いつもとちょっと違う水曜、今回は「短い記事」改め「気楽に書き始める記事[S]」です。
 「短くてもいいからいままでボツにしてたようなちょいネタでいこう」と[S]を始めたものの、かなりの確率でいつもと同じ長さになっています。予感はあったのですが……。
 でも書き始める時の心持ちは確実に違うのです。これからも[S]をよろしくお願いします。

 閑話休題。 

 ボーカロイドと「死」の境界線

という記事を読みました。ライブで踊る初音ミクは本当に実在しないと言えるのかというテーマです。

 このテーマに関して、私にとって大きな転機になったのは5年前、次のブログを読んだ時でした。

 GRAND THEFT AUTO IV - 人殺しが人死にに立ち会う

人を殺しまくるゲームの中で、でも普段死なないキャラを偶然に死に追いやることでショックを受けたという話です。
 ミシェルが死んだ。おれが殺した。しばらく考え、セーブせずそのまま電源を切った。おれはショックで二時間ほど夜中の市街をさまよった。部屋に戻って再起動すると、そこにはミシェルが居た。
 この出来事はおれの心に空洞として残った。日常的にゲーム内で人や人型のクリーチャーなどを撃ち殺しまくり、GTA においても悪党や警官やそれ以外を銃弾や車によって殺傷しているおれが、べつにそれほど重要とも思っていない NPC 一人を偶然に死に追いやってしまったことで、ショックを受けるというのが意外だった。
 ショックゆえに、現実の街の中を2時間さまよったとあり、これを読んだとき、この書き手にとってミシェルは生きていたんだと思い知らされました。

 この記事を読んで以来、幼い子供が自分のクマのぬいぐるみを生きていると思ったら、そのぬいぐるみは生きているんだと思うようになりました。 携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」の中にしかいないラブプラスの姉ヶ崎 寧々さんだって生きています。

 この生きている度は本気で、以前下記のエントリで書いた妄想では、

 筋肉ロボ「ケンシロウ」に文系ロボ、ロボ2発 
 「ラブプラス+好奇心」とかいって好奇心おう盛な嫁ができたら、ますますはまりそうです。「ディズニーシーに新しいアトラクションできたらしいよ、連れてけ!!」みたいな・・・。
 でもって、将来のノーベル賞受賞者は、「この偉大な発見のきっかけは?」とか聞かれたら、恥ずかしそうにスマホ出して、「いや、研究煮詰まっている時に、この嫁が誘い出してくれたディズニーシーで乗ったアトラクションの動きにヒントを得て・・・。こいつきっと私がおもしろがるって知ってたんだと思います」とかなるんでしょうか?? 
 こんな仮想キャラができたら、生きているどころかかなり現実にはみ出ています。

 結局、人にとって生きているかいないかなんて、その人の心の中の問題です。実際恋人と心の中に作られた恋人とは別人で、その二つがあまりにかけ離れてしまえば、つきあい続けることはできなくなるでしょう。
 たとえばアイドルという存在は、アイドル本人とはまったく別人です。アイドル本人が初音ミクになることで、不祥事も起こしませんから、むしろ初音ミクの方がアイドルとして適しているくらいです。
 「オリヒメ」という遠隔ロボットを使えば、人格を遠くに運ぶこともできるようになっています。

 でも、人間一人一人は実際に生きています。誰かの心の中に生きているのとは違う意味で生きているはずです。

 心の中の「生きてるもの」と人間一人一人とは何が違うか。それは