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天秤打法さん のコメント

野球経験者で野球部を題材にした本を執筆した方にしては的外れかと
まあ甲子園を夏だけで語ってる時点で(春の選抜についてはどこ行っちゃったのか)お察しですが

甲子園は年に春夏2回あるとはいえ大きな大会なので「祭り」の要素がないとは言えないのでそこは認めます
現に私も夏の地区予選が始まると浮かれてきますしね

でもさすがにピッチャーが生贄として犠牲になるのが見たいと思って見ているファンなんていないです
仮にいたとしても圧倒的少数でしょう
むしろそう思う人間は本文中にもある通り「炎天下の中ピッチャーを酷使する高校野球はひどい」と高校野球批判をして甲子園なんか見ないんじゃないですか?

で、じゃあ高校野球の人気って何?って本題ですが、それは一言で言えば代理戦争
戦国時代のように日本「全国」の代表校が故郷(おくに)に日本一の称号と真紅の大優勝旗(春は紫紺だけど)を持ち帰るスポーツの姿をした戦争なわけです
これは強豪校が全国から選手を集めると「外人部隊」だの何だのと批判されたりすることを考えると、みんな「地元」に拘っていることは明白でしょう

でもそうなるのは夏の甲子園だけで春の選抜はそういう盛り上がり方はちょっと弱い
何故なら春は出場校が限定されているから各都道府県から全ての代表校が出場出来ないため
基本32校(記念大会は36校)までしか出られないし、同一の府県から複数校が選ばれることもあるので春は夏ほど興味のない人もいます(自分の出身地や地元の学校が出ていなければ尚更)

逆に夏の大会は全ての都道府県から代表校が出るため誰が見ても名実ともに日本一だとわかりやすいから人気がある
予選のシードはあっても全ての学校が地区予選から勝ち抜かなければならないので「甲子園優勝=夏の公式戦無敗」という単純明快さは日本一を名乗るに相応しい成績です

また、高校野球にはお金が絡まない
昨今では商業化だなんだと言われることも多いですが、少なくとも選手たちはお金をもらうためにプレーしているわけではない
そしてリーグ戦ではなく一発勝負のトーナメントなので常に崖っぷちであり手を抜いたプレーはできない
「お金に無関心且つ常に全力」という価値観は日本人の大好物
言うなれば「清貧」という日本人が美徳としてきた価値観に準じている

ではサッカー人気に押された理由は何か?
これも「地元の応援」を出来る環境が野球よりもサッカーの方が大きいから
短期間でしか開催されない高校野球と12球団しかないプロ野球に比べてサッカーはJFLまで入れると圧倒的に「地元のチーム」が多い
そして年間試合数が野球よりも遥かに少なく一戦一戦の勝敗の勝ちが重い
これはプロサッカーがリーグ戦と言えどもプロ野球より常に全力プレーをしなければならない環境に近いということになる
ましてやシーズン毎に入れ替え戦による下部リーグ落ち・上位リーグ入りがあればファンの応援には一層熱が入る
そこに日本代表がW杯の常連になってきたのだからサッカーファンは増える
企業臭の抜けないプロ野球と地元を味方に付けたプロサッカー、どちらにファンが集まったかはデータが示す通り
それはそのまま野球人気とサッカー人気の差に直結したから結果として高校野球にも波及したにすぎない

毎日新聞の元記事を読んだ上なのでサッカーのことまで長々と書いてしまったけど、炎上云々の前にそもそもスポーツファンの心理がわかってないのでないですか?
元記事には斉藤や松坂の名前も挙げてましたけどスター選手なんて二の次なんですよ
スター選手は一過性のものであって本質はもっと根源的な「ファンとなって応援する気になるかどうか」です
アリストテレスもいいですけど、もう少し周りの方とコミュニケーションを取って一般人の心理を学んでみてはどうですか?

