90年代のプロ格潮流を振り返る大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズに「アンザイ・グレイシー」が登場! 今回のゲストは、元『週刊プロレス』の記者として“活字プロレス”シーンを引っ張り、元『格闘技通信』時代はグレイシー一族の番記者として日本にグレイシー柔術を広く知らしめた安西伸一氏。グレイシーとの出会い、ヒクソンvs安生の道場破り、『格通』が向かい合ったグレーな領域などをタップリとうかがった13000字のロングインタビューです。(聞き手/ジャン斉藤)
◯安西伸一氏が司会を務める「キューティー鈴木 トークライブ」のお知らせ
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安西 (聞き手に向かって)なんで「ジャン斉藤」という名前なの?
安西 そうなんだ。盲牌できるの?
――盲牌はできますけど、ボクの麻雀の師匠が“雀鬼”桜井章一という人で。
安西 ああ、有名な人だよね。
――雀鬼の教えで「盲牌は無駄な動作」ということで禁止なんですよね。
安西 桜井さんってホントに無敗だったの?
――正直、次元が違いましたねぇ。麻雀をやったことある人なら「麻雀で無敗なんてあるわけがない」と思うんでしょうけど。ボクも雀鬼と打つ前はそう疑ってました(笑)。
安西 だってツキの波ってあるじゃん。信じられないくらいあるよね。それをどう克服してるの?
――まず雀鬼は勝負になると勘がメチャクチャ鋭いんですよね。隣の卓でゲーム中の裏ドラを当てるとか。あと博打って金銭が絡むから、欲で判断が狂うじゃないですか。それは人生も同じで、我に返ると「なんであんな判断をしちゃったんだろう?」ってことで誰にでもあると思うんですけど。雀鬼は欲に心を乱さずに麻雀を打つんですよね。もちろん一流の技術があったうえでのことなんですけど。
安西 なるほどねえ。それはヒクソン・グレイシーそのものだよ。
――本日のインタビューテーマですね。ヒクソンと雀鬼はマブダチですし(笑)。
安西 ヒクソンとは誰の紹介で知り合ったの?
――現・グランスピアー事務局局長の笹原(圭一)さんです。当時PRIDEの広報をやっていた笹原さん
の個人的な趣味で対談が実現して。
安西 笹原くんがあの2人を会わしたんだ。
――それで今日は、桜庭和志がヘンゾ・グレイシーとグラップリングマッチが予定されていたり、ヒクソンの息子クロンのMMAデビューが日本で行われるということで、かつて“グレイシー番”として名を馳せた安西さんにグレイシー一族の魅力を語っていただきたいな、と。
安西 こないだWOWOWでPRIDEを振り返る番組があって、そこで桜庭vsホイスをひさしぶりに見ましたよ。
――伝説の一戦をあらためて見ていかがでしたか?
安西 桜庭選手のローキックは凄いなあって。あれはかなり効いていたよね。ホイスはガス欠というかエネルギーがなくなって。
――当時の安西さんは『格闘技通信』の編集者でしたけど、桜庭vsホイスをどういう立ち位置で見ていたんですか?
安西 それはスポーツ報知の記者が読売ジャイアンツを応援するように、東京中日スポーツの記者が中日ドラゴンズを応援するように……(笑)。
――ホイス大応援だったわけですね(笑)。
安西 ホイスをメチャクチャ応援してましたよ。あの試合の前にさ、ホイスが「時間無制限じゃないと試合をやらない」とかワガママ言ってるなんて話になってたよね。
――ホイスは完全にヒール扱いでしたよね。
安西 そうやって煽ることでPRIDEにお客さんが入ったんならいいんだけど。ホイスをヒール扱いするのは「おかしい!!」とボクは何度も言ってたんだよ。だって、ホイスは最初から時間無制限じゃないとやらないと言ってるわけでしょ。テレビの都合とかさ、自分たちのルールでやろうとしないとワガママとか、何を言ってるんだって話で。細かいことを言うと、ホイスが出た第1回UFCのトーナメントはラウンド制だったんだけどね。どの試合も1ラウンドの短い時間で終わっちゃったから、ラウンドガールの出番はなかったんだけど。
――安西さんはPRIDEにおけるホイスの扱いに憤ってたわけですね。
安西 あのときはもの凄く心外だったよねぇ。PRIDEからパンフレットの原稿を頼まれてさ、各選手1ページで俺はホイスの原稿。もう泣きながら書きましたよ!
