阿修羅・原、冬木弘道の壮絶な生き様を語ったコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景弘の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「ジャンボ鶴田」!! つい先日、米国プロレス殿堂入りが決定した故・鶴田さん。日本人レスラーとしては力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に続く4人目。あのブロディ、ハンセンは一目を置いてたというジャンボ鶴田というレスラーがいかに規格外な存在だったのか? イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」ジャンボ鶴田編つきでお届けします。オー!!
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【阿修羅・原】北海道の寿司屋に身を潜める阿修羅のもとに天龍が訪れた……
【理不尽大王】冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…
山本宜久17000字ロングインタビュー、地下格闘技インタビュー、他コラムが掲載!!
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――高倉健に菅原文太。昭和の名優が次々とお亡くなりになってますが、昭和のプロレスラーもいいお歳な方が多いだけに心配になっちゃいますねぇ。
小佐野 猪木さんは今年71歳でしょ。マサ(斎藤)さんや坂口(征二)さんは72歳。
――猪木さんは一時期体調が本当に悪かったという話もありましたけど。
小佐野 糖尿病で大変なのに平気でお酒を飲んでるという話ですからね(笑)。でも、プロレスラーで70歳を超えたら長生きも長生きですよ。
――外国人レスラーだとステロイド使用の影響なんかで40代でなくなっちゃう方が多いですし。
小佐野 昔のレスラーはそういうものには手を出さないけど、節制という考えがなかったじゃない。食って飲んで身体を大きくして、それで内臓を悪くしちゃうから。いずれにせよそんなに長生きできない職業なのかもしれないねぇ。
――本日のテーマであるジャンボ鶴田さんも49歳で亡くなってますね。
小佐野 鶴田さんの死は早すぎましたよね……。鶴田さんは98年まではスポット参戦ながら現役をやっていた。フルタイムでリングに上がっていたのは92年の世界最強タッグ前まで。B型肝炎を発症させたことで長期入院するようになってね。
――92年の冬というと、超世代軍との抗争は2年もやってなかったんですね。90年代中盤まで大暴れてしていた印象があったんですけど。
小佐野 それだけインパクトがあったんだろうね。天龍革命は87年からで3年もやってない。三沢(光晴)とも3年やってない。2年ちょいくらい。両方合わせて5年なんですよ、鶴田さんが“怪物”と言われれていた時代は。
――それだけ濃密な5年だったんですねぇ。
小佐野 92年の夏のシリーズも左足首の怪我を理由に休んでたけど、じつは肝炎の治療をしててね。肝炎のキャリアであることがわかったのは85年。それはマスコミは誰も知らなかった。それでもバリバリのトップだったし、長州力と60分フルタイムドローをやってわけだからね。
――控室でクタクタの長州さんを尻目に、鶴田さんは「おつかれ!」ってさっそうと引き上げてたんですよね(笑)。
小佐野 それで鶴龍時代、怪物時代を築いたわけだからねぇ。本当に凄いですよ。
――リング外の鶴田さんはどんな人柄だったんですか?
小佐野 鶴田さんは優しい人でしたよね。昔のプロレスラーは近寄りがたかったり、独特の怖い雰囲気があったけど、鶴田さんは非常に話しやすい感じで普通の若者っぽさはありました。取材で覚えてるのは、『ゴング』が週刊になったのは84年4月、その7月の頭に鶴田さんが電撃的に婚約を発表して。その婚約の記事を書きたいということで、巡業中のホテルの部屋で鶴田さんのラブストーリーを朝方まで聞きましたね(笑)。
――朝までそんな取材を(笑)。
小佐野 当時日本テレビのアナウンサーだった倉持隆夫さんが鶴田さんのデートに付き合ったことがあって。そのときに撮った鶴田さんと奥さんの写真を借りて誌面構成したんですよね。
――どんな馴れ初めだったんですか?
