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山田玲司のヤングサンデー 第31号 2015/5/4

放送事故が発生しました

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観覧の方をお招きしての初めてのニコ生が終わりました。
僕の漫画『アリエネ』の特集の回で、思わぬ伏兵“黒羽くん”の援護射撃もハマって、なかなか熱い放送になった感じでした。

ところが、実は今回、僕はおもいっきり「ミス」をしてまして、それに気が付いてから僕はちょっとしたパニックになっていたのです。

自分的には放送事故のレベルでした。


何が起きたかと言うと、序盤に挙げたテーマ「愛されて育つと大変だ」という話をした時のことです。
このテーマは僕自身が「子供の頃、周囲の大人に愛されすぎて育ったために、根拠もなく自分を天才だと勘違いして大変な目に合った」という話です。
自分の体験をもとに描いた漫画『アリエネ』の話をするためには、外せないテーマだったのです。

そんな自分の育ちをやや自虐的に「愛を知っている者は絵が下手」「絵の上手さなんかどうでもいい」などという言い方で語ろうとしていたわけです。
絵は下手でも、“自分の絵”を持っている(自分を持っている)ので、その1点で進んでいけるからです。

同時に「愛されていないで育った人は絵が上手くなる」という、体験を元にした仮説を展開して、「そういう人たちが競争相手になると、受験では勝てない」という話に繋げるつもりでした。

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アリエネでは、この仮説から2人の人間の物語を描いています。

「子供時代に無条件に愛される」ということは「自分はそのままでも価値があるんだ!」という絶対的な強さを得るのに対して、条件付き(合格したら、など)でしか親にみとめられなかった子供は、自分はこのままで生きていていいのかどうかわからず、ついつい不安になって苦しんでしまいます。
なので、周囲が認める「上手い絵」を描いて「僕ってすごいでしょ?」と承認してほしくなるのです。受験のようなものには強いわけです。

ところが「自分以外の人間の評価」だけが価値の基準になると、せっかく合格して認められても、今度は自分が何をしたいのかがわからなくなります。

これがアリエネに出てくる「光河」や「弥生」で描いた物語です。



・パニックになった序盤30分

僕は放送の序盤で、「僕みたいな“自称:天才画家”は、予備校では負けっぱなしだった」と伝えるつもりでした。
ライバルはみんな圧倒的な技術の持ち主です。

僕は「絵の上手い下手」で評価してくる人達に延々を否定されてきた人間です。
「絵の良し悪し」は技術だけの問題ではないと思っているので、本当にこの件では嫌な思いをしてきました。

そのうち、「絵の上手い下手」を語る人に「ある共通点」がある事に気がつきました。
そういう人の多くが、親に認めてもらえなかった「愛されなかった子供」だったこと気が付いたのです。

もちろんこれは、僕個人が出会ってきた人の中で感じた印象なので、あくまで「仮説」です。
ただ、親に認められないで苦しんできた彼らは「自分を認めて欲しい」という圧倒的なエネルギーがあるので、受験のような勝負には強いというのは本当のような気がします。

そんなわけで、この乱暴な仮説「愛されなかった人ほど絵は上手い」と言ってしまったのです。


ところが、放送が始まってすぐに「やばい!これは誤解されるかも!」と気がつきました。

「絵なんか下手でいい」という僕の意見が、更に「絵の上手さ」で、他者の愛を求めてきた人の人生(あがき)を否定してしまう可能性があるからです。

だからと言って、その件を説明するとアリエネの解説が「別の話」になってしまうし、せっかくの観覧回が重い雰囲気になってしまう。
この時点で僕はコントロールを失いかけていました。



・愛されなかった人間は救われないのか?

はっきり言います。そんなことは絶対にありません。
僕はそういう「親に愛されないことで苦しんできた」多くの人を知っています。
その多くが僕のかなり親しい人たちです。

アリエネの光河のように、親の問題を試行錯誤の上に克服した人は強いのです。



・どっちが優れた人生になるか?

多くの人の人生を見てきた中で思うのは、「親に愛されなかった問題」と格闘し、孤独の闇を抜け出した人は、自分が必要とされていない苦しみを体で知っているので、人の苦しみもわかってあげられるようになります。
そして、「認めて欲しくてあがいてきた日々」が「自分の武器」となるのです。

「感性優先の人間」が技術を身につけると、更に「伝わるもの」が作れるし、「技術優先の人間」が感性を取り戻すと、「本物の表現」に近づけるのです。

なので、この話は、どっちがいいという話ではなくて、「どっちでも大丈夫」という話なのです。

もちろん最後まで変わらない人もいるのですが、それは「愛されて育ったのに、現実の苦しみに向き合わないで、ズルズルとダメになっていく人」もいるので、どっちがどうともいえません。

僕は後者のタイプになりかけて、現実(受験)と格闘した時期があったので、そっちを主人公にして描いただけなのです。