ちきりんさんと堀江貴文さんの対談を読んだ。
ちきりん 苦労して頑張ってやってきたのに、そんな言われようだと、悔しいというより、悲しいですよね。でも、そういう人は無視してしまうという方法もあったでしょ? 私の世界観では、世の中には「言わなくてもわかる人」が少しだけいて、そのまわりに「言えばわかる人」がある程度はいる。でも、残りは「いくら言ってもわからない人」ばかりだから、もうその層にはわかってもらえなくてもいいかな、というイメージなんです。
ぼくがこの一節を読んで思い出したのは、『SWAN SONG』の一節だった。この物語のなかで、ある宗教団体のリーダーである母親が、娘に向けて教団の本質を伝える場面がある。こういう内容だ。
「彼らは本当のことを知りたいわけではなくて、自分に都合のいい甘い夢を見て、他人と共有することだけが望みなのです。弥勒菩薩だろうと、イエスキリストだろうと、それが彼らを夢から分断する存在ならば、たとえどんな正法を携えていようとも、理解しようともせずに石を投げるでしょう」
「だから、その真実の素晴らしさを上手に話すことが出来たのなら……」
「勘違いしてはいけません。それが出来るのは全てを知った選ばれた人間だけです。お前は覚者ではありません。お前に人を導く力はありません。そもそも私は、そんな人間が実在し得るとも思っていません。求めない人間に与えることは出来ません」
「そういう人は、きっと居ます」
「その信念は勝手ですが、お前はそれが自分だと言いたいのですか? もしくは、そうなりたいのですか? 勘違いもいい加減になさい」
「……」
「私たちに出来るのは、自分の力で夢を見られない弱い人間のために、夢の管理人を買って出ることだけです。彼らの美しい夢を守るために、彼らが自分の醜さに気が付かないように、こっそり真実の芽をつみ取るのが私たちの仕事です。彼らが真実を携えた聖者を望まないのなら、彼らのかわりに殺してしまうのが私たちの仕事です。私たちは正しさの味方ではなく弱さの味方です。弱く醜く臆病なものたちのために楽園を提供するのです」
初めて読んだ時、何ときびしい見方なのだろう、と思ったものだ。「求めない人間に与えることはできません」。「彼らは本当のことを知りたいわけではなくて、自分に都合のいい甘い夢を見て、他人と共有することだけが望みなのです」。
ちきりんさんの言葉を借りるなら、
コメント
コメントを書くキモメンだから女に差別されていると主張する人(仮にAさんとする)が顔の見えないネットで人気者になるかはまた別の話。
Aの言うことが真実だとした場合に「女に差別されていないからキモメンではない」は真実になっても「キモメンではないから女に差別されない」は真実とは限らない。真実と決まっているのは対偶だけですから。
A「顔以外は問題ない」
海燕「顔以外は完璧なんですね」
A「顔の所為で女性から差別される」
海燕「顔の見えないネットでは誰からも好かれるはずですよね」
Aの主張に対する返しにしては論点や言葉の意味がずらされている気がする…。
Aが「顔以外は完璧。それさえなければ誰からも好かれるはず」と主張しているのであれば、その返し方に問題はないですけど。
自分の信じていると考えている理論を相手に伝えることは悪くないと思いますが、わざわざ相手の神経を逆撫でする言い方をする必要は全く無いと思います。それでは真実を告げることの正当性を盾にして攻撃しているのと変わりません。 それを正しい行為だと言い張るのであれば、海燕さんには真実の振りをした言葉の暴力を好きにぶつけていいということになってしまいますよ。
毒も薬も苦い。できるなら、甘い薬を飲みたい。それはやっぱり甘い夢なのかしらね。
なぜ他人を説得しようとするのですか?海燕さんは現実を直視し、幻想に逃げない(マル)というだけでは
不十分ですか?
他人を説得したいと思う動機が見えません。他者の幻想を壊さない姿勢は
他者を尊重することの一部でもあると思うのですが、いかがでしょう?
(もちろんSwanSongのような考え方は、尊重とは程遠いですが)
海燕さんの身近に例に挙げてるような方がいらっしゃるんでしょうね
でもそれを直接出すとまずいので一般化しようとして拗れてる印象を受けました
うーん難しいですね