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山田玲司のヤングサンデー 第203号 2018/9/10

「あのカフェ」を取り戻せ

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「輪るピングドラム」があれほどまでに若い人達に支持されているのはなぜか?

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僕が思う最大の要因は、このアニメが「いないことにされている人達」の存在に向き合ったからだと思う。


最後の方で、子供の頃のひまりが、潮干狩りで迷子になってしまう回想が入る。


ひまりを必死で探し出した2人の兄に彼女は言う「やっと見つけてもらえる子供になれたんだ」

と、彼女は大号泣する。



「私はここにいる」という叫びが届かない時代になって久しい。


いつの時代もクラスにいるのに「いない存在」にされている人が必ずいる。

ここ30年間の間にそれは特にひどくなった気がする。

取材先や人生相談で、僕は何度も「学校では誰ともしゃべらなかった」という言葉を聞いた。


90年代の受刑者が告発した「自分は透明な存在」という言葉が表す絶望。

「何者」にもなれず孤立していく不安。


そんな気持ちに向き合ってくれたのが「輪るピングドラム」だったのだ。


これは同じ年に放送された「まどか☆マギカ」も同じだった。

「ほむら」が自分を犠牲にして何度もまどかを救いに行くのは、ほむらが「透明な存在」になりそうな転校初日にまどかに「見つけてもらった」からというのが最大の理由なのだ。


この話は「クラスの問題」では終わらない。

多くのテロは「見つけてもらえなかった人達」「存在を無視された人達」の気持ちが発端になっているからだ。


もちろん社会構造は多分に複雑で、利害関係で起こるテロも当然あるけど、ここで言っているのは


「あいつら俺たちを無視しやがって・・全員ぶっ殺してやる」


という「気分」が生むテロ(暴力)の話だ。


そしてそれはしばしば「革命」という名で呼ばれる。




まあそれにしても、この「ピングドラム」


あまりに冠葉と晶馬が報われないのも事実。


「銀河鉄道の夜」のカンパネラ(冠葉)はザネリ(ひまり)を助けて死んでしまうので、ひまりを助けて死んでしまう冠葉はそれをなぞっているのだけれど、銀河鉄道では助かる「ジョバンニ」と思われた晶馬もまた犠牲になって死んでしまうのだ。


親の世代の罪を「原罪」とするなら、彼ら兄弟は実にキリスト的な自己犠牲で「迷える子羊」を救ったと言えるだろう。



ここまで主人公たちの幸せを願って観ていた視聴者の1部が「そんなのあんまりだ」と怒ったのもわかるし、自分自身が「見つけてもらえなかった」子供だった人達の中には「これしかないんだよな」と共感したのもわかる。



自己犠牲の押し付けは勘弁して欲しいけど、重要なのはピングドラムには「見つけてもらえなかった子どもたち」に、行動する「選択肢」が用意されていたことだ。


ほとんどの子供には、その「選択肢」すら与えられない。

学校で無視されたり、親に虐待されたりした時に「ひたすら耐える」しかなかった人達は沢山いるだろう。


ピングドラムという作品は、冠葉と晶馬が「自分の意思」で行動する。

自分たちで呪われた運命と戦い「大事な人」を救うという物語なのだ。


選択肢のないまま「いないこと」にされていく気持ちだった人には、それがどんな結末であっても「救い」だったと思う。


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ところで。


放送後におっくんが面白いツイートをしていた。