正直本文を読んだ限りこの人はスポーツがあんまり好きじゃないんじゃないかなと思ってしまいますよ
No.13
81ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
毎日新聞からインタビューの依頼があった。 今、甲子園人気が再燃していて、その理由を考察してほしいとのことだった。 そこで、それに答えた。 ところが、その発言が、言葉を抽出されたあげく曲解され、おかげでぼくが炎上してしまった。 この記事だ。 <甲子園>古き良き時代の天然記念物? 高校野球の人気復活 - 毎日新聞 そこで、その誤解を解くために、ぼくがどういうことを話したかを以下に書く。 本当はもっと長く、違うことも話していたのだが、ここでは主に炎上した部分についてのみ書いた。 毎日新聞の質問は、「なぜ今、甲子園人気が再燃しているか?」というものだった。 それに対して、ぼくは以下のように答えた。 高校野球の人気の秘密は、その「祭り性」にある。 祭りにおいては、古来より「犠牲」が重要な役割を担ってきた。例えば、牛や羊を犠牲にする場合もあれば、人間自身が犠牲になる場合もあった。古代ローマの剣闘士も、祭りの重要な「犠牲」だった。現代では、闘牛が典型的な犠牲だろう。あるいは、裸で神輿を担ぐという日本の祭りも、きつい思いをしているところを衆目にさらすという意味で、一種の犠牲だといえる。 では、なぜ祭りに犠牲が必要かといえば、それは犠牲を見た人々が「生きていることや生命のありがたさを実感できるから」だ。そして、心の安らかさを得られるのだ。あるいは、犠牲になった人や動物を見ると、生きる気力が湧いてくるということもある。 これを、アリストテレスは「カタルシス」といった。人は、誰か(何か)が犠牲になっているのを見て、自分が生きていることを実感できるという心理構造になっている。そして祭りは、その構造を使って人々を元気にするという社会的な役割がある。 翻って、甲子園は炎天下のもと、衆目を集める中でピッチャーが、体力的にも心理的にも酷使される。これは、祭りの構造とそっくりだ。高校野球においては、ピッチャーが祭りにおける犠牲の役割を担っているのである。それが人気の本質的な理由なのだ。 そもそも、日本の「夏」は祭りと相性がいい。日本の祭りのほとんどは夏に行われる。その上、野球は空間的にも機能的にもピッチャーに注目が集まるような構造になっている。これは、サッカーをはじめとする他のスポーツとは全然違う。野球以外に、これほど一人の人物にスポットが当たるような構造のスポーツはなかなか見当たらない。バッター以上にピッチャーに注目が集まるという構造は、1対1のスポーツとさえ全く違う。 その意味でも、甲子園におけるピッチャーの「祭りの犠牲役」としての役割はますます強まる。それゆえ、高校野球の「祭り性」はより一層強固なものとなっているのだ。 ところで、祭りというのはそもそも心が弱った人たちを元気づけるために行われる。 もし今、甲子園人気が再燃してきたのだとしたら、それは多くの人の心が弱っているからではないだろうか。多くの人が元気を失っているから、そういう人たちが心を元気にするために、「祭り」としての甲子園を必要とするようになったからではないだろうか。ぼくは、そのように推察した。 ただ、こう聞くと甲子園のことを「ひどい」と思う人もいるかもしれないが、人間の中には、自らが犠牲になって人々を元気にすることに、生きる喜びや社会における役割を見出すという気持ちもある。それに喜びを覚えることもあるのだ。 その意味では、win-winの構造にもなっているので、一概に悪と決めつけることはできない。 以上が、ぼくが述べたことである。 この話は確かに少し「えぐい」ところもあり、また難しい話でもあるので、誤解される危険性は大きい。だから、本来は新聞の短い字数で紹介できることではなかったのだ。ぼくは20分以上話したのだけれど、あれだけの字数にまとめられてしまっては、誤解は避けられない。その意味で、あの話は書くべきではなかったと思う。あるいは、ぼく自身も言わなければ良かったが、しかし本当に思っていることなので、正直に話してしまったのだ。 ぼくとしては、上の記事が炎上し、誤解を受けたままではとてもつらい。今は夜中の2時半だが、おかげで眠れなくなった。だから、釈明の記事を書きました。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。