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【第157回 直木賞 候補作】『BUTTER』柚木麻子
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【第157回 直木賞 候補作】『BUTTER』柚木麻子

2017-07-10 11:00
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     生成り色の細長い建売住宅が、なだらかな丘に沿う形でどこまでも連なっている。
     よく整備された町並みはどこに居ても均一な印象しか受けとることが出来ず、里佳はさっきから同じ場所をずっとぐるぐる回っているような気がする。冷え切った右手の指先のささくれが、大きくめくれた。
     初めて降りる田園都市線の駅だ。子育てモデル地区に指定された郊外のこの町は、車を持つファミリー向けに作られているせいか、途方に暮れるほど道幅が広い。夕食の買い出しの主婦が行き来する駅周辺を、町田里佳はスマホに表示された地図を頼りに歩いている。あの伶子がこの町に終の住処を購入したことが、今さらながらしっくりこない。量販店にファミレス、チェーンのレンタルDVDショップ。昔からある書店や個人店の類いが見当たらず、いわば文化や歴史の香りが一切感じられないのだ。
     先週、里佳はある少年事件の被害者の評判を調べるために、九州のさる町に日帰りで出張した。初めて名前を聞く地域密着型のスーパーや塾の看板がたまに目につく他は、個人宅がひたすら続く何もない住宅地だった。東京では見たことのない独特なスカート丈の女子高生とすれ違った。この仕事をしていなければ来ることがなかった町を一人歩いていると、日常が遠ざかり、自分が人生ごと消えていくような気がした。空はのっぺりしたクリーム色だった。あの、色のない夢の続きのような手触りが蘇ってくる。
     少なくとも、この町には自分を受け入れてくれる場所があるのだから、と遠のきそうになる意識を手繰り寄せて、里佳はここで最後と決めた店に足を踏み入れる。スーパーマーケット特有の、冷えたりんごと濡れた段ボールのにおいがふわりとまとわりつく。中年女性がホットプレートで肉を焼き、小さく切り分けながら、甲高い声で試食をすすめている。パックされた豚肉の一つをなんとなく、手に取った。こんな風に生の食材を間近で見るのはいつ以来だろう。甘やかな桃色の肉と白く輝く脂身がせめぎあい、冷たく濡れていた。
     二子玉川を過ぎたあたりからLINEでやりとりしている。駅まで迎えに行く、という伶子の申し出を遠慮し、それより近所で何か買っていこうか、と提案した。今日は早朝に帰宅し、倒れるようにして昼過ぎまで寝た後、シャワーを浴びデータ原稿をまとめた。渋谷で連載中のコラムニストと打ち合わせをし、時間が来たので急いで切り上げ、電車に飛び乗った。買い物をする余裕は全くなかった。気心の知れた仲とはいえ、新婚家庭を訪れるのに手土産さえ用意していないのは後ろめたい。うさぎのスタンプとともに返事はすぐにきた。こんな茶目っ気は、昨年仕事を辞めてからようやく彼女が取り戻したものだ。
    ――じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。もし、見つけたらでいいんだけど、バターを買ってきて。この冬、バター不足でなかなか手に入らないの。でも、探して無ければ、本当にいいよ。それより早く来て欲しいな。
     乳製品売り場はのほほんとした黄色い光で満ちていた。商品棚の下段に五列ほどごっそり抜け落ちた空間があり、こんな張り紙で遮られていた。
    『現在、品薄につきバターはお一人様一個までとさせていただきます』
     スーパーを三軒回ってすべてこのパターンだ。もう仕方ない、と里佳はすぐそばにある数種類のマーガリンの中から、濃厚さを強調した比較的バターに近そうなものをつかみ取ると、足早にレジへと向かう。
