Dr.Uさん のコメント
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第414号 2021.10.26発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、著名なる言論人の方々が出版なさった、きちんとした書籍を読みましょう!「御意見拝聴・よいしょでいこう!」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが現代社会を鋭く分析「トンデモ見聞録」や小説「わたくしのひとたち」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…10月20日(水曜)に放送されたNHK『クローズアップ現代+』では、mRNAワクチンの接種後死亡と副反応について取り上げられた。法医学の世界では、たとえ解剖しても、死因を特定することはできても、それがワクチンによるものかどうかを調べることは難しく、世界的にもそのような検査手法は明らかになっていないという。そこで、アメリカでは、接種後に出た症状との因果関係を統計的に検証するシステム「VSD(ワクチン安全データリンク)」が運用されているという。NHKが伝えなかった米ワクチン接種後副反応報告とは?
※「ゴーマニズム宣言」… 10月26日、眞子さまはついに念願かなって小室圭氏と結婚されて、小室眞子さんとなった。わしは一貫して眞子さま・小室氏を擁護し、バッシングを批判してきた。反論権のない皇族やその婚約者に対して一方的にバッシングを行うのは「イジメ」以外の何物でもないのだ。しかし、この「ライジング」読者ですら、そんな基本的なことが理解できず「皇室にも反論権がある」と異議を唱える者がいるので、今回はそれに答えよう。
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」!衆院選の候補者でコロナ対応に関して支持出来そうな政治家はいる?コロナのワクチンとインフルのワクチン、両方接種しても問題ないの?TVの出演者がマスクをしている光景をどう思う?コロナ感染後の後遺症が全国で推計17万人いるというのは本当?眞子様と小室圭氏をバッシングする知人にどう接するべき?…等々、よしりんの回答や如何に!?
【今週の目次】
1. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第234回「NHKが伝えなかった米ワクチン接種後副反応報告」
2. ゴーマニズム宣言・第440回「皇族と反論の自由」
3. しゃべらせてクリ!・第370回「へごわ~っ! 貧ぼっちゃまと貧民連合の猛抗議ぶぁい!の巻【後編】」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 編集後記
第234回「NHKが伝えなかった米ワクチン接種後副反応報告」
10月20日(水曜)に放送されたNHK『クローズアップ現代+』では、mRNAワクチンの接種後死亡と副反応について取り上げられた。
番組では、今年5月に死亡した91歳女性「れいこさん」の甥を取材。毎週出歩くほど活発な女性だったが、自宅で心肺停止の状態で見つかったという。遺品整理のために、れいこさんの自宅を訪れた甥は、居間にあったカレンダーを見て、死亡したのはワクチン接種の翌日だったと知る。
ワクチンと関係があるのではないかと気になった甥は、自分で情報を集めるようになり、厚労省の公開資料に行きつく。だが、接種後死亡リストに掲載されていたれいこさんの欄には、たった1行 「γ(ガンマ)/情報不足で因果関係は評価できない」 としか記されていなかった。
さらに、他の死亡例についても見てみると、 1190人のうち「評価不能」とされていた人は、99.3%にのぼっていた ことに気が付いたという。
甥は疑念を語る。
「本当に調べているのか? 何を調べた結果、因果関係は評価できないと言っているのか」
「『γ(ガンマ)』という記号1つで受け入れろというのは、無理です」
自宅で亡くなった場合、事件性がないと判断されれば解剖されることはなく、れいこさんも解剖されないまま火葬されていた。
さらに法医学の世界では、たとえ解剖しても、死因を特定することはできても、それがワクチンによるものかどうかを調べることは難しく、世界的にもそのような検査手法は明らかになっていないという。
そこで、アメリカでは、 接種後に出た症状との因果関係を統計的に検証するシステム「VSD(ワクチン安全データリンク)」 が運用されているという。
「VSD」は、1990年にCDC(米疾病対策センター)が設置したもので、全米各地の9つの病院グループが参加し、およそ1200万人の医療データが日常的にほぼリアルタイムで集められているらしい。
CDCのwebサイトで「VSD」について調べてみると、拠点となっている病院が、西海岸の高所得者層の住む地域などを中心に、ごく一部でしかなかったので、思わず「これだけ?」と驚いたが、そもそも1人1人に出た症状について調べるものではなく、新型コロナ発生以前から蓄積されている医療データ全体から、ワクチンを接種した人と接種していない人とを比較して、統計的に因果関係を調べるシステムだという。
