ぼくは幼い頃から映画が好きで、映画館、テレビ、ビデオ、ネットなどでたくさんの作品を見てきた。特に高校、大学の時分(1980年代後半)に、「ぴあ」を片手に関東の名画座を巡って、古今の名画を渉猟するように鑑賞を重ねてきた。
そうするうちに、将来の職業として映画監督を志すようになった。そこから、どうやって映画監督になったらいいのかを暗中模索し、東京芸術大学に進んで美や建築(空間)の勉強をしたり、秋元康さんの弟子になってエンターテインメントを学んだりした。
しかしその中で、主に次の理由から映画監督になることを断念した。
それは、当時(20代)の自分にはコミュニケーション能力が著しく欠けていたということ、そのため「映画監督」という大勢をまとめ上げるマネジメント力を必要とされる職業に就くにはそもそも無理があった、それで現実問題として諦めざるを得なかったのである。
また、そこにはもう一つの問題もあった。それは、ぼく自身、自分が面白いと思うものを他者にプレゼンテーションするのが下手――ということだ。
ぼくが面白いと考える作品は、企画書などで「これが面白くなる!」と説明しにくかった。なぜならぼくは、そういうものでは説明しきれないところに映画の本当の面白さが存在すると考えていたからだ。言葉ではなかなか表現しきれないような雰囲気とかニュアンスといったものの中にこそ映画の神髄が宿ると直感していた。
だから、ぼくが面白いと思う映画を表現するためには、実際にプロトタイプを作る必要があったのだが、それがそもそも現実的ではなかった。おかげで、映画を作るというのは夢のまた夢――単なる憧れに過ぎなかった。
そのためぼくは、夢を方向転換し、たった一人でも作品を完成形まで持っていける「作家」を志した。これだったらプレゼンテーションの必要がなかったからだ。そうして、映画監督になりたいという気持ちは意識の下に押し込め、これまで生きてきたのである。
しかしながら、どうした運命のいたずらか、映画を作るチャンスが巡ってきた。
それは、一つには書いた作品がヒットして、社会的な信用と、いくばくかのお金を手に入れられたこと。二つには、撮影機材が進化して、それほどのお金をかけなくとも作品を作れるようになったこと。さらに、インターネットが進化して、YouTubeというサービスを使えば誰でも作品を発表できるようになったこと。主にこの三つの理由によって、突然ぼくの目の前には「映画を作る」という選択肢が降って湧いてきたのである。
ただしぼくには、もちろん「映画を作らない」という選択肢もあった。なぜなら、ぼくはこれまで作家として生きてきたので、今さら映画を作るとなると、「なぜそんなことをするのか?」と周りから奇異な目で見られ、信用を失する危険性がまずあった。また、映画を作り始めるには年齢的に遅すぎるということもあったので、みっともなく思われるということも危惧された。さらに、いくら環境が整ったとはいえ、実際に作るとなるとそれなりのお金と時間と労力を失うことは必至だった。
しかしながら、ぼくはその機会をみすみ見逃すことがどうしてもできなかった。そこで人間としての信用やお金や時間を大幅に失うことになったとしても、やらなかったことの後悔がこの先つきまとうと思ったからだ。それは、信用やお金や時間を失うことより遙かに苦痛だった。だから、意を決して映画制作に取り組むことを決めたのである。
ぼくが映画作りを決意したのは、そこで中村智恵さんと早川茉莉子さんという二人の役者と出会えたことも大きかった。
二人はともにワタナベコメディスクールというお笑い養成所の生徒で、ぼくはそこの講師であった。
そこは、本来はお笑い芸人を育てるための学校なのだが、二人はお笑いというより演技に大きな素養があると感じた。そこで、学校を卒業したのを機に二人に「自主制作映画に出てくれないか」と依頼したところ、快諾を得ることができたので、それで映画作りがぐっと現実味を帯びてきた。
また、それに先立ってぼくが書いた『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』という本が映画化された。この映画はそれなりのヒットを記録したものの、必ずしもぼくが満足いくような出来ではなかった。
それは、ぼくがこの映画に『ゴッドファーザー』のようになってもらうことを望んでいたからだ。『ゴッドファーザー』のようになる――とは、その映画があまりにもすごすぎて、原作があったことを皆が忘れるような作品になる、ということだ。
『ゴッドファーザー』という映画は、映画史に残る傑作なので、今でも誰もが知っている。しかしながら、これに原作があることを知る人は少ない。それは映画を知っている人に比べてきわめて少数である。
ぼくは、映画『もしドラ』にもそういう作品になってほしかった。もちろん、スタッフやキャストのみなさんは全力を尽くしてこの映画を作ってくれたので、一定の成果をあげることはできた。また、ぼく自身この映画に脚本として参加したので、この映画の出来に対する責任の一端はぼくにもある。
しかしながら、この映画は『ゴッドファーザー』のようにはならなかった。それで、ぼくには非常な後悔が残ったのである。
そこでぼくには、「このままでは、ぼくという人間が考える『映画』というのは『もしドラ』のような作品となってしまう」という思いがあった。そうなってしまうと、そこでは少なからず忸怩たる思いを感じずにはいられなかった。なぜならそれは、事実とはいささか異なるからである。ぼくが考える映画とは、必ずしも映画『もしドラ』のような作品ではない。それは、もう少しニュアンスや世界観といったものを表現する映画だ。その中の人間の営みを表現する映画なのだ。
そこで、ぼくのそういう映画に対するスタンスを表現する意味でも、ぜひ映画を作りたいと思った。そしてそれを作った。
その映画を、今日の19時にYouTubeで公開する。ぼくはこの映画を多くの人に見てもらいたいと思っているが、中でも取り分け町山智浩さんに見てもらいたいと思っている。
なぜかといえば、町山智浩さんはぼくにとって因縁の相手だからだ。どう因縁の相手かといえば、映画『もしドラ』が公開されたとき、町山さんに酷評されたのだ。その映像と音声は今でもYouTubeに残っている。
町山さんはアメリカ在住なのだが、わざわざ日本にやってきて(このために来たのではないかもしれないが)劇場で見た上で酷評した。
そして残念なことに、ぼくは彼に反論したいところもないわけではないが、一部には彼の評価もまた正しいと思った。彼の言っていることにも一理あると思ったのだ。
そうして今、たまさか彼が脚本に携わった『進撃の巨人』という映画が公開され、それもまた多くの場所で酷評の憂き目に遭っている。だから彼も、今はかつてぼくが体験したような屈辱を味わっているかもしれない。すなわち、その酷評に反発したい気持ちはありつつも、それを認めざるを得ない――という情けない気持ちだ。
それで彼も知ったと思うが、「映画を作る」というのは本当に難しい。それは、「良い映画とは何か?」ということを十全に理解していたからといって、必ずしも良い映画が作れるわけではないからだ。そこにはさまざまな不確定要素が介入してくるため、たとえ万全の準備を整えたとしても、失敗するときは失敗してしまうのである。
映画作りというのは、そういう困難を極める作業である。そしてぼくは、それが分かっていながら今また挑戦した。それを今日、こうして世に問おうというのである。
今度の映画は、なにしろYouTubeに発表するのでアメリカにいても見ることができる。そして今度の映画は、今から予防線を張るわけではないが、もちろんたくさんの欠点がある。
それでもぼくは、この映画は自信を持って「面白いものができた」と言うことができる。ぼくは自分で、この映画を「面白い」と思った。だから、酷評されることも覚悟の上で、こうして発表しようとするのである。
町山智浩さん――もしよければこの映画を見てください。そして、酷評してももちろんけっこうですので、何らかの感想をいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。