     伶子の新居は駅から歩いて五分ほどの、なだらかな坂沿いにあった。周囲と見分けのつかないような、三十坪に満たない土地をめいっぱいに使った三階建てで、駐車スペースにはトヨタの車が採寸したかのようにぴったりと収まっている。門から玄関まで続く短いスロープには、ひなぎくやビオラなど多種の花をふんだんに寄せ植えたプランターが並び、ドアにはひいらぎのリースが飾られていた。伶子らしさが香るようでほっとし、インターホンを押しながら、ようやく息をつく。
    「いらっしゃい! わあ、里佳、久しぶりだね」
     玄関のドアが開くなり、エプロン姿の伶子が勢いよく飛び出し、抱きついてきた。里佳もごく自然にその薄い肩に手をまわす。身長百六十六センチで手足の長い里佳は、小柄できゃしゃな伶子をすっぽり包むことが出来る。彼女の特徴であるすみれの花のような香りが髪からふんわり立ち上った。ふと、目頭が熱くなる。こんな風な直球の愛情表現や人の身体の温かさに、自分はもしかして飢えていたのかもしれない。
     この出迎えは決しておおげさなものではない。大学時代はあれほど毎日一緒に過ごした二人なのに、もはや会うのは半年ぶりなのだ。伶子が退職した今なお、里佳の忙しさのせいで時間を合わせることは難しい。週二日、火曜日と水曜日に一応休みはもうけられているけれど、のんびり過ごす同僚など、後輩の北村くらいなものだろう。現に水曜である今日も打ち合わせを入れていたし、この後も社に戻り調べ物をする予定だ。
     新築らしい木の香りに混ざって、部屋の奥からふんわりと甘やかなだしやチーズの焦げる匂いが漂ってくる。伶子にすすめられた温かい素材のスリッパに履き替え、トレンチコートを預けると、つるつるとした傷一つないフローリングの廊下を通って、オレンジがかった光に満ちた室内へと向かう。ダイニングキッチンから続く十畳ほどのリビングはごくごく平均的なものだが、カーテンとソファのリバティ柄、アンティークらしいよく使い込まれた焦げ茶色の食器棚と本棚、壁にかけられた無名の作家のコラージュのおかげで、かつて伶子が一人暮らししていた尾山台のマンションによく似た、こぢんまりと屋根裏部屋めいた雰囲気が引き継がれている。
     すみれの香りがいっそう強くなった。くつろいだ印象なのに、結婚式や新婚旅行の写真は一切ないのが彼女らしい。そういえば、昔から彼女は写真が苦手だった。洗面所でうがいと手洗いをし、ホテルのパウダールームのように籠に何枚も放り込んであるふかふかのミニタオルで水滴を拭う。柔軟剤の香りが優しく立ち上り、普段はそんなことを気にしないのに、どこの銘柄かきいてみたくなった。
    「ごめんね。遅刻した上に、こんな適当なやつしか見つけられなかったよ」
    「バター50%配合濃厚マーガリン」なるしろものをレジ袋からとほほ、と取り出して見せると、伶子はうわあ、助かる、ありがとう、と笑って冷蔵庫に仕舞いに行った。バターとマーガリンの味の違いなど、里佳には本当のところ、よくわからないのだけれど。
    「この辺のスーパー、ぐるぐる回ったんだけど、結局マーガリンしか……」
    「わ、ごめん! でも、ぐるぐる回って、バタか。まるで『ちびくろ・さんぼ』だね」
     伶子がくすくすと笑いながら、こちらまで踊るように戻ってきて、本棚から真っ赤な表紙の本をひょいと抜き取って差し出した。その「ちびくろ・さんぼ」と題された絵本なら確か、幼稚園の頃に読んだ気がする。内容はおぼろげにしか思い出せない。ビビッドな色使いや迷いのない線に見覚えはあるが。
    「生まれてくる子供のために、いいなって思った絵本があったら、買っておくようにしているの。最近はすぐに絶版になるから。『ちびくろ・さんぼ』も黒人表現のせいで、今じゃほとんど流通していないんだ。でも、少しも差別的な内容には思えないんだけどね」