VSDに参画している全米の病院グループ(CDCサイトより)
素人ながら浮かぶ疑問は、「統計」ということは、一部少数の人に起きる死亡や、非常に重篤な副反応、不妊や流産などについては、いくら当初から疑念の声や、本人・家族の実体験から察したことが訴えられていたとしても、長い期間をかけて大勢の犠牲者を出しつつデータを集めてからでないと、 「まだ、因果関係があるとは判断できない」 としか言えないのではないかということだ。大規模統計はもちろん必要だが、やはり同時に、死者や症状が出た1人1人に対して、真剣に対応することも必要だと思う。
ただ今回の『クロ現+』は、 「VSD推し」 というテーマがあるようで、「日本版VSD」を構築しようと奮闘している日本の研究者を取り上げていた。日本では、自治体などが個人情報の提供に難色を示すケースが多いため、アメリカと同じ仕組みを作るのは難しいらしい。
番組では、「VSD」によって、心筋炎が指摘されたという点が報じられた。
ファイザーやモデルナのワクチンを、受けた人と受けていない人とを比較すると、10代や20代の若い世代では、ワクチンを受けた人のほうが発症数が高かったという。
接種後に胸の痛みを訴えたアメリカ人の若者がインタビューに応じ、「VSD」のおかげですぐに心筋炎とわかり、治療体制も整っており、無事に回復できたなどと語り、だから安心だという話になっていた。
番組全体から 「軽い心筋炎が起きる可能性はあるけど、すぐ治せる準備ができているから大丈夫!」 というムードが醸し出されていたが、私はここに逆に不信感を持った。
今年8月6日のCDCからの発表 では、ファイザーのワクチンを接種した12~17歳に発現した副反応9,246件のデータを解析したところ、 9.3%が心筋炎を含む「重篤な副反応」だった とされていたからだ。 (※詳細は、 第227回「若者、子どもにワクチンを打ってはいけない~心筋炎・心膜炎について」 を参照のこと)
「軽い心筋炎」なら、たしかに「軽い」のかもしれないが、死者もいるし、ICUに運び込まれ、一命をとりとめても、その後、重い後遺症を抱えて生涯を過ごすことになる若者もいるのだ。
また、『クロ現+』は「VSD」しか取り上げなかったが、このシステムの前提となっているのは、同じく1990年に創設され、CDC(米疾病対策センター)とFDA(米食品医薬品局)が管理している 「VAERS(ワクチン有害事象報告システム: https://vaers.hhs.gov )」 だ。
全米の医療機関や医師、または症状に見舞われた本人が、ワクチン接種後に起きた有害事象を報告するためのオンラインシステムで、報告数は、年間40,000~50,000件。比較的迅速にシグナルを検出することができ、「ごく稀」と言われる有害事象も検知することが可能で、さらに誰もがデータを閲覧することができるという仕組みになっている。
「VSD」が全体の統計なら、「VAERS」は1人1人の報告から、安全性の問題を早期発見するものと言える。
ただ、この「VAERS」単独では、 「報告者のバイアスがかかっている」「データが不完全な場合がある」「関係のない報告もすべて受理されている」「接種者・未接種者の比較ができない」「因果関係の検討ができない」 などの欠点があるため、「VSD」などが創設されて、補完しつつ運用されているわけだ。
では、「VAERS」では、アメリカのワクチン有害事象はどのように報告されているのか?
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
価値観がむき出しになって、和解できないところまで来たというのなら、いいのでしょう。
冬山に挑む。3人に1人はかえって来れないような過酷な山。ある登山家は、自らの命をかけて、家庭をなげうってでも、危険な山に挑みたいと言う。別の登山家は、命は大切だ、家族のことを考えると、山で死ぬことはできないと言う。
対話して、その結果、互いの生き方の違いだというところまで話し合えたら、それでいいのだと思います。
ただ、今はそこまで行ってない。やギさんの言い方で言えば、人文(哲学や宗教)の手前の、科学(事実の客観的認識)のところで、ごたごたが起きている。むろん、科学も光の正体を粒子をとるか波動ととるかという問題のように、ぎりぎりのところで和解が不可能なところに行きつくことはあるのですが、今は、そんな上等な話をしているのではない。
井上先生が、楊井さんとの会話の中で、「イラッ」としてましたね。井上先生の心の声が、聞こえてきました。
「学級委員長のようにいい子ぶって、何をええかっこしいなことを言っとるか! 『どちらも尊重』なんてのは、ぎりぎりのところまで研ぎ澄まされた二つの議論の間で、初めて出てくる言葉なんだぞ。お前は、そこまで行ってないだろう。単なる、勉強不足ではないか!」
まぁ、どこか憎めないところのある「くらたま」さんはおいといて、楊井さんは一通りの情報や考え方に目を通したことは確かでしょう。
