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川尻達也が茨城から通う東京・足立区のボクシングジム「JBスポーツ」。そのジムのトレーナー
山田武士が率いる「チーム黒船」の合同練習にはかつては多くのMMAファイターが参加。日本格闘技界の一大勢力であった。今回の川尻達也UFC参戦もサポートしていた山田氏だが、その背景には東日本大震災から始まりギルバート・メレンデス戦で味わった挫折があった。山田氏にとってUFCは約束の地だったのだ。



転機になったのは川尻くんがギルバート・メレンデスとやったとき
直前に大震災が起きて、川尻くんは茨城からここに来るまでのガソリンもなくて

――いまJBスポーツにはMMAファイターはそんなに来られてないようですね。

山田 ボクシング以外だといまはKrushの選手ばっかりで。20人くらい来てるかなあ。MMAは児山(佳宏)と、たっつあん(川尻達也)だけなんですよ。その理由は国内に大きなMMAイベントがないという一言じゃないですかね。

――ここ通う選手の皆さんは月謝を払ってるんですよね?

山田 もちろんです。一般会員さんと同じく月会費を払って。川尻くんなんて1万円払って茨城から週3回来るじゃないですか。計算したら1回800円ですからね。800円であんだけ強くしてやってるんだからさあ(笑)。

――成功報酬にしたほうがいいんじゃないんですか?(笑)。

山田 UFCでファイト・オブ・ザ・ナイト(大会ベストバウトで5万ドルの賞金)獲ったら、いくらなんでもそうなると思いますよ。

――ハハハハハハ。賞金の10パーセントはほしいところですねぇ。

山田 サブミッション・オブ・ザ・ナイトとのダブル受賞だったら1000万円ですよね。1000万獲ったら100万円くらいポンと払うでしょ。そりゃあ川尻達也は男の中の男ですから。これは大きく書いといてくださいよ(笑)。

――了解しました(笑)。Krushファイターのお話を聞くかぎり、ジムって格闘技界の時流があらわになるもんですね。

山田 いや、凄くありますよ。一時期、立嶋篤史が来てた頃はキックボクサーばっかりだったんですよ。

――それは90年代?

山田 90年代ですね。00年代のMMAブームの頃はMMAファイターの選手ばっかりになって。MMAがああいうかたちになってからはKrushの選手ばかりですよ。だから僕のところが一番流行りに乗ってるのかなって(笑)。

――今日はちょっとそのへんも含めてUFCシンガポール大会のお話を聞かせていただきたいんですけど。まず川尻選手のUFC参戦が決まったときは率直にどう思われていたんですか?

山田 「やっと行ってくれたか!」って。

――「やっと」ですか。そこにはどういった意味があるんですか?

山田 うーん……。

――以前、山田さんは「魔娑斗と闘いながらギルバート・メレンデスと張り合うのは無理」とおっしゃってましたね。

山田 いやもう無理ですよ。だってK−1ルールで武田幸三戦をやった次の試合はMMAルールでJZカルバンですよ(笑)。

――いま振り返ると凄いことやってますねぇ。

山田 それでカルバンに勝ったリング上で、たっつあんは「魔娑斗くんとやらせてください!!」ってアピールしてるんですよ。言うのは勝手ですけど(笑)、こっちからしたらルールが違うし。でも、あの頃のジャパニーズMMAの恐ろしいところはそれで客が沸くじゃないですか。

――まあ面白そうなマッチメイクではありますからねぇ。

山田 まあね。でも、武田幸三に勝ったあとに「魔娑斗」って言うならわかるんですが、カルバンのあとですから。K-1で勝ったあとにUFCで勝って、そして「K-1WGPの王者とやらせてくれ」と言ってたら「は?何言ってるの?」ってなるでしょ?(笑)。

――たしかにそうですね(笑)。

山田 そこはずっとおかしいと思っていたんですけど、時代の流れでそれが当たり前だったじゃないですか。それをクリアしながらやっていくっていうのは本当にキツかったですね。川尻くんからしたら加藤さんやDREAMのスタッフたちに世話になってきた思い凄くあるがゆえの行動なんでしょうけど。

――川尻選手は「DREAMは自分の団体」という思いが人一倍、強かったみたいですね。

山田 川尻くんは「DREAMを背負う」ってよく言ってましたからね。PRIDEは途中参加だったし、修斗は古い歴史がある。その点、DREAMは一発目から出てるんで凄く思い入れがあったみたいで、そうなってくると魔娑斗に喧嘩を売れば名前も上がるじゃないですか。で、川尻達也という選手もメジャーになると思うし。たしかにあの試合のインパクトは凄かったんですよ。当時はどこを歩いていても「あっ、川尻だ!」って声をかけられていたんで。俺はいまだに「佐々木希に恫喝した人ですよね」って言われるんですけど(笑)。

――ハハハハハハ! なぜそんなことに。

山田 毎週やってた格闘技情報番組が取材にきてたときになんかムカついてブチ切れたんですけど(笑)。

――当時から佐々木希が格闘技に冷たかった理由がわかりました(笑)。

山田 まあ川尻くんの魔娑斗戦にしても当時は「おかしなことに進んでるな……」とは思ってたんですけど、当時は日本格闘技界の人気も落ちてきてたし、そこは本意ではないけれど、なんとか盛り上げたいという気持ちは強かったんですよ。でも、DREAMが終わってしまって、川尻くんも日本で試合がない中で「UFCで勝負したいです」という話になったときは「しがらみなく勝負できるのか!」という感じにはなりましたよね。

――川尻選手は一昨年の大晦日以来、試合から遠ざかっていましたけど、JBスポーツには来ていたんですか?