     その口ぶりのせいで、伶子の子供はもう世界に存在している気分になる。この部屋に姿を現すのを、ただ皆で待っているだけなのかもしれない。結婚して二年、妊娠しないのは、あまりにも多忙な労働環境からくるストレスが原因と産婦人科医に宣告され、通院の時間もままならない職場に、伶子があっさりと見切りをつけたのは去年の夏のことだ。
     楽しそうに絵本をめくる親友を盗み見る。
     現在も妊娠の兆候はないらしいけれど、伶子はすでに母親らしい落ち着きを得ていた。働いていた頃に比べ、化粧気のない肌や髪の艶がいいのはもちろん、茶色の瞳はうるみ、唇は花弁のようにふくらんで、ゆったりとした空気を漂わせている。小花柄のスカートから伸びるほっそりした脚に紺のレギンスを穿き、身体を冷やさないためなのだろう、毛糸のレッグウォーマーを重ねていた。常に隙のない出で立ちだった大手映画会社の広報時代とはくらべものにならないカジュアルさだが、愛らしくどこかパリの香りがする。同じ三十三歳とは思えないくらい、少女然とした佇まいだ。優秀な彼女が仕事を手放す決意をした時はまずもったいないと思ったし、自分一人が砂漠に取り残されたような悔しさと寂しさを感じて、よく眠れなかった。実際、電話口で何度か口論にもなった。
     伶子の薄い肩ごしに絵本を目で追っていると、大学時代、階段教室でノートや教科書を見せ合った時間が蘇るようだ。「ちびくろ・さんぼ」なる黒人の少年がジャングルで虎たちと出会い、衣服や持ち物を奪われる。しかし、虎たちは自分が一番だ、と張り合ううちに、互いの尻尾に食らいついて、ぐるぐると木の周囲を回転し、いつしか液体化して黄色いバターになってしまう。さんぼの父が偶然それを見つけて持ち帰り、虎はホットケーキになってさんぼ一家の胃におさまるという、あっけらかんとしつつもちょっぴり残酷な物語だ。
    「さんぼの家族がしたたかなのかな? 虎、なんかちょっと可哀想な気がする」
    「何言ってんの。悪いのは虎でしょ。先にさんぼを食べようとしたのは虎じゃん? 虚栄心にかられて競争に夢中になって、勝手に自滅した方がいけないと思うべきじゃない」
     二人でやりあっていると、ドアが開く音がした。
    「あ、里佳さん、もう来てたんですね。久しぶり~」
     中堅の菓子メーカーの営業部に勤める亮介さんの帰宅時間は、里佳の生活からは考えられないほど早かった。学生時代アメリカンフットボール部のクオーターバックだったという彼は、見上げるほど体格が良い。いかにも屈託がなさそうな常に笑っている細い目と、子供のようにてらてらした赤い頬が特徴で、一見伶子とは話も合わなさそうだし、接点もないように見える。
     さる映画のプロモーションを通じて、二人は知り合った。ヒロインをイメージしたタルトを劇場限定で販売することになり、何度も打ち合わせを重ねたという。好意を持ったのは伶子の方からだ。彼しかいない、と一目でピンときたのだそうだ。高嶺の花ともいえる伶子の猛アタックに初めは戸惑っていた亮介さんも、彼女の内向的でピュアな面に触れるうちに、心を開いていったらしい。埼玉で酒屋を経営する仲の良い両親のもと、三人の兄弟とにぎやかに育った亮介さんは、身にまとったおおらかな空気だけで十分に伶子を惹き付けたのだ。里佳がかつて彼に抱いていたざらつきや嫉妬心も、今はすっかり凪いでいる。花嫁姿の彼女を見た時自分の一部を奪われたような気がしたのは、本当だけれど。
     伶子がデザインも違えば焼き方も違う様々な大皿を次々に並べ、夕食が始まった。
     こくのあるアンチョビソースとたっぷりの蒸した冬野菜のバーニャカウダ、塩漬けした豚をゆでて薄く切ったもの、長ネギの豆乳グラタン、土鍋で炊いた牡蠣の炊き込みご飯にお味噌汁。いずれも旬の食材の持つ力に溢れ、味付けはあっさりとしているが奥行きある滋味があった。牡蠣は妊娠しやすくなるんだっけ、と海の香りと醤油味が香ばしいご飯を口に運びながら、ちらりと伶子を盗み見る。いつになく里佳の食欲が旺盛になったのは、味はもちろんのこと、亮介さんの食べっぷりがほれぼれするようだったせいもある。
