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それはたそがれ時の物語だ。ダスク・ストーリィ。昼と夜の狭間、世界が暮れゆく時間のお話。
その時、昼間は影の裏側にひそんでいた者たちが立ち現れ、可憐に踊り始めることだろう。忘れ去られた者たちのダンス。ごく一部の人だけがそれを視、かれら死者たちの声を聴く。
TONO『ダスク・ストーリィ』はその「ごく一部の人」である少年タスクを狂言回しに、人々の生と死を繊細に綴った異色作。
TONOには『カルバニア物語』や『チキタGuGu』といった傑作長編があるが、この全二巻は内容的にそれらに劣らない。いくつもの短編によって構成されているのだが、いずれも傑作としかいいようがなく、実に不思議な印象が残る。
ハートウォーミング――ひと言でそういって良いものだろうか。たしかにどれもこれもきわめて涙腺を刺激する作品ぞろい。しかし、ただ「泣ける」といって済ませてしまうにはあまりに複雑な興趣を感じる。
たしかにある種のゴースト・ストーリーではある。だが、それに留まるものではない。美しくも哀しいファンタジーではある。しかし、それだけで済ませられる代物ではない。
どういったらいいのだろう――いや、どう語ろうとしても、容易には説明しきれないだろう。それほどの作品である。
ひとついえるとすれば、これほど優しい物語を読んだことはひさしぶりになるということだ。
TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。
そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。
たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。
しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。
やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。
何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。
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海燕さんは、フレッカとは別のものを目指す人達をどう見ているのですか?
海燕さんがフレッカの高貴さに憧れることと、「ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。」と思う事は別だと思います。
例えば、「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が、フレッカ(恐怖と絶望に立ち向かう人)に、必ずしも劣るわけではないと思うのですが、いかがでしょう?
バイソンにはバイソンの生き様があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方があって、それぞれ等しく尊ばれるものだと思います。