変わっています。
     私は清水さんの感情論を、たとえば「やばい」という言葉に複数のニュアンスを読み取っていくという方向で、もう少し深いところまで持っていけると考えているんですね。私の古典教養論に対する立場はだいたいこういうものだと理解していただきたいと思います。
     要するに今の若者やSNSを批判している本からは、逆にSNSなどを教養であると考えていくとよいと考えています。私のノスタルジア論は大体がこの考えです。これは本書の第5回のメディア論でも挙げています。私は経過しませんでしたが、私の上下の世代で、ポケベルを高頻度で使用していた人には、数字コード表を文字に高速で変換するという「教養体験」があるわけですが、いまやこのようなものは文化としてはどうでもよい徒花になっています。でも、だからといってかつてのポケベル文化が意味のないものだったかといえば、そうではなく、私自身はポケベルの超絶コミュニケーションワールドに入ることができなかったことを少し悔いています。
     一般に、環境依存はダメで、環境に依存しないものが普遍的であるという考えがあると思います。私は超環境依存的な場からも、なにかを持ち帰ることができる、すなわち、何も持ち帰ることができない文化は存在しないのではないかと考えています。
     古いタイプの教養主義を崩していったのは文化人類学です。マシュー・アーノルドの時代の人類学は、エドワード・タイラーのように「人間活動はなんでもカルチャー」としていましたが、二十世紀になると、例えばレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ論」のように、「ありあわせの道具でなんとかやりくりする」ことが、古典的教養とは異なる意味で重視されていきました。またビートルズやパンクの時代でも、UKロックは教養だが、その他はダメという風に、どこかしらに分割線を引くという考えがあります。
     実のところ、何かが文化ではないと批判されていたなら、それは逆に文化であることの前フリであると考えてもらいたいです。これは文化の受容のすべてに言えると思っています。ネットカルチャーが生み出した定型表現に「フラグ」がありますが、「〜終わったな」という発言からそのまま「〜始まったな」が導けるようなテンプレートが生まれているわけです。これはこれで貧困化した自動反応になっているところがあるのですが、「文化ではない」から「文化である」にいたるシークエンスを読み取ると良いのではないかと考えています。
     たとえば、日本語の「やばい」に言えることは、英語の「ill」でも同じことが言えます。悪い意味合いの言葉が良い意味合いに変わっていくわけですね。「これってすごくillだよね」という表現は、そのものがすごく良いものであることを表しています。褒め言葉としての「マジヤバイ」はその典型でしょう。
     そう考えれば、「全然大丈夫」も言葉の誤用ではないと思うんですね。その表現でないと言い表せない事柄があるからです。このように、細かいニュアンスの違いを見出していうことは、まさに文化の一つであると私は考えています。このように考えると教養主義と文化の関係はだいぶ変わるのではないかと思います。
     
     
    ■『ハローキティのニーチェ』からニーチェを読む
     
     ここで取り上げてみたいのが『ハローキティのニーチェ』(朝日文庫)です。ニーチェは超訳本の多さで知られています。もちろんニーチェの超訳本は読むべきでないという考えの人が多いですね。そこで、この本に「教養の劣化」があるかどうかの問いが生まれます。この本には、かなり超訳感があります。とくに恋愛関係の項目で超訳感が顕著に表れています。
     
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     この本は、「見出し」と「キティ翻訳」と「注記」でページが成り立っています。注記はすべて、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』から引用していることに私は注目しました。奥付に「ニーチェ著、氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)から転載しました。そして、訳文にある筆者注は氷上氏によるものです」と表記されています。この結果、面白い現象が起きています。タイトルとキティ翻訳がぶっ飛んでいます。ひとつ読んでみますとタイトル「愛という大事なものを、他人任せにしていない?」キティ翻訳「「愛してほしい」そんな風に思うのは、自分以外の他人に運命を託してしまうこと、それってちょっと、不安じゃない?自分から愛そう。運命の舵は、自分で握ろう。あなたの愛と希望を投げ捨てるな!」。ニーチェは素の真理は存在せず、すべてが解釈であると言いました。この本のなにがやばいと言えば、著者名がない点にあります。
     私はサンリオをいろいろと調べていて、機会があれば「サンリオ論」に挑戦してみたいと思っています。サンリオのキャラクターを使ったアニメには、いい感じにカオス的なものが多いのですね。多摩センター駅にサンリオピューロランドという娯楽施設があります。現在の多摩センターの寂れっぷりは日本の廃墟感があって私は大好きです。また、サンリオは社長の辻信太郎がカリスマで有名です。
     私は少女漫画で育ったので、サンリオの発行している『いちご新聞』をいくつか買ったことがあります。その紙面には、いちごの王さまと称して辻社長の言葉がたくさん載っていました。1970年代は辻社長本人が変なポエムを書いていました。よって『ハローキティのニーチェ』と現在発売されているサンリオのポエム本と比較すると面白いと思うんですね。
     このようにキティの超訳感というものは、もともと存在していたことになります。サンリオのカルチャー、ハローキティというキャラクターの仕事の選ばなさをみれば、なんら不思議なことではないと思います。
     