    「おかわりいい? この豚肉、とっても、やわらかいなあ。お店出せるんじゃないの?」
     と目を糸のようにして感嘆しながら、空になった皿を差し出す。伶子はいかにも誇らしそうに料理を取り分けている。何故、彼女が彼を選んだか、改めて理解できる気がした。
     文化の香りがしない町だなんて勝手に決めつけたことを、里佳は恥ずかしく思う。夫婦で相談し、亮介さんの年収からよくよく人生設計し、安全と住みやすさを最優先して、この地を選んだのだろう。伶子は実家とはほとんど連絡をとっていないらしい。経済的援助を受けるつもりは毛頭ないようだ。
    「月並みな表現だけど、奥さん欲しいって思っちゃう。亮介さんは幸せだね」
     お世辞ではなく目の前でのんきな笑みを浮かべる亮介さんがつくづく羨ましかった。彼が肌艶良く、すっきりとした風情で余裕を漂わせているわけが、わかる気がした。
     職場でも、一回り上の世代の既婚の男達はどことなく伸びやかでリラックスしている。多忙な彼らの妻の多くは専業主婦らしい。そうした生き方は考えたこともないけれど、彼女達が家族に与える力の大きさはよくわかる。毎日少しずつ溜まるパートナーの澱を夜ごとにリセットしてくれるのだ。澱は放っておくといつしか身体を蝕む。先月、自宅で急死した先輩の男性社員は一人暮らしで独身だった。彼のそれとそう違わないであろう、ずっと掃除をしていない冷たい自分の部屋を思い浮かべた。それは離婚した父が一人で住んでいたマンションによく似ている。
    「ねえ、今度は彼氏も連れてきてよ。まだ誠さんに一度も会ったことないんだもん」
     ああ、そういえば、私は恋人がいたんだっけ――。里佳は思わず笑いそうになる。同期入社で文芸出版部に配属されている藤村誠とは、友達からスタートした関係なだけに、どうしても甘い空気からは程遠い。平日は社内ですれ違う程度、月に一度どちらかの家で朝まで過ごせればいい方だ。でも、苦労を分かち合える貴重な相手で、この程よい距離感は有り難くもあった。
    「里佳、何食べてるの。ちゃんと暮らしてる? また痩せたみたい。この間、何かで読んだんだけど、日本女性のエネルギー摂取量、終戦後すぐのデータよりも低いんだって」
    「わかるな。私も自炊する時間や余裕もない。炊飯器さえ持ってないの。使わないんだもの。大抵の夜は官僚の接待や取材相手との食事で埋まっているし」
    「官僚の接待なんて、僕たちが思いもつかないような美味しいもの食べているんだろうな」
     ホステスのように扱われた、銀座の料亭での数時間が思い出された。官僚の多くは時にあきれるほど都合の良い勘違いをする。もしかすると女の記者はネタが欲しくて近付いているのではなく、自分を異性として慕っているのではないか、と。グラタンのとろけるようなネギが途端に苦く感じられ、話を変えた。
    「味なんてよくわからないよー。私、子供みたいな舌だし。コンビニ弁当やファミレスのカレーで十分満足しちゃう」
     食やお洒落、女が好むものに里佳は昔から無頓着だ。ただ、長身ゆえ嵩高く見られがちなので、体重は決して五十キロを超えないように気をつけている。美意識が高い母親の影響もあるのかもしれない。夜間は極力食べないようにしている。接待でごちそうが出ても野菜と汁物から手をつけることは忘れない。日に二度は通う会社前のコンビニではヨーグルトやサラダ、はるさめヌードルなど、ヘルシーなものを選ぶように心がけている。ジムに通う時間がないぶん、なるべく徒歩を選ぶ。すらりとした体型のおかげで特に美形ということはなくても褒められるし、無造作に選んだファストファッションでもそれなりに着こなせる。ある程度の外見さえ維持していれば得をすることの多い業界だ。切れ長の目と細面の男顔も手伝って、女子校時代はよく後輩から手紙をもらっていた。
