いま、岡田斗司夫さんの『僕らの新しい道徳』という本を読んでいます。「道徳」をテーマにした対談集で、この本のなかに『週刊少年ジャンプ』が道徳の記事として良いのではないか、という話が出て来ます。
たとえば、1980年代の『週刊少年ジャンプ』は「友情・努力・勝利」をテーマにしていましたが、この場合の「友情」は、フランス革命でいうところの「友愛(フラタニティ)」に近い。フランス革命はスローガンとして「自由・平等・友愛」を掲げていたけれど、これはあくまで目的を同じくするメンバー間の友愛であり、平等でした。フランス革命は全人類の平等を訴えたのではなく、共同体に属しているメンバーが平等であって互いに助け合おうと訴えたのです。
道徳には、有効範囲が設定されています。自分が共感できる仲間の範疇でしか道徳は共有できませんし、時代によっても変化します。1980年代の『週刊少年ジャンプ』読者と、2010年代の読者では、道徳観は違って当然。普遍でも不変でもなく、流行がある。だからこその『週刊少年ジャンプ』です。
この話は非常に面白い。ここでちょっと余談に走ると、個人的に「努力・友情・勝利」というスローガンから「努力」が抜け落ちて「友情」と「勝利」のみが強調されるようになったのがいまの『週刊少年ジャンプ』なのかな、と思っています。
仮に「努力」が抜け落ちたところに何か言葉を入れるとしたら「個性」とか「工夫」といった表現が入るのではないでしょうか。これはやっぱり「努力すればそのぶん成功するものだ」という幻想が説得力を失った結果なのではないかと思うわけなのですが、まあそれはいい。
重要なのは、ここで岡田さんが「道徳には有効範囲がある」として『ONE PIECE』を例に挙げていることです。これはすごくよくわかる話です。
『ONE PIECE』の主人公である海賊少年ルフィは「仲間」を強調し、仲間のためなら命をも惜しまない姿勢を強調します。
それが読む者の感動を呼ぶわけですが、一方でルフィは「敵」とみなした人間に対しては容赦しません。徹底的に暴力を振るうことでかれの考える正義を実行します。
「仲間」とみなした人間には最大の共感を、「敵」とみなした人間には最大の攻撃を。これがルフィの道徳だといっていいのではないでしょうか。
その態度は物語中ではポジティヴに描かれていますが、一面で独善性を伴うことも否定できない側面があり、だからこそ、『ONE PIECE』は超人気作でありながら賛否両論が分かれるところがあります。
で、ぼくは『ONE PIECE』の話は裏返すと『HUNTERXHUNTER』の話になると思っています。つまり、ルフィの海賊団の話はそのまま幻影旅団のスライドするわけです。
幻影旅団もルフィ海賊団と同じ道徳観を備えた集団です。仲間には絶対の忠誠を、敵には究極の無慈悲を。しかし、ルフィの海賊団と比べると、「仲間」と「敵」を明確に分けることのネガティヴな側面が強調されているように思います。
ルフィが、いくらか身勝手ながらも「正義」に拘っているのに対し、幻影旅団は「仲間の利益」だけしか考えない、そんな印象がある。
しかし、そのルフィにしても、自分にとって不快な人間の権益を代弁しようとは考えないでしょう。この世の何よりも「仲間」が大切。「仲間」の敵は自分の敵。ルフィはそう考えているように思えます。
いずれにしろ、「道徳には、有効範囲が設定されてい」る以上、どこかで「仲間」と「それ以外」を区切らなければならない。
そうなると、当然、それではどこまでを「自分が共感できる仲間の範疇」とみなすかという問題が出て来ます。つまり、どこまでを道徳的に共感できるフラタニティの友と考えるかということ。
『HUNTERXHUNTER』の作中では、この問いは人間ですらないキメラアントをも「仲間」とみなすか否か、という形できわめて先鋭的に展開することになりますが、ここではもっと現実的な問いを考えてみましょう。
