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山田玲司のヤングサンデー 第209号 2018/10/22

「本を読め」は正しいのか?

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「本を読め」というアドバイスはやたらと聞く。


特に年長の世代からは「これ以上ない真実である」みたいに、これを聞かされる。

かく言う僕の父親も常にこれを言ってた。


現代美術アーティストの李 禹煥先生は、若い頃「本屋にある本は全部読んだ」と、恐ろしい事を普通に言っていた。



スチャダラパーの初期の名曲「サマージャム'95」の歌詞にはこんなのもある。


夏が来て暑くなって、負けるかって気になって、意味なく外に出て。

海行く?山行く?

いや、まず本屋だ。


みたいな事をライムしているのだ。


夏に本屋。実にスチャダラパーらしい。



そうまでしてなぜ「本」を読むのか?

昔「非属の才能」でも書いたけど、「本」は「人」だのだ。


あらゆる時代の人の言葉が時空を超えて封印されているのが「本」なのだ。

だから僕らは「あの時代の三島由紀夫さん」が言いたかったことに触れる事ができる。

小説や、エッセイ、漫画などのスタイルの違いは、その人の「言い方」「伝えやすいスタイル」の違いだ。

物語は相反する問題を語って、読み手が考えるのに向いている「手法」だし、エッセイは気楽におしゃべりしている中で何かを伝える感じの「手法」だ。

漫画はその中に「映像」を導入して、別の豊かさを生んでいる。


なので、その時の自分の気分で、作者の選んだ「スタイル」を選択すればいいわけです。



そして、「いい本」に出会うことは「いい人」に出会う事でもある。


しかも、その人(作者)は読み手を拒まないので、その気になれば誰でもその人に会える、というのもいい。


どうあがいても、今の僕らには手塚治虫や三島由紀夫に会って話を聞くことはできない。

存命中だからと言って、気楽に北野武に会う事もできない。


そんなこんなで100冊の本を読んだら100人の人に会ったのと同じ、みたいにも思える。


なので、学校や、社会そのものが厭になって、誰とも話したくない時期が来たら「本」を読んだらいい。


というわけで。

そんな事を「非属の才能」に書いたのがもう11年前の話。



基本的にその考えは変わってないのだけれど、どうもこの所「本屋」に厭な感じの本が増えた。

「売れれば勝ち」「売れるだけでいい」というタームに入った世の中は、「本」には必須だった「精神的な豊かさ」みたいなものが消えてしまい「ニセモノの高貴さ」みたいなのが怪しい匂いを撒き散らしている。


テレビも同様なのだけど、どうにもこうにも「いい人」に会える場所ではなくなってる。


と、僕は感じる。


もちろん1部の「まともな本屋さん」は、この状況と格闘しているけど、残念な事にそれも少数。


本屋を愛する僕だけど、ここは冷静になって「まともな本屋」に行くか、図書館に行って昔の本を読んだ方がいいと思う。




どうもこの話、やっぱり「人に会う」事に似ている。


「病んだ人」が求める「病んだ意見」が並ぶ本屋は避けて、「健康な人」や「本物」がいる図書館に行く。

そこには「死んだ人」も含めて「いろんな人」「いろんな意見」がある。



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ところで。

僕が昔、対談漫画「絶望に効くクスリ」を描いていた時の事です。