たとえば、1980年代の『週刊少年ジャンプ』は「友情・努力・勝利」をテーマにしていましたが、この場合の「友情」は、フランス革命でいうところの「友愛(フラタニティ)」に近い。フランス革命はスローガンとして「自由・平等・友愛」を掲げていたけれど、これはあくまで目的を同じくするメンバー間の友愛であり、平等でした。フランス革命は全人類の平等を訴えたのではなく、共同体に属しているメンバーが平等であって互いに助け合おうと訴えたのです。道徳には、有効範囲が設定されています。自分が共感できる仲間の範疇でしか道徳は共有できませんし、時代によっても変化します。1980年代の『週刊少年ジャンプ』読者と、2010年代の読者では、道徳観は違って当然。普遍でも不変でもなく、流行がある。だからこその『週刊少年ジャンプ』です。
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海燕さんの意見の大半に同意します。
自分も岡田斗司夫の古いファンで、今回の事件の話を聞いても「岡田に裏切られた!」とは全く思っておらず、もともとこんな人だったというのが正直な感想で(80人彼女とかはさすがに驚きましたが)、むしろ興味の焦点は今後彼がどうやって今回の事態を収拾するのかという点にあり、どんなロジックで世間の道徳的批判に対抗するのか楽しみだったりします。
ただ一点だけ海燕さんと意見が違うのは、ネット上の反応に対する考え方です。
海燕さんは現状の「岡田斗司夫叩き」は明らかに不当だと仰っていますが自分はそうは思いません。
海燕さん自身、岡田さんに対して「道徳的共感」を行うことはむずかしいと言ってるように、ネット上の意見の大半はまさしく「道徳的違和感」を根拠に岡田氏を揶揄する物がほとんどのように思います。
殺人予告や脅迫をされたのなら確かに問題ですが、岡田氏のこれまでの他人を見下すような態度や言動を鑑みるに、傲慢な人間がヘタを打った瞬間に周囲から叩かれるのは火を見るより明らかなことで、岡田さん自身それは覚悟していたことではないでしょうか。
その上で世俗的な下々の者による道徳的批判には与しない。それが「オタキング」岡田斗司夫という人間なのだと自分は思っています。
それではその下々の者による道徳的批判は不当なのか?というと、これもまた「不当ではない」というのが自分の考えです。
なぜなら、岡田斗司夫が海燕さん言うところの「怪物」であるのと同様に、私達ネット民もまた別種の「怪物」だからです。
自分は海燕さんの「ぼくはその「怪物」を包摂する社会のほうが面白いと感じます」という意見に完全に同意します。
であるからこそ、面白おかしく岡田斗司夫を揶揄する怪物たちの言動を道徳的に批判するつもりはありません(法に反しない限りは)
そこで気になるのが海燕さんのネット民に対するスタンスです。
海燕さんはネット上の「怪物」と共存していくつもりはあるのか?
「怪物を包摂する社会」とは「怪物」をどのように扱う社会なのか?
海燕さんが言う通り岡田斗司夫が考えたかった問題とはこういうことなのではないかと思います。
実に面白いと思います。ただ、長くなるので、返答は次の記事で。