つまり――「あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?」と。ぼくがいままでずっと書いて来たことは、あなたにこの問いに答えてもらうためなのです。
これまで縷々と述べてきたように、岡田斗司夫という人はかなり個性的な人物です。最近は「いいひと戦略」に則ってなのかどうなのか、わりと社会道徳に適合するよう振る舞っているように見えますが、本質的にはあまり道徳を尊重しているようには思えません。
というか、ぼくは岡田さんは内心では型通りの道徳なんて深く軽蔑しているに違いないと信じているんですけれど、まあ、まず「いいひと」とはいいがたいでしょう。
そしてまた今回あきらかになったことは、岡田斗司夫という人は女性を人間として尊重せず、ほぼモノ扱いするタイプの人物だということです。
何人愛人を作ろうと本人の自由ではありますが、それにしても相当共感しづらいパーソナリティというべきでしょう。
しかし、相当に豊かな才能を持っていることはたしかで、その能力は社会的に有用だといえそうです。
何といっても、岡田斗司夫がいなければGAINAXもなかったかもしれず、『トップをねらえ!』とか『ふしぎの海のナディア』といった作品もなかったかもしれないわけです。その能力は一定の評価に値します(もっとも、仮に『トップ』や『ナディア』がなかったとしても、ほかの作品が生まれただろうことは間違いありませんが)。
さて、あなたはそんな岡田斗司夫に共感できますか? 岡田斗司夫を「仲間」だとみなすことができますか? ご一考ください。
結論から書いてしまうと、「ぼくはできます」。岡田斗司夫さんのような人物もまた、同じ共同体の「仲間」として権利を与えられてしかるべきだと考えます。
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コメント
コメントを書く海燕さんの意見の大半に同意します。
自分も岡田斗司夫の古いファンで、今回の事件の話を聞いても「岡田に裏切られた!」とは全く思っておらず、もともとこんな人だったというのが正直な感想で(80人彼女とかはさすがに驚きましたが)、むしろ興味の焦点は今後彼がどうやって今回の事態を収拾するのかという点にあり、どんなロジックで世間の道徳的批判に対抗するのか楽しみだったりします。
ただ一点だけ海燕さんと意見が違うのは、ネット上の反応に対する考え方です。
海燕さんは現状の「岡田斗司夫叩き」は明らかに不当だと仰っていますが自分はそうは思いません。
海燕さん自身、岡田さんに対して「道徳的共感」を行うことはむずかしいと言ってるように、ネット上の意見の大半はまさしく「道徳的違和感」を根拠に岡田氏を揶揄する物がほとんどのように思います。
殺人予告や脅迫をされたのなら確かに問題ですが、岡田氏のこれまでの他人を見下すような態度や言動を鑑みるに、傲慢な人間がヘタを打った瞬間に周囲から叩かれるのは火を見るより明らかなことで、岡田さん自身それは覚悟していたことではないでしょうか。
その上で世俗的な下々の者による道徳的批判には与しない。それが「オタキング」岡田斗司夫という人間なのだと自分は思っています。
それではその下々の者による道徳的批判は不当なのか?というと、これもまた「不当ではない」というのが自分の考えです。
なぜなら、岡田斗司夫が海燕さん言うところの「怪物」であるのと同様に、私達ネット民もまた別種の「怪物」だからです。
自分は海燕さんの「ぼくはその「怪物」を包摂する社会のほうが面白いと感じます」という意見に完全に同意します。
であるからこそ、面白おかしく岡田斗司夫を揶揄する怪物たちの言動を道徳的に批判するつもりはありません(法に反しない限りは)
そこで気になるのが海燕さんのネット民に対するスタンスです。
海燕さんはネット上の「怪物」と共存していくつもりはあるのか?
「怪物を包摂する社会」とは「怪物」をどのように扱う社会なのか?
海燕さんが言う通り岡田斗司夫が考えたかった問題とはこういうことなのではないかと思います。
実に面白いと思います。ただ、長くなるので、返答は次の記事で。