未来へ帰る
【ゼメキスの絶望】
今週のヤンサンは「バック・トゥ・ザ・フューチャー(以下BTTF)」の解説だった。
個人的な思い出も多い上に、歴史的傑作かつ時代を代表する大ヒット作。
改めて観て見ると、その世界はまるでユートピアみたいだった。
放送で指摘した通り、この作品は、暗く救いのない「ニューシネマ」という社会派映画のムーブメントに『終わり』を告げた作品の一つなのだ。
そしてその明るさは意図的に「明るく」されていたのだと、今はよくわかる。
あの映画で出てくる「50年代」という時代は比較的に明るいイメージだけど、黒人差別は酷かったし、米ソは軍拡を続け核実験もエスカレートしていた。
映画に出てくる1955年の前年には水爆実験が行われていて、翌年ソビエトも水爆実験を行なっている。差別と恐怖の時代でもあるのだ。
タイムスリップで飛ばされ描かれることのない「60年代から70年代」は冷戦、公民権運動、ベトナム戦争、学生運動と、嵐の様な時代だった。
若者たちは「嘘つきな大人」にうんざりしていた。
BTTFのゼメキス監督はそんな時代に育っている。
ゼメキス世代の先輩は「そんな大人達」に反抗して闘っていた世代の人達だ。
そしてそんな先輩達は多くの問題を解決できないまま「大人達」の仲間になっていった。(これは日本も同じ)
ゼメキスの世代は、沢山の事に「絶望」していたのだと思う。
そんな「何もかもにうんざりしていた気分」が裏返って、あの「圧倒的な明るさ」の時代が始まる。
BTTFの主題歌のヒューイ・ルイスもマイケル・J・フォックスの軽くて大げさなコメディ演技も、楽天的な世界観もすべて、あの「絶望の時代」のカウンターなのだ。
【ニューシネマとは?】
それでもニューシネマは偉大だったと僕は思う。
「娯楽」の世界に閉じこもろうとしていた映画産業に「現実」を突きつけたのだ。
ニューシネマの多くが観客にこんな事を言ってくる。
「自由のために戦ったやつは、みんな騙されて死んでいった」
「君はこの現実をどう思う?」
みたいな事をニューシネマの作品は突きつけてくる。
「ジョーカー」の元ネタになった「タクシードライバー」や「イージーライダー」「俺達に明日はない」「いちご白書」「狼たちの午後」
どの作品も「嘘を許さない純粋な若者」が残酷な現実に散って行く。
こういった生々しい「若者の告発」と「綺麗事に対する批判」は当時の観客(若者)に「消えない炎」を灯したのだと思う。
松竹ヌーヴェルヴァーグや、多くの「ATG映画」漫画雑誌「ガロ」ドラマ「太陽にほえろ」
アニメ作品にも本当に多くの影響を残している。
その1つが富野由悠季監督の「Zガンダム」だし、大友克洋や前回解説した「セーラームーン」アニメ(無印)でのラストなどもその影響下にある。
ニューシネマは「青く」て「暗く」て「純粋」で「熱い」
現実から目を背けない。
娯楽性に富んだ演出にこだわるスピルバーグ作品も「その魂」を抱えている。
しかし・・・
しかしだ!!!!
BTTFの我らがロバート・ゼメキス監督には「その要素」がない。
黒人差別の現実など始めからなかったかのように世界を描くのだ。
【フォレスト・ガンプ】
本作では完全にスルーされた60、70年代ではあるけれど、ゼメキス監督はこの時代を「フォレスト・ガンプ」という作品でガッツリ描いている。
この映画は(原作は小説)激動のアメリカを生きた「フォレスト・ガンプ」という男の半生の物語だ。
映画では現実に起きた事件を背景にしている。
ケネディは出てくるし、ガンプはベトナム戦争にも参加する。
ヒッピーも出てくるし、過激な政治運動を行っていた「ブラックパンサー」も出てくる。
ところがこの映画でも黒人の「公民権運動」の現実や「キング牧師暗殺」などもほとんど出てこない。
聞いた話だと、フォレストという名は「白人至上主義者」の団体「KKK」の創始者の名前で、「ガンプ」は「間抜け」という意味らしい。
その目線でこの映画を観ると、別の意味が込められている感じがしてくる。
批評家の人の中には、この映画の欺瞞に批判的な人達もいると思う。
でも「BTTF」を観た後に「フォレスト・ガンプ」を観ると、これが「ゼメキス」の戦い方なのだと、僕は感じるのです。
【ゼメキスの戦い方】