     ここで考えてみたいのは、『ハローキティのニーチェ』から2ストロークで超訳ではなくガチのニーチェ解釈に到達できるということです。
     まずは『ツァラトゥストラはこう言った』です。この本は名著ですが、中2病になった人のだいたいが読む本でもあります。私は高校生時代に読破しました。読んでいるとよくわからない点が多々あります。ツァラトゥストラが「蛇」や「ロバ」のような動物を伴って山から下りてくるのですが、なんとなく「超人」のテーマだったり、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』や『幕張』の読者ならば「ノミの勇気」のエピソードを思い出すかもしれません。このようにぼんやりとしたイメージで終わりがちです。

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     次に村井則夫さんの『ニーチェ - ツァラトゥストラの謎』(中公新書)です。この本は良著です。なにがいいかといえば、私の大好きな「蛇」や「ロバ」などの動物をスルーしていないところが素晴らしいです。キャラクター紹介や構造分析をきちんとしています。わかりやすいように表にしてあります。哲学書というよりは、漫画、アニメ、映画、ダンス、演劇のようなものと一緒であると考えたほうが面白いです。巷のニーチェ論は哲学的なテーゼを解説しがちなんですが、この新書では、『ツァラトストラはこう言った』を本全体の構成から紹介しているんですね。
     
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     この2冊を読めば、きちんとしたニーチェの教養へと到達します。マルティン・ハイデッガーやジル・ドゥルーズ、ピエール・クロソウスキーのような現代式ニーチェ解釈の古典にいって、今のニーチェとはどうだろうかと考えるのも手です。しかし、もちろんこの2冊を読むのはハードルが高い行為であることを念頭においてください。
     村井則夫さんはドイツ哲学研究者なんですが、クロソウスキー、ドゥルーズのフランス派の解釈について、ドイツ語がベースの人は、どうしても「ポストモダン」として揶揄したり批判的な人が多いのにもかかわらず、ニーチェ関係の解釈本はすべて読むのがよいのではないかという姿勢をとっています。2014年に発売された村井さんの著書『ニーチェ 仮象の文献学』もオススメします。
     『ハローキティのニーチェ』のような超訳本は、本の構成がいったん気になり始めれば、そこから解釈の仕事を全面的に作動させる、そんなマシーンであるように思います。そういうわけでニーチェ好き、ハローキティ好きの両者にオススメの本であるのは間違いないです。
     
     どうしてニーチェの話をしたかといえば、教養-文化問題のひとつの難点として、文化をレギュレーションで語るが、語っている本人の文化はどのようなものであるのかという問いがあるからです。要するに教養主義というものは常にある種の「啓蒙主義」としてあらわれてきます。例えば『視覚文化「超」講義』をブログで「先生」の本として書評で取り上げられて、私としても評価されたことは嬉しいのですが、ただ「先生」というものは自動的に「人格の陶冶」や「説教臭」が漂うものになります。講義という形式も、自動的に上から目線になりがちという構造的な問題があります。「教える」「教えられる」の非対称性です。ジョン・バージャー『イメージ』の問題でいうならば、見ることの持つ非対称性です。講義においては私がしゃべる側であるがゆえに必然的に生じてしまう「説教臭」問題です。筆者である私が権威主義はダメだと言っているが、それ自体にもう一段教養主義が入っていないかという問いです。この点について考えてみたいと思います。
     
     この点に関して私は一つの回答を出しています。それは國分功一郎さんとの対談で挙げている問いなんですが、「ギアチェンジ」の話についてです。ギアチェンジの話をどうして出したのかというと、現代「人文」によくある「減速モデル」との対比からです。
     

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