――くやしくて、くやしくて!(笑)。
安西 うん。
――さすが“アンザイ・グレイシー”と呼ばれてるだけあって、気分はグレイシー一族そのもの(笑)。
安西 ボクの心臓にはね、ブラジル国旗が入れ墨されてますよ。
――ハハハハハ! そんな安西さんはホイスと一緒に“グレイシートレイン”で入場するなんて噂もありましたよね?
安西 あー、あれは違う! ぜんぜん違うよ〜!!
――あ、ガセでしたか(笑)。
安西 それはね、大晦日の曙vsホイスのときに谷川(貞治)くんから「安西さん、ホイスと一緒に入場させてあげるから来なよ〜」って誘われたんだけど。
――なんだか凄く適当な計画っぽいですけど(笑)。
安西 俺はそんなにうまくいくはずがないと思ったんだよ。だって俺は柔術もやっていなし、一族の人間でもなんでもないんだよ。
――まあ、なんの関係もないですね(笑)。
安西 ホイスだけじゃなくて周囲の人間の確認だって必要なんだからさ。「行ってもいいけど、ちゃんと話を通しておいてくれ」って散々しつこく谷川くんの留守録に入れてたんだけど。ろくに聞いてなくて根回ししてなかった。
――安西さんのグレイシートレインは幻に終わったわけですね。グレイシートレインに加わってみたかったですか?
安西 いやあ……。それだったらあのトレインを横から見ていたり、取材したほうがいいですよね。取材していてグレイシーは面白い存在だったから。
――安西さんは90年代初期の『格通』でグレイシー柔術を取り上げる以前は、『週プロ』でUWFを追いかけていたじゃないですか。プロレスが総合格闘技とリンクしていく流れの中でグレイシーに惹かれていったところもあるんですか?
安西 ……そんなことは考えたこともなかった(笑)。ボクはね、『週刊プロレス』にいて、いろいろな事情があって『格闘技通信』に移ることになって。当時は35歳くらいだったんだけど、長年プロレスを見てると冷める時期があるというか、人生にだって冷める時期があって。ちょうどそういう時期で、それは誰にだってあるじゃんってことにしておいてほしいんだけどさ。『格通』でもUWFは取材対象になっていたから、ボクのプロレス心は少しは癒やされていたんだけど。やっぱりプロレスが恋しくて。
――“プロレス記者”としてありたかったんですね。
安西 なかなか気持ちが吹っ切れないで、悶々としてたというか鬱々としてたんですよ。そうやってボクがやる気をなくしていて困ったちゃん状態のときに、当時『格通』の谷川編集長が「こんな大会がありますよ」ということでデンバーに出張させてくれたんです。
――その大会が伝説の第1回UFCだったわけですね。
安西 そう。『週刊プロレス』からはケイジ中山さんが来てたけど、ボクは『格通』でカメラも兼任してた。当時はUFCというものがよくわかってなかった。ただ、小説家の夢枕獏さんや一部の格闘技マニアはグレイシー柔術を「グラッシェ柔術」だったかなあ。ちょっと違う呼び方をして注目はしていたんだよ。
――獏さんや漫画家の板垣恵介さんたちのグループですよね。バーリトゥードを「バーリツーズ」と呼んでいて。
安西 夢枕獏さんたちから「そういうものがブラジルにあるらしい」と谷川編集長は聞いていて。あと『ゴング格闘技』で渋沢くんがグレイシー柔術の記事を書いてたんだよね。白黒の特集記事。それに興味は持っていたんだけど、予備知識はほぼゼロ。そんな状態でデンバーに行ってみたら、いまは亡きエリオさんがいて、長男のホリオンがいた。トーナメントはご存知のとおりホイスが優勝したんだけど、そのときはなぜこの人がシャムロックやゴルドーに勝てるのか意味がわからなかったんですよ。結果的にスルスルと勝っちゃった。谷川編集長から「どうでしたか?」と電話があったときにボクはなんて説明したらいいかわからなかったんだけど。
――グレイシーの凄さを言語化できなかった。
安西 「凄いんだよ。ガチンコで勝っちゃったんだよ。テレビゲームの世界のように」としか言えない。いま振り返れば、ホイスはごくあたりまえの動きしかしていないんですけど。で、ボクには弟がいるんだけど。その弟がね、ロサンゼルスの日系企業で働いているから帰り際に寄って。それはホリオンの道場がロスにあったからなんだけど。そうしたら弟の家から車で10分程度の距離にあって。弟は日本で空手をやっていたり、プロレスファンだったので、ちょうどいい通訳になってくれて。そのときホイスは旅行中で不在だったんだけど、エリオさんやホリオンにいろいろと話を聞けたんだよ。
