映画『セッション』菊池VS町山論争と「愛」の問題
僕はあまのじゃくな所があるので、みんなが絶賛している映画と聞くと、ついつい「見たくない!」と思うタイプの人間です。
(それでも監督の過去作やテーマが好みなら、どんな大ヒット作も見ますけどね)
まあそんな感じで、観逃していたかなり前の話題作『第9地区』や『ドラゴンタトゥーの女』をいまさら観て色々と考え直したり、最新のハリウッド版『ゴジラ』も観てしまったりしました。
前者2作はそれなりの傑作だと思ったのですが、『ゴジラ』はいただけませんでした。
映画は膨大な数の人間の努力から出来ているので、安易に否定するのは避けたいのですが、「この映画はあまりにも“ビジネス”として作られ過ぎている映画だ」という印象でした。
利益目的の娯楽産業の宿命とはいえ“映画の神様の存在”を無視して作られた作品を観ると本当にがっかりします。
「映画はビジネスであって見世物なのだ!」という人がいるのもわかるので、この件で議論する気はないのですが。
「お金のために作られた映画」と「思いを伝えるための映画」が混在していると、「心の深い所に届く傑作」を探すのは本当に大変です。
逆に「作り手の思い」がこもった作品に出会えた時、僕は最高の気分になります。
「私はこういうことが面白いと思う」「私はこういう事に価値があると思う」「私は人生ってこういうものじゃないかと思う」みたいな、“作り手の思い”が込められていなければ、どんな迫力映像も退屈に感じてしまうのです。
テレビ局主体の映画ばかりの邦画になると、いよいよ傑作を見つけるのは大変です。
いくら宣伝で煽って映画館に人を呼んでも“ガッカリ体験”を観客にさせてしまうと、映画産業全体の損失になると思うのです。
それでも「自分の担当した映画だけは商業的に外すわけにはいかない」という担当者は「映画ファンなんかガッカリさせてもいいから、この映画にだけは客を呼ぶ!」と“売り上げ”という結果を出すためだけに映画を作っているように見えてしまいます。
僕は映画の70%くらいは「観てガッカリさせられるもの」だと思っています。
それくらいの気持ちでないと“名作宝探し”は続けられないからです。
29%の映画が「まあまあ面白いと思える映画」で、そのほとんどが70点くらいの出来だと思う。
そういう映画は、観た直後は悪くない気分なんだけど、ほとんどが観たことすら忘れてしまう。
そして、おそらく1%くらいの確率で「これは僕のための映画だ!」と思える傑作に出会う。
そんな1%の最高傑作に出会ってきたからこそ、僕はあいかわらず「映画」に期待をしている。
真剣に探してしまう。
まるで「恋愛」みたいだ。
そんな折、なんだか久しぶりに「映画」をめぐって論争が起きていた。
映画評論家の町山智弘さんとジャズミュージシャンの菊池成孔さんが、映画『セッション』に関して、激しい議論をしているらしいのだ。