    「里佳は舌のセンス悪くないと思うけどなー。美咲さんは料理に時間をかけられなかったっていつも言うけれど、限られた中で一番のものを娘に与えてたんだよ。女手ひとつで娘を育てて、うちの親なんかよりずっとずっと立派だよ」
     里佳の母のことを、伶子は親しみを込めて美咲さんと呼ぶ。
     中高一貫の女子中学に入学した直後に、両親は離婚した。母はそれを機に、友人の開いたセレクトショップに共同経営者として勤め始めた。慰謝料はなく、父からの生活費も期待できない状態だったので、母は休みもなく夢中で働いていた。料理はそう上手ではなかったものの、父と暮らしていた頃はそれなりに彩り豊かな食卓を心がけていた母だったが、「ごめんね、これからは里佳ちゃんがママを助けてくれる?」と頼まれ、里佳はむしろ張り切って協力したのだった。母が帰るまでに掃除と洗濯を簡単に済ませ、ご飯を炊き、汁物を作る。八時過ぎに帰宅した母が成城石井やピーコックで買ってくる総菜がメインとなって、遅い夕食がはじまる。手のこんだ家庭料理もない代わりに、父が居た時のようなぴりぴりした空気もない。ファミレスで落ち合って食べる夜も多かった。合宿めいた日々は、遊びの延長のようで楽しく、頼られているという自信にも繋がった。
     その暮らしのリズムは、二十二歳で里佳が家を出るまで続いた。母の店が軌道に乗るにつれて、買い付けで海外に行くことも増え、奥沢に住む祖父母と過ごす時間の方が長い月もあったが、それでも母娘仲は今も良好だ。反抗期もなく、進学も就職もすべて一人で決めて乗り切った。働き者の母は還暦を迎えた今も、二号店となる自由が丘の店に立っている。はっきりと口にはしないが、恋人も居るらしい。
     大学時代、母と暮らす旗の台のマンションに伶子はよく食材や調理器具を手に遊びにきた。彼女の料理の腕前に母娘は驚かされ、感嘆したものだ。お茶漬けやパスタといったシンプルな料理にさえ、柚子の皮や塩レモンをひそませるなど、センスと工夫が行きとどき、ゆっくり時間をかけて食べ続けたいような味わいだった。金沢にある老舗ホテルのオーナーの一人娘として生まれた伶子は、その可憐な容姿からは想像もつかないほど、確固とした美意識と反骨精神を持っている。幼い頃から両親は家庭内別居状態にあり、お互い公認の愛人がいたらしく、ほとんど娘を構わなかったらしい。料理自慢のお手伝いさんと過ごす時間が多かった彼女にとって、家庭の味とは、美しい切り口のテリーヌや完璧なカロリー計算に基づいた小鉢がたくさん並ぶ食卓である。「いつか私に娘か息子ができたら、手作りのお菓子やご飯を食べてもらいたい。たくさん食べられて、体にもいい、そんな味を今から研究してるの」彼女は口癖のように繰り返していたものだ。
     育った環境は違えど、世間一般でよしとされる家庭の形に、なんらかの緊張感や居心地の悪さを覚えた少女時代は共通している。だから、大学の入学式で目が合うなり、話しかけることができたのかもしれないと思う。伶子がふと視線を上げた。その瞳は好奇心にきらめいている。
    「ねえ、仕事の話をして。ほら、梶井真奈子に取材の申し込みをしているっていう話、あれ、どうなったの」
     梶井真奈子はここ数年世間を騒がせている、首都圏連続不審死事件の被告人である。婚活サイトを介して次々に男達から金を奪い、三人を殺した罪に問われている。彼女が逮捕直前まで書き続けていた、美食と贅沢に溢れたブログは話題となった。趣味は食べ歩きやお取り寄せ、かなりの料理自慢でもあったらしい。ネットを舞台にした今日的な事件として、メディアは飽きもせずに今も取り上げている。現在、彼女は東京拘置所に勾留中だ。
     逮捕時からどういうわけか、ずっと気にかかっていた事件だった。当時は、別のチームにいたせいで直接関わることはできなかった。胸の中でくすぶり続けたまま、いつの間にか逮捕時の梶井の年齢に追いつこうとしている。選挙の担当が一段落した今、ようやく、自分の裁量で動き出すことが出来そうだ。