――そうやって『格通』でグレイシー柔術の紹介記事を書くことができたんですね。
安西 そのとき道場の練習を見たんだけど、柔道のように投げてどうこうという練習はしていないんですよ。みんな道着を着て芋虫みたいにゴロゴロと寝っ転がって。道着のシューティング(修斗)のようにも見えるんだけど、当時は何がなんだかわからなかったんだよ、ホントに。「面白かったんですか?」と聞かれたら「何が面白いかわからなかった」としか言えない。
――いまなら普通に知ってることがわからなかった、と。
安西 たとえば第4回UFCでホイスとダン・スバーンが試合をして、下になったホイスが金網に追い詰められたけど、最後は三角絞めで極めた。試合後にホリオンに「下になったら不利じゃないか。ピンチだと思わなかったのか?」って聞いたんですよね。そうしたらホリオンは目を丸くしちゃって(笑)。「……そこから説明しないといけないのか?」という感じだったんですね。
――あの当時、UFCのような格闘技イベントがガチンコで行なわれると思いましたか? 猪木さんから始まる異種格闘技戦の流れからすれば、理想の舞台だったわけじゃないですか。
安西 ……どう思ってたんだろ。記憶にないなあ。ガチンコであるかどうかの前に、当時の日本では他流試合をやっちゃいけないもんだと思っていたから。柔道家と空手家が町中で喧嘩をしたら破門になったんだろうし。それが当時の日本の考えで他流試合は夢のような話だったわけでしょ。それにボクはまだプロレス記者上がりだったから、格闘技を見る目が肥えてなかったというか、場数を踏んでなかった。格闘技の記者として修羅場を潜ってなかったから、UFCを見ても、そんなたいそうな思いはなかった(笑)。
――「歴史的な大会が始まる!」という興奮もなく。
安西 格闘技記者としては毛が生えたというか、毛が生える前の状態だったから、なんと表現していいかわからなかった。会場にはお客さんは全然いなかったしさ、大会自体が続くかどうかわからなかったよね。ボクはそのときにホイスが勝った事実と、彼らの道場を取材してみて、グレイシー柔術が他流試合におけるセルフディフェンスを証明するために長年いろいろとやってきたことがわかったので興味は持てたけども。それがアメリカの格闘家や、ましてや日本のプロレスファン、UWFファンが「面白い!」と評価するのかわからなかった。それでもボクは必死に月2回発行の『格通』でグレイシー記事を書いていたけど、はたして世間に届くかは全然わからなかったです。
――UFCもグレイシーもまたたく間に広がりましたね。
安西 ボクが感激したのは、地球の裏側のブラジルで、日本人がまったく知らないあいだに道着という日本文化が違ったかたちで根付いていた。日本文化を守って磨いていてくれたことに感動したわけですよ。その存在は日本に伝えたいなという思いはあったけど。グレイシーなんて大したことないとバッシングされたりさ。
――格闘技マスコミの中にはグレイシー柔術に否定的なところもありましたね。
安西 それは空手や正統派の武道の流れがあったからだと思うんだけど。グレイシーは邪道に見えたのかもしれないですね。当時は空手なら空手を極めるのが日本人の美徳であって、武道はそれぞれの道だったわけでしょ。ほかの武道が交わることはなかったんですよ。でも、交わって相手に勝ってこそ武道じゃないかという概念が出てきて。その場を提供してくれたのがUFCだったから、ボクは俄然面白かったですよね。あと骨法の堀辺(正史)先生が「黒船が来た!」ってことで理屈でサポートしてくれたから。
――グレイシーは『格通』の看板記事になっていったんですね。
安西 谷川編集長も面白いと思っていたから、ボクの好きにやらせてくれたんだと思う。あるとき弟がホイスを取材したとき「グレイシー柔術のためなら死ねる」と言ったんだけど、ボクはその言葉にピンとこなかったというか、大きな意味があるとは思わなかったんだけど。とくに見出しにしたい言葉がなかったから、見出しにしたら堀辺師範が凄く気に入ってくれたみたいで。「これぞ武道家のあるべき姿だ!」みたいに。