山田 もちろん。週3回。一度も休んだことないですよ。

――モチベーションがよく保てましたよね。

山田 いまから考えれば「ただ練習をしてた」んですよね。いや、当時は一生懸命やってましたよ。でも、試合もないから明確な目標がないじゃないですか。数字を出して先週よりも今週、今週よりは来週という感じでフィジカルを上げていきましたけど、な〜んか心が踊らないというか。で、UFCが決まったときから躁状態ですよ! 川尻くんなんてテンションが高くてしゃべりっぱなしなんですよ(笑)。メールのやりとりも尋常じゃない数だったし。

――ジッとしてらんないわけですね(笑)。それはDREAMのときとは違ったんですか?

山田 DREAMのときって対戦相手が決まるのが3週間前だったりするんですよ。ギリギリまでわかんないし、外人かどうかもわかんないし、右か左かもわからない。試合に向けて「◯月◯日、勝つぞ!」って練習はしますよ。そうやって燃えてはいたんですけど、UFCは2カ月前には相手が決まるしね。今回はケガで相手が代わりましたけど、それでも1カ月前ですからね。

――DREAMだとまだ発表されてないことも。

山田 「それでもまだ1カ月もあるぞ」という余裕はありましたよね。ただ、DREAMと違うのは「海外の怖さ」なんですよね……。

――海外試合のトラウマってあるんですか?

山田 凄くありましたよ。もうぜんぜん勝ってないですから。勝ったのは石田光洋のストライクフォース、川尻くんのONEFCシンガポールくらいで。大沢ケンジがWECでドロー、高谷(裕之)全敗。(秋山)成勲全敗。成勲のアラン・ベルチャー戦のときはヌルヌルでいろいろあったから(トレーニングを)見てないんですよ。それ以降、見始めて全部負けてます。

――それだけ負け続けるとトレーナーとして迷ったりするもんですか?

山田 そりゃあ考えちゃいますよ。「向いてない!」って(笑)。海外には魔物がいるっていうか……で、転機になったのは川尻くんがギルバート(・メレンデス)とやったとき。直前に大震災が起きて、川尻くんは茨城からここに来るまでのガソリンもなくて。

――あのときはガソリン不足で大変でしたね。

山田 電車は常磐線が止まってましたから。それもあって週に1度くらいしか来れなくて、まったく仕上がらないままアメリカに渡ったんですよ。それに当時は茨城でもバンバン地震があったんで川尻くんも気が気じゃなかったと思うんですよね。

――過酷な状況だったんですね……。

山田 アメリカに着いてからも時差ボケでフワフワしてましたし、試合も飲まれちゃんじゃないですかね? だってギルバートと初めて闘ったわけじゃないじゃないですか。

――PRIDEでやってましたし、あのときは判定がどっちに転んでもおかしくないくらいの接戦でしたね。

山田 そのあと川尻くんは引退したわけじゃなくずっと高いレベルで闘ってきて。もちろんギルバートもギルバートでやってきたんでしょうけど、あれだけ何もできずに負けるとは……うーん、そうですね。ギルバートに負けた日の夜に岡見(勇信)と飯を食いに行ったんですよ。そこで「なんでおまえだけ海外で勝てるの?」って聞いたら「いきなりトップファイターとやりすぎです」と。岡見も下から勝ち上がっていったわけだし、「それでアウェイにきてトップといきなりタイトルマッチをやれって言われても勝てないんじゃないですかね」って。そりゃそうだよなあ。

――不安材料は転がってますね。

山田 だからあの試合で完全に諦めたんです。ギルバート戦で「もうアメリカはやめた!」って。川尻達也で何もできないならMMA卒業だという感じ。日本でやることやったし、アメリカでもある程度挑戦してダメだったし、もういいかな、と。それで選手たちもボロボロいなくなったんです。でも、諦めないでついてきたのは川尻くんなんですよね。

―その川尻選手のUFC参戦でまた海外に向かうのはドラマがありますね。

山田 そうなんですよ。「コイツで勝てないなら諦めよう」って思っていたのにね。とは言うものの、あの負けの数時間後に「このままやめるか、65キロに落とすか」って川尻くんに迫ったんだけど(苦笑)。

――その日のうちに(笑)。

山田 「やるとしたら65キロ。70キロでは世界はもう見えない」って。川尻くんは「いま言うんか……」と戸惑ったらしいんですけど(笑)。最初は日本に帰ってから言おうと思ったんですけど、帰国したら2週間は休むじゃないですか。そこで2週間のタイムラグがあるから、いま言ったほうがいいんじゃないかって。それで夜中3時に川尻くんの部屋に上がり込んで。朝6時のバスで空港に行かなきゃならないから荷造りしてるときに(笑)。

――川尻選手はすぐ決断したんですか?

山田 いや、けっこう悩んだんじゃないですか。あのときは2カ月くらいジムには来なかったし、練習もしてなかったし。まったく会わないわけじゃなくて飯はしゅっちゅう食ってました。ただ格闘技の話はしてなくて、そのうちに「65キロでやります」と。

――それくらいメレンデス戦の敗戦は大きくて、今後の人生の決断をさせる試合だったんですねぇ。

山田 ただごとじゃなかったですよ。俺、ボクシング、キック、MMAと尋常ない試合数を見てきましたけど、まったく映像を見てないのはあの試合だけです。

――それくらい振り返りたくない試合。

山田 まったく見てないです。こないだWOWOWでUFCを見ていたらギルバートがタイトルマッチをやっていて、その煽りで川尻くんの試合もちょっと流れて(笑)。

――そういうトラウマを抱えながらシンガポール決戦に向かっていったんですね。

「ああ、アクシデントで負けたのか」絶望の試合前、勝利を疑った試合後。オクタゴンで何が起きていたのか? 続きの中編はコチラ
 

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