小飼弾です。隔週の予定からは少し押してしまいましたが、ブロマガをお届けいたします。
200 Any Questions OK
今号の質問は、こちら。夏休み向けです。
Q.フィクションを読む意味がわかりません
しょせん絵空事にすぎないフィクションを読んだりする暇があるほど人生は長いのでしょうか?本当の話であるノンフィクションでさえ、読み切れないほど存在するし、「事実は小説より奇なり」というように、虚構より現実の方がよほど面白いのに。
Q.フィクションに感情移入しすぎて困っています
物語、特に悲しい話を読んだ後、現実になかなか戻れなくて困っています。非実在人物だとわかっているのに、主人公が失恋すると翌日には食事が喉を通らなくなりますし、ましてや死んだりしたら翌日は仕事が手に付かなくなってしまいます。弾さんはどうやって現実に復帰していますか?
補題: 100%ノンフィクションなんてありえない
まずは、以下の画像をご覧下さい。
これは、動画ではありません。にも関わらずほとんどの読者には動いているように見えるはずです。こういった錯覚を誘発する画像を錯視といいます。詳しくはその権威、北岡明佳著の「だまされる視覚 錯視の楽しみ方」を一読頂くとして、何が言いたいかというと、我々は実は「ありのままの現実」を理解できるようには「出来ていない」ということです。
上も有名な錯視で、黄緑に見えるところと水色に見えるところは、実は同じ色。嘘だと思ったらPhotoshopなどで色比較をしてみて下さい。しかし、「これは錯視」だと知らなければ、そんなことをしてみる気も起きないでしょう。
錯視の存在は、我々が現実を捉えるにあたっては意識どころか無意識のレベルで「わかりやすい」ように現実を改変していることを示唆しています。つまり、我々が普段見聞きしているものというのは、少なくとも無意識によって改変されたフィクションなのです。
そこから「ありのまま」の現実を取り出すためには、我々の知覚が現実をどう改変しているのかを知っておく必要があるはずです。本当のことを知りたければ、自分が自分にどういうウソをついているのかを含め、ウソのテクニックに精通せざるをえないんです。
補題: 100%フィクションもありえない
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」TVドラマを締めくくるこの但し書きほど、100%フィクションもまたあり得ぬことを示す但し書きもないでしょう。本当にそれが「ただの絵空事」で、視聴者もそれを了承してドラマが終わるや否や現実復帰できるのであれば、わざわざそう断る必要などないはずです。
アニメ版「銀の匙」では、この部分はさらにこうなっています。
この物語はフィクションです。劇中に登場する個人名・団体名などはすべて架空のものですが、酪農については、食と命に関わるテーマとして事実に基づいた表現を心がけています。モデルとなった場所や施設を訪問する行為は、動物の疫病を引き起こす等の原因ともなりえる危険な行為です。フィクションとしてお楽しみください
これは、フィクションというものに対してさらに一段と誠意ある対応ではないでしょうか。非実在の蝦夷農業高校が、実在する農業高校に対して影響を与えることをきちんと認めた上で、現実復帰する際の注意を喚起しているのですから。
同作を例にとれば、蝦夷農業高校という固有名詞は非実在でも、農業高校という一般名詞は実在で、それをそのまま用いているわけです。名詞の一般部分は現実からそのままもって来て、固有部分を虚構するというのは、フィクションの作法としては最も一般的なものでしょう。こうすることによって、いかにもありそうだけだけど実際にはない、「リアルな虚構」を生み出せるわけです。
それではフィクションから一切のリアルを取り除いたら、どうなるのでしょうか?
完全に理解不能な代物が出来ます。
ここで私は「一切のリアル」といいました。つまりそこで用いられる言語ですら虚構しなければならないということです。「スタートレック」のクリンゴン語から「翠星のガルガンティア」の人類銀河同盟語にいたるまで昨今のSFではこの部分も頑張っていますが(傾向としてなぜか映像作品の方が頑張ってる)、しかし視聴者のためにせっかく虚構した言語も、21世紀の現代人に理解できるように作中で翻訳せねばならず、そこで現実との接点が生じてしまいます。
そもそも「登場人物」というものの「人物」自体がリアルでもあります。SFでさえヒトが登場しない作品というのは稀で、地球外知的生命体が主題の作品でさえ、翻訳者としてのヒトを登場させねば作品として成立しないのです。
ここまでまとめると、我々は現実をフィクションを通してしか知覚できないし、しかしどんなフィクションを虚構しても、そこに現実が混じってしまうということになります。
本当は怖い「心の中に生き続ける」
で、ここからが本題。
「我々が知覚している世界というのは、現実と虚構の狭間にある」
これを前提とすると、「彼/女(たち)は私の心の中に生き続ける」という手垢がびっしりついた台詞もあながち嘘とは言い切れなくなります。本当にあった話であれそうでない話であれ、私自身、お話のよしあしで最も重要なのはどれだけ心の中で生き生きしているか、です。
しかし、これを丸呑みしてしまうと、かなり恐ろしいことになります。