――『格通』発のグレイシーの言葉って凄く力がありましたよね。ホイスの「兄のヒクソンは俺の10倍強い」が有名ですけど。
安西 あれは『ブラックベルト』という格闘技雑誌の中に、ヒクソンはホイスとホイラーと2対1でスパーしても負けないんだという話があって。そこに「ヒクソンは10倍強い」と書いてあったよと言うので、ボクはそのインタビューの最後にあとがきとして付け足したんです。
――ハッタリも効いたうえに、実際に強かったんだから取材対象として面白いですよね。
安西 アメリカだと、日本から来た柔道ならともかく「ブラジルから来たブラジリアン柔術ってなんじゃらほい?」ってなるから、宣伝するため道場で他流試合を受けていたみたいなんだよね。そうやってグレイシーは柔術を広めたるために努力をしていたんだなって。そしてUFCというビッグチャンスを掴んだんだけど。
――外から見ていると、安西さんはUWFに見切りをつけてグレイシーに走った印象があったんですよね。
安西 ボクが? そんなことないよ(苦笑)。あー…………でも、ある人と酒の席で話をしていたら「安西さんはプロレスを捨てて格闘技に行ったと思ったんだけど、根っこの部分はプロレスが残ってるんですね」なんて言われたんだけどさ。ボクはビックリしちゃって。やっぱりそんなふうに思われてるんだ。
――と思います(笑)。
安西 うーん、グレイシーが取材対象として探れば探れるほど面白かっただけですよ。だって一族が何人いるかもわからなかったしさ。当時は家系図もなかったから、俺が嫌がられながらもしつこく聞いて回って作ったんだよ(笑)。
――嫌がられながら(笑)。
安西 そりゃあ嫌がられますよ。
――まあ、一族同士、仲はそんなに良くないですからね。
安西 こっちはそんな事情は知らないからさ。べつにUWFに見切りをつけたというより、グレイシーは底なし沼のように面白かったから。いまにして思えばUWFやゴッチ式、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはレスリングがもとになってるから。上になることは長けていても、下になったなら終わりなんですよ。下から攻めるとか、下から攻められたらどう防御するっていう考えがないので。しかもUWFは寝技の打撃がないでしょ。顔面パンチもない。それだとパウンドありのルールになったら通用しないですよね。その2点は大きいと思ったなあ。あとね、ボクが見てたプロレスのスパーリングって新日本やUWFもそうなんだけど、実力が拮抗してる者同士がやるんじゃなく、強い人と新人クラス、明らかに実力差がある者同士しかやらなかった。
――実力が拮抗してる者同士のスパーは、新人同士以外はやらないわけですよね。
安西 それがほら、イジメてるわけではないけど、シゴキみたいになって、新人は先輩の実験台になりながらおぼえていったわけでしょ。正道会館勢がリングスに参戦したときに彼らに言われたんだけど、「ウチらは練習仲間とはいえ、いつか試合をするときもある。手の内を読まれるのは嫌だけども、練習のときからガンガンやりあいます」と。ところがプロレスの団体の練習はそうじゃない。
――腕を競い合う感じではなかった、と。
安西 道場で格下相手に一本を取られたりするのが嫌だったから、先輩は後輩とはやらなかったんだろうけど。あるときからUインターでは桜庭選手、高山選手、金原選手たちが先輩後輩関係なしにやるようになって強くなっていったと思うのね。Uインターはそこから勢いがついたんだと思うんだけど。でも、本当は上の人間だって教わりたかったと思うんですよね、コーチとかがいたら。
――Uインターとグレイシーといえば、安生さんのヒクソン道場破りの件ですけど、安西さんは現地取材されたんですか?
★記事の続きと村上和成、冬木弘道、内藤のび太、ノブ・ハヤシ、多重ロマンチックのインタビューが合わせて7本7万字が読める詰め合わせセットはコチラ
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