hiroさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
(号外 2018.3.13発行) 【目次】
1. ゴーマニズム宣言・第268回「アカデミー賞に見るアメリカの理念の復元」
2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第72回「森友文書改竄、“忖度”でなく“命令”を問え」
第268回「アカデミー賞に見るアメリカの理念の復元」 今年のアカデミー賞は、作品賞・監督賞など4部門で 『シェイプ・オブ・ウォーター』 が受賞した。
これまでアカデミー賞といえば、「なんで?」と思うような作品が受賞してポカーンとすることが多かった。
例えば昨年の『ムーンライト』にしても、映画そのものに対する評価はともかく、作品賞にしてはあまりにも小粒すぎて、黒人のゲイというマイノリティーを描いた作品だったから、ゲタを履かせて受賞させたのではないかという「偽善」を感じざるを得なかった。
だが、今年の『シェイプ・オブ・ウォーター』は全く納得のいく結果だった。
『シェイプ・オブ・ウォーター』 もマイノリティーの映画で、主人公は唖の女性清掃員だし、周りの人間たちもゲイの画家とか黒人の同僚とか、一見、善意で描かれた映画のような作りにはなっている。
しかしそれが偽善に感じないのは、作品のオリジナリティーが突出していて、ある意味、偽善を凌駕する不気味さに満ち満ちていたからだ。
マイノリティーの女性が、アマゾンの奥地から運ばれてきた半魚人を助けようとする。もちろん、半魚人もマイノリティーの極致としての存在だ。
主人公と半魚人は、言葉は通じないが、心が通い合っている。
ところが心の通わない残忍な白人が、半魚人を軍事目的のために解剖しようとする。
白人は半魚人を人間と思っていないが、唖の女性清掃員にとっては半魚人の方がよっぽど人間的で、言葉が通わないけれども、心が通い合えるのだ。
……と、こう書くとすごく陳腐な話のようになってしまうのだが、これがあのメキシコからの移民であるギレルモ・デル・トロ監督の映像のスタイルで描かれることで、怪物映画の趣も感じさせるものになっていた。
主演女優のサリー・ホーキンスも、全然美人じゃなく、本当に便所掃除のおばさんみたいなリアルな雰囲気のあるところが見事で、なんと半魚人とセックスするというのはあまりにも悪趣味で、おぞましいほどである。
一方、主演女優賞を受賞した 『スリー・ビルボード』 のフランシス・マクドーマンドが演じた主人公も、全然美人じゃない逞しい生活感のある女だった。
ところがこの女が、周囲の住民たちから嫌がらせを受けても全く意に介せずに堂々と権力と戦っていき、その姿が実に痛快なのだ。
『スリー・ビルボード』は田舎町で孤立していく女性が主人公であり、これもマイノリティーの映画だといえる。
こうして見ると、昨年はマイノリティーの映画が次々に公開され、しかもそれがおそるべき傑作ぞろいだったことに気付く。
『グレイテスト・ショーマン』 は、フリークスばかりを集めてサーカスを始める興行師の話で、これもマイノリティーの団結を描いている。
偽善になりかねないテーマを作品化して、それがしっかり独特の世界とエンターテインメントを兼ね備えつつ、非常に芸術性の高い映画に仕上がっており、すごく楽しかった。
『デトロイト』 も、白人の黒人に対する差別心と、その裏返しの恐怖心によって起こされた、警官による暴行殺人事件を描いており、まさにマイノリティーの問題を真正面から扱った映画である。
『グレイテスト・ショーマン』は挿入歌が歌曲賞にノミネートされただけで受賞を逃し、『デトロイト』に至ってはノミネートすら一切なかった。この結果、特に『グレイテスト・ショーマン』については、わしは不満である。
『ゲット・アウト』 もまた黒人に対する恐るべき白人の差別心を、恐怖映画の域まで高めてリアリティーを崩さない見事な作品だった。
この1年間、映画の醍醐味を満喫できる傑作が続出し、しかもそれがなんとマイノリティーの映画ばかりで、アカデミー作品賞に『シェイプ・オブ・ウォーター』が選ばれるという結果は、まるでドラマを見ているようで、あまりにも劇的だった。
トランプ政権を生み出したレイシズムの横行が、これらの映画が作られるきっかけとなったのだろうが、それが昨年の「#MeToo」運動の盛り上がりを経て、こういう形で結実したわけである。
アカデミー賞授賞式のスピーチでは、『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロ監督をはじめ、受賞者やプレゼンターが、女性や移民、性的マイノリティーの問題について堂々と政治的な主張を行い、それ自体がまたトランプ政権に対する批判になっていた。
ところが、授賞式の視聴率は前年比で2割も落ちたという。政治的メッセージを前面に出されると、説教されているような気がするとして敬遠する視聴者が多かったのだそうだ。
どうやらアメリカでも、政治的メッセージは大衆には嫌われる傾向にあるようだ。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
太田理財局長が不憫でなりません。
まず内容について述べます。
この質問は、
麻生大臣や安倍首相が書き換えは「辞める」という首相答弁は「影響していない」と答弁したことに対して、太田理財局長は「影響した」と答弁している、答弁が違うということはどういうことなのか、説明したまえ!というものでした。
この発言に続いて、「野田総理の秘書官だった、まさかと思うがわざと首相をおとしめるような」という発言になったわけです。
一つは
首相は「文書の存在も知らなかった」と答弁しています。
存在も知らなかった側と文書を改ざんした側の理財局長、どちらの答弁が信用できるのか。存在も知らなかったのになぜ影響がなかったと答弁したのか、和田議員が「答弁が違う、どういうことだ」と追求すべきは首相の方だったのではないでしょうか。
二つは
「首相と答弁が違う」ことについてこれだけ自民党議員から追求されました。
首相答弁と合っていないとおかしいと追求されるわけです。
つまりは官僚の答弁も首相の影響を受けるように強制させられている現状にあるので、当然文書が書き換えられたのならばそれも首相答弁の影響は否定し得ません。
逆に和田議員の質問によって、太田理財局長の「首相答弁の影響は否定し得ない」という答弁の正当性が高まったと言えます。
続いて私自身について述べさせていただきますが、
私も公務員で「権力者の意向によって行政がゆがめられている」「文書を書き換えさせられて常識が覆された」「文書が確認できない、出したら情報漏洩だ」といったことを経験し、昨年改善策を60項目以上に渡って職員提案で提出しましたが、受け付けられずに返ってきました。
言われてやっているのに、言ってきた側から規定違反だと責められる、そんな理不尽を多々経験しています。
この事件ある意味官僚の立場に立って、書き換えさせているくせにここまで責めるのか、と身につまされる思いでも見ています。
答弁している官僚の立場は少しは理解しながら、それでも公務員の矜持を持って、国民のために、ありのまま真実を述べていただきたいと思います。
アッキード事件、どのような考察と、どのようにすべきなのか、いろいろと考えますが、明日の動画、見て勉強しようと思います。
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