    「カジマナってなんかすっごいよく食べるんだろ。デブなわけだよなあ。あんなデブがよく結婚詐欺なんてできたと思うよ。やっぱ料理上手いからかなあ?」
     ひやり、とする。伶子が一瞬、分からないくらいに眉をひそめたのだ。昔から女性蔑視には里佳以上に敏感だ。でも、亮介さんが特に無神経なわけではない。これが世間一般の男性の平均的な反応なのだろう。この事件がこうも注目されるのは、大勢の男達を手玉にとり、法廷でも女王様然としていた梶井が、決して若くも美しくもなかったためだ。写真で見る限り、体重はあきらかに七十キロを超えているだろう。
    「梶井真奈子の手口っていうより、あの事件を生んだこの社会背景……。事件全体に濃厚な女嫌いの空気が漂っているような気がして。被害者もカジマナも、関わっている男達も、みんな女を憎んでいるような気がする。うちみたいな男性週刊誌でそのニュアンスが上手く伝えられるかはわからないけど。でも、本人に何度手紙を出しても反応なくて。東京拘置所まで行ったことも二回あるけど、やっぱり向こうに会う気はないみたい」
    ――ずっと孤独だったから、老後の世話をしてくれるのなら、どんなブスでも良かった。
    ――ご飯を作ってくれる家庭的な女であれば、もう誰でもよかった。
    ――デブかもしれないけれど、すごいお嬢様なんだ。すれてなくて世間知らずなんだよ。
     いずれの被害者も生前、近しい相手にそう語っている。梶井真奈子を強く必要とし、多額の金を貢いでいたことは確かなのに、第三者には何故か見下すような発言を繰り返していた。法廷では、検察側がアリバイや証拠そっちのけで、梶井の貞操観念を繰り返し批判したため、論点が何度もすり替わり、審理は難航した。証人の一人だった介護ヘルパーの女性に、セクハラめいた尋問が突きつけられたこともある。事件に関する論争は、男性と女性でまっこうから意見が対立し、さる男性評論家が口にした言葉が女性蔑視発言と批判され、謝罪に至った。
    「最後の被害者。なんだっけ、ほらネット界隈では有名なオタクの人。電車にひかれる直前に、梶井真奈子の手作りのビーフシチューを食べているんだよ。それも、あのフランス料理教室、ええと、サロン・ド・ミユコで習ったものなのかなあ」
     どうやら、伶子は週刊誌やネット情報まで熱心にチェックしているらしい。昔から、時事ネタや流行に敏感で、いい意味でミーハーであるばかりではなく、勉強熱心で大学では常に首席、院に進むかどうか最後まで迷っていた。
    「サロン・ド・ミユコ」は西麻布の有名なフランス料理店「バルザック」のオーナーシェフ笹塚氏の妻であり店のマダムである笹塚美由子が、定休日を利用して、女性向けに始めた知る人ぞ知る料理教室だ。厨房を開放し、シェフが使う業務用のオーブンや調理器具だけではなく、一流の素材も使えるというふれこみである。月三回の授業料は一回一万五千円と高額で、一年間通い続けると五十万を超える。修了したからといって、免許がとれるわけでもプロになれるわけでもない。裕福な主婦や高収入の女性だけに許された、とても贅沢な習い事だろう。梶井真奈子は逮捕される二ヶ月前まで、被害者の一人に授業料を払わせ、熱心に通っていたとされている。生徒達と彼女が写っている教室での集合写真はネットを検索すれば簡単に見ることが出来る。シックな出で立ちをしたセンスの良い女性達の中で、豊満な身体を強調するようなデート仕様のぴっちりしたワンピース姿の真奈子は悪目立ちしていた。マスコミの取材攻撃により、教室は休業状態にあると聞く。
