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山田玲司のヤングサンデー 第156号 2017/10/9

「ネアンデルタール人」になりそうな人のために

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ヤンサン3周年祭りのイベント放送は終わりに近づいていた。


僕はこのイベントのまとめに「ネアンデルタール人が滅んだ話」を用意していた。


要約すると、約20種類も現れた人類の祖先の中で最後に残ったのは「言葉が使えたホモ・サピエンスだけだった」という話だ。


当時栄えていた「もう1種の旧人類」ネアンデルタール人は、身体も大きく寒さにも強かったのに、たまたま「声帯の位置が高かった」ために「言葉」が使えず、仲間と情報交換できなかったために滅んでしまったという。


つまり「自分の体験」や「考え」を人と共有する事で、我々の祖先は生き残ったわけだ。


「言葉」は過去の人たちの経験を伝え「文化」を豊かにしていく。



ヤンサンで何時間も話し続けるという行為も、この延長にあるわけで、なんだかんだ「お話」していればそれだけでも「生き延びる可能性」は上がるわけだ。


本当に「話し会う」ってのは最高なのだ。




でもね。


「そんなに簡単に人と話すことはできませんよ」って人もいるわけです。


僕自身も「今は誰とも話せない」なんていう時期があったし、今も時々そうなる。


周りの誰かに「あなたはどう思う?」と聞ければいいだけなんだけど、それすら難しい時だってあるのだ。


実際そんな風に聞いてみると、ほとんどの人が「待ってました」とばかりに「持論」を展開してくる。

自説を振りかざして誰かを批判したり、社会を憂いたりして、最後には「お前はこういう所がダメなんだよ」なんて説教してくる人までいたりする。


せっかく勇気を出して人の話を聞いたのに、望んでいた「元気になる言葉」も「壁を突破できるかもしれないヒント」も聞けない上に、自分の批判までされたらそりゃあもう「誰とも話したくない」となるのは当然だと思う。


実は今回ステージ上にいた「語るロックスター」や「おどける演出家」や「熱い旅人」や「朗らかな美容師」のみんなも「誰とも話せない」時間を通ってきた人達だ。


おっくんが和歌山を出た時期に1人も話し相手がいなかった、という話や、中学時代に1人も友人がいなかった柿内君の話なんかもその1例だ。


つまりネアンデルタール人になりたくなくても、「ネアンデルタール人になってしまう時期」ってのが人生にはあるのだ。



感受性が強すぎて「他者の抱えるノイズ」をスルーできる余裕がない時期ほど、人は「ネアンデルタール人」になってしまう。



僕にも「他人は無理」となっていた時期は何度かある。