小佐野 奥さんとなる保子さんは神戸の女子大時代に友達と一緒に鶴田さんの試合を見に来てて。その友達が鶴田さんのファンでファンレターを書いてきたんだけど、保子さんも一緒に書いてきたんです。で、ジャンボは保子さんのことを気に入って、ファンレターに電話番号が書いてあったから連絡をして、神戸の喫茶店で合うことになったんですけど。保子さんはお姉さんと一緒に現れたんですよね(笑)。
――ガードは厳しかったんですね(笑)。
小佐野 そんなきっかけで遠距離恋愛が始まって。鶴田さんは保子さんが大学を卒業したら結婚しようと考えていたんだけど、保子さんは「スチュワーデス(キャビンアテンダント)になりたい」と。それで鶴田さんは失恋しちゃってね。そのショックで保子さんからもらった手紙や写真なんかを全部燃やしたそうですけど(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 それから保子さんはスチュワーデスになって3年ほど経ったんですけど。馬場さん夫妻がハワイから帰国した便のスチュワーデスが保子さんで。保子さんはそのときの馬場さん夫妻の様子を見て「プロレスラーの奥さんも悪くはないな……」と思ったそうなんです。
――へえー! ヨリが戻ったきっかけは馬場さん夫妻。
小佐野 それで保子さんのお母さんが鶴田さんに「まだ独身なんですか?」って電話したのかな。2人が付き合ってた頃は家族公認の仲。保子さんはスチュワーデスになるために大学時代に海外留学していたんだけど、そのとき鶴田さんは保子さんの実家に電話をかけて近況を聞いてたみたいなので、お母さんとも仲は良かったんですよね。そこから保子さんと何年かぶりに再会してとんとん拍子に結婚の話が進んだんです。
――鶴田さんといえば「プロレスに就職します」という全日本入団時の発言が、その後も姿勢として貫かれていた印象が強いですね。
小佐野 たぶんプロレスラーっぽさを感じさせたくなかったんでしょうね。リングを降りれば普通の人という意識が強かったし、基本的には「熱くなったら負け」というスタンスが鶴田さんにはあったから。そこは性格というかプライドだと思う。「ここで俺がカッとなったら天龍と同じ位置に立ってしまう」と。だから凄い試合をしたあとに鶴田さんが冷めたコメントを残して天龍さんがガッカリするといういつものパターン(笑)。「あんな熱い試合をしてるのになんでそんな冷めたこと言うの?」ってね。
――本気にならない鶴田さんにマスコミとしても物足りなさは感じていたんですか?
小佐野 いや、そこで「あえて本気を出さないジャンボ鶴田」という焦点も生まれるから。そうなると「天龍がどこまでジャンボを本気にさせられるか?」となってくる。チラリチラリと本気のジャンボ鶴田が見えたらそれはそれで面白いわけで。
――鶴田さんは天龍さん、長州さん、藤波さんら同世代のレスラーとくらべて野望があまり見えませんでしたよね。藤波さんがしょっちゅう呼びかけていた対抗戦プランにもリアクションはなくて。
小佐野 まったく興味がなかった(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 鶴田さんからすると「何の意味があるんだ?」って感じでしょう。会社の方針としてならやるけど、「実際に戦えないでしょ?」ってことだから。テレビ局の問題だってあるし、しょせんは売名行為として捉えてたんでしょうね。
――本気ならば交渉へと動くはずだから、そこで藤波さんの魂胆が見えたんでしょうね。
小佐野 それに普通にやれば自分が一番凄いことはわかっていたから、興味が沸かなかったんでしょうね。
――そこまでプロレスに自信がありましたか。
小佐野 だってデビューから実質リタイアするまでの92年まで、ずっとトップだったんですよね。最初からあそこまでできたプロレスラーって知らないですよ。
――たしかに……馬場さんは最初から鶴田さんをエース候補として考えていたんですよね。
小佐野 やっぱり身体が大きいし、レスリングはオリンピック日本代表。そのうえでバスケットボールをやっていたことから、あの巨体で飛び跳ねられるバネがある。文句なくエース候補として、馬場さんは当時のレスリング協会会長だった八田一朗さんを口説いたんです。たしかね、鶴田さんが出場したミュンヘン五輪の強化合宿のときから接触していたのかなあ。全日本プロレスが旗揚げする前、馬場さんが日本プロレスからの独立を決めた段階で調査してましたね。
――そんなに早くから目をつけてたんですね。
小佐野 だって当時の全日本には馬場さんの付き人を務めていたマシオ駒さん、大熊(元司)さん、サムソン・クツワダさん、佐藤昭雄さんくらいしか日本人選手がいなかったんですから。そうなると馬場さんは、自分のパートーナーを務められる大きな選手が必要だという考えにはなりますよね。たしか新日本プロレスも鶴田さんには接触していたし、日プロも当たっていたそうですから。
――3団体競合の大型ルーキー!
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<後編>全日社長の座が消えたジャンボ鶴田は怪物となった■小佐野景浩のプロレス歴史発見