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記事 5件
  • 【第158回 芥川賞 候補作】『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

    2018-01-10 17:30  
     診察を終え、会計を済ませたのは昼過ぎだった。病院を出たとたん、暑い日指しが桃子さんの頭上に容赦なく降り注いだ。陽炎が揺れている。さっきもらったばかりの薬を入れたポリ袋をぶらぶらさせながら、木陰伝いにバス停までの道を歩いた。
     いつもの喫茶店はそれほど混んでいなくて窓際の席に着いた。
     病院通いのあとはバスに乗って最寄りの駅まで行き、電車の待ち時間を利用して、駅前のロータリーが見渡せる喫茶店二階のこの席に座る。観葉植物に囲まれた柔らかなソファが心地よくて、かすかに流れる洋楽も好ましく、外出の締めくくりにここに寄って駅前の風景を見下ろすのが常だった。
     頼んだソーダ水を待ちかねたように口に含んだ。ピリピリとした甘さが舌を刺激してのど元を通り過ぎたとき、桃子さんは自分が思いの外疲れているのに気が付いた。暑い日差しにやられたのかもしれない、とろけるような睡魔に襲われて、グラスの底ではじける泡を覗

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『愛が挟み撃ち』前田司郎

    2018-01-10 17:30  

    1.
     4みたいに京子は、右足一本で立っている。
     肩まで届かない髪を無理に縛って顔が少し突っ張っているから、もともと切れ長の軽く垂れた目が多少釣りあがって見える。整った美しい顔立ちは、どことなく不幸そうに見え、いつも不機嫌だと思われる。今も上機嫌だったが、そうは見えない。
     ペーパーフィルターに量を計ってコーヒー豆を入れる。
     時々左右の足を入れ替える。床が氷のように冷たい。スリッパは薄汚れたから捨てた。最近のことのように思うけど、あれは結婚してすぐだからもう5年経っている。いや、もう十二月だから6年か?
    「いまいち判んないんだけどさ」と俊介は京子の方を振り返って言う。「子供って出来た方が良いわけでしょ? 生物的には」と続けた。
    「出来た方が良いって?」
     ちょっとだけ首を振り、苔緑色のどっしりとしたソファに寝間着のまま胡坐をかいている俊介にそう訊いたけど、言わんとしていることは何とな

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『雪子さんの足音』木村紅美

    2018-01-10 17:30  
     眠るように死んでまだきれいなうちに下宿人に見つかるというのが、雪子さんの理想の最期だった。その望みは叶えられなかったことを、八月の終わり、薫は出張さきの品川のホテルで朝刊を読んでいて知った。
     死因は熱中症。エアコンは使われておらず、窓も閉めきられていた。発見したのは、連絡が取れなくなったのを不審に思った遠い親戚で、死後すでに一週間経っていたというから腐敗が始まっていただろう。月光荘は薫が住んでいた二十年まえですでにかなりの築年数が過ぎていた。二階の下宿人には気づかれなかったか、さいきんはもう新しく部屋を借りる人はいなかったのかもしれない。
    「ずっと家にいて、わたしが死ぬまで炊事洗濯してやるのかと考えるとつらくて」
    「うちのも、もう四十よ」
     顔をあげると、隣席にいる白髪まじりの婦人たちのやりとりが耳に飛び込んでくる。朝食を食べ終わったころにやって来た彼女たちは母と同世代で、薫と同じ年ご

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『百年泥』石井遊佳

    2018-01-10 17:30  

     チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるのかもしれない。 前日は一日中豪雨だった。午後には授業を早めに終了して学生を帰らせ、翌朝窓を開けたらアパートの周囲はコーヒー色の川になっている。 そのとき携帯電話が鳴り、出ると受け持ちクラスのアーナンダだったが、「こうずいですから、きょうじゅぎょうはやすみます」 茶色の水をみつめながら私は言い、「……はい……せんせ……はい……」 とぎれとぎれの声がどうにか聞き取れた。伝達事項があるさいなど、面倒見のいい彼がたいていクラスの窓口になってくれていて、今日も気を利かして電話をよこしたのだ。電話を切って向かいの家の玄関に目を移す。門扉の上部分が、とつぜん水面から生え出したように見えるその状況から推して水の高さは一メートルを越えている。私の部屋がアパートの五階だったことをあまたの神仏に感謝しなければならない。 きのう、教室の

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  • 芥川賞・直木賞の候補作を無料で試し読み!

    2018-01-10 17:30  
    新進作家の最も優秀な純文学短編作品に贈られる、「芥川龍之介賞」。 そして、最も優秀な大衆文芸作品に贈られる、「直木三十五賞」。日本で最も有名な文学賞である両賞の、
    ニコニコでの発表&受賞者記者会見生放送も15回を数えます。
    なんと今回も、候補作の出版元の協力によって、芥川賞・直木賞候補作品冒頭部分のブロマガでの無料配信が実現しました。(『ディレイ・エフェクト』 宮内 悠介を除く。)【第158回 芥川賞 候補作】石井遊佳『百年泥』(新潮十一月号)木村紅美『雪子さんの足音』(群像九月号)前田司郎『愛が挟み撃ち』(文學界十二月号)宮内悠介『ディレイ・エフェクト』(たべるのがおそいvol.4)若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(文藝冬号) 【第158回 直木賞 候補作】 彩瀬まる『くちなし』(文藝春秋) 伊吹有喜『彼方の友へ』(実業之日本社)門井慶喜『銀河鉄道の父』(講談社)澤田瞳子『火定』(

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