それでは、なぜ楊井さんは、あの会場にいた多くの人たちほどには、井上先生や小林先生の議論に対して強い説得力を感じることがないのでしょうか。一つ考えられるのは、井上先生・小林先生と、楊井さんとでは、経験と感情が共有されていないということです。
たとえば小林先生の場合、ワクチンの危険性を語るときには、常に心の中に薬害エイズで死んで行った子供たちの顔がある。一つ一つの言葉と絵の裏側に、そうした心が締め付けられるような原体験がある。そして小林先生のもとに集まってきている人たちの大半は、仮にそういう原体験を直接に共有していないとしても、漫画を通して、そして自分の人生の中の似たような体験と照らし合わせて、そしてイマジネーションを活性化させて、小林先生の原体験を追体験してきた。最初は共鳴が弱かった人も、小林先生の漫画を読み続ける中で、少しずつ共鳴の度合いを強めていく(あるいは躓いてアンチになる)。
簡単に言うと、知識には、自分の体験と感情に深く結びついたものと、そうでないものとがある。ある人にとっは、たとえば、子供たちがマスクを1年間つけなかったら、その人格形成に恐ろしい影響が出る、とか言われても、本当のところそれがどれくらい「恐ろしい」のか、どれくらい人間にとって悲しくて痛々しいことなのかが、リアルには分からない。だから結局、マスクをつけるべきか、つけざるべきか、という判断を下さなければならないときに、自分の心の中ではこの「恐ろしい」とされる事柄が重い事実として浮上してこない。
対話している者の間に、そこで発される言葉の強さを根底で支えているはずの「体験」が、あまり共有されていないという状況。社会学者の清水幾太郎という人は、『愛国心』(1950年)という本の中で、対話において相手の体験(経験)を思いやることの重要性について、次のように述べています。
「民主主義は、各人が合理的な理解の能力を持つことを前提し,相反する思想、信仰、利害を有する人々が自由な討論を通じて次第に了解と一致とに導かれていくことを信じる。」
重要なのは、これに続く、次の一文。
「各人の経験は討論の過程において諸要素に分析され、双方の諸要素の比較と総合とを媒介として了解及び一致が獲得されると考えるのである。これは相手の合理的能力への信頼と相手の経験の深さ及び広さへの予想があって可能なことであり、翻ってまた自己の推理が人間らしい誤謬を含み得るし、また自己の経験が狭隘であるかも知れないという謙遜の態度である。」(p.82)
別のところでは、次のようにも述べています。
「対立があるところに寛容が終るのではなく、ここに初めて寛容が必要となるのである。自己の言い分を十分に表現して相手を納得させると同時に、相手の言い分を何処までも理解しようとする態度がなければならぬ。自己の経験と相手の経験との交換を通して解決に接近しようという行き方である。」(p.198)
相手の言葉の背後にある、その言葉を支えている経験を思いやること。(ただし、何にも支えられていない言葉もある。ひろゆきくんの言葉みたいな、子供がママに相手にしてもらいたい時に発する言葉。) そういう意味では、楊井さんの言葉にも、それなりの体験はあるのかもしれません。暴力的に言論を封殺された人たちが、状況が変わって追い風が吹くようになると、仕返しのように対立者の言論を封殺しようとするといった、嫌な体験を、柳井さんはたくさん目撃して来たのかもしれません。
さて、結論はどうなるのだろうか。こちらの意見がさっぱり通じない相手や「どちらも尊重しましょう派」の人たちに、いずれも共通しているのは、彼らが、こちらの言葉を根底で支えている体験・経験・感情を知らない、ということです。だから、相手の理解を得るには、自分たちの体験を伝えなければならない。共感してもらわなければならない。それこそ、文章だけでなく、顔と顔を合わせて、身振り手振りで、あるいは迫力と臨場感のある漫画や映像などのメディアを駆使して、あるいは様々な説得のための小技・大技を駆使して。
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もう一つのやり方。非民主主義的な方法。暴発すること。超法規的。相手の合意は得られなくても、結果として、世の中に正しいことが実現され、間違ったことが実現されないのなら、それでいいというやり方。毒ワクチンが若者に打たれることがない、という状況が実現されるなら、手段は問わない。今は議論する時期ではない、緊急事態である、行動するときだ。
そういうことを言う人もいる。そういう状況もあるのかもしれない。天と対話して、神と対話して、絶対的なものとの対話の中で、己の行動は正しいと信じて、行動するということも、あるのかもしれない。自らの行動は、天道・王道に外れていないかという、孤独な判断(一神教徒だけしかそういうことが出来ないというのは間違った認識だ)。
しかし、この道は、とてつもなく、危い。広く会議を興し、万機公論に決せよ、という言葉が、聞こえる。
うさぎより。
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