    「そうそう、その被害者は死ぬ前に母親にメールを送っているんだよね。『彼女の作ったビーフシチューがとても美味しかった』って。法廷でも、美味しいビーフシチューを恋人のために煮込むような女性が、果たしてその相手を電車の前に突き落として殺すでしょうかって、梶井側の弁護士が言っていたじゃない。あ、そうだ。里佳、今度、梶井容疑者に手紙を出す時はこう書いてみれば? あの時のビーフシチューのレシピをぜひ、教えてくださいって。きっと会ってもらえるんじゃないかな」
     里佳は目をしばたたかせた。そんな発想はまったくなかったのだ。広報時代、伶子はその心配りとユーモア、意表をついた手土産で、気むずかしい有名映画監督や芸能会社社長、スポンサーらを、次々と陥落させ味方に引き入れていたことを思い出す。
    「だって、料理好きな女って、レシピを聞かれると喜んで、いろいろと聞かれていないことまで話してしまうものだもん。これは絶対の法則だよ。現に私がそうだし」
    「そうそう、この間、会社の同僚が奥さんと子供つれて、うちに遊びに来たんだけど、伶ちゃんの作ったシュウマイに感動しちゃってさ。そしたら、伶ちゃん、作り方とか蒸し器の種類とか、めちゃめちゃよくしゃべるから驚いたよ」
     と、亮介さんがくすくす笑っている。
    「ねえねえ、亮ちゃん、私もいつか行ってみたいなあ、サロン・ド・ミユコ」
    「俺の給料じゃ、無理だっつうの」
     デザートは手作りだという栗の渋皮煮と、甘酒と米粉のシフォンケーキ、しょうがの効いたチャイだった。ふんわりと柔らかいだけではなく、豊かなコシと弾力のあるケーキ生地を里佳が目を丸くして褒めると、伶子がさも悔しそうに眉を下げた。
    「クリスマスが近いし、本当はどっしりしたバタークリームのブッシュドノエルみたいなものにしたかったんだけどねえ。ねえ、亮ちゃん。さっき里佳に探してもらったけど、やっぱりまだこの町にバター無いみたいなんだ。当分はパウンドケーキやジェノワーズは焼けそうにないな。菜種油で焼くシフォンしか作れなさそう」
    「いや、これ、もっちもちで、うまいよ。バター不足はまだまだ続くと思うよ。去年の夏は猛暑続きだったから、たくさんの乳牛が乳房炎にかかったのが原因だっていわれているけど、今年は品薄を見越して緊急輸入したくらいなのにな。一体どこに消えているんだろうなあ。もともと酪農家も減っているしね。そのうち、乳製品を海外に頼る時代も来るかもしれないなあ。いずれにせよ、うちみたいな小さいメーカーには打撃だよ」
     亮介さんの話に相槌を打ちながら、梶井真奈子がバターを好きなことを急に思い出した。食べ物に関心が薄いため、彼女のブログはつい読み飛ばしてしまうのだが、高級なバターについてしつこいくらいに記述していることだけは、印象に残っていた。そういえば、被害者の一人のクレジットカードを勝手に使って二千円近いバターをいくつも購入していたことが、法廷で明かされていた。新潟出身で酪農家に囲まれて育ったらしいから、乳製品にこだわりがあるのだろうか。ネットでは「バターの食べ過ぎであんなに太ったのでは」「バターをいやらしいことに使っていたのでは」などとよく揶揄されているほどだ。
     もっとゆっくりしていって、朝早いなら泊まればいいのに、という名残惜しそうな夫婦の申し出を断って、里佳は九時過ぎにいとまを告げた。伶子が持たせてくれたラップに包まれた牡蠣ご飯のおにぎりとシフォンケーキを携え、そのまま会社を目指す。
    ――本物がわかる人としか、おつきあいしたくありません。本物の人間は少ない。
     梶井真奈子がブログでよく好んで使うフレーズである。
     でも、本物という表現を使うのであれば、それは伶子のような女にこそふさわしい。
     改札の前でもう一度、町並みを振り返る。丘に沿う建売住宅の灯りの群れが、さっきとは打って変わって温かく見えた。PASMOを取り出す際、指先に脂気が蘇り、ささくれがなだめられていることに気付いた。


    ※7月19日(水)18時~生放送
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