尾木直樹さんと原田曜平さんの対談が印象的です。
「やたらと気を遣う」若者は、誰が作ったか? 尾木ママに聞く「激変した若者の10年」 | さとり世代は日本を救うか? - 東洋経済オンライン
授業への関心・意欲・態度が通信簿で重視されるようになったことで、「勉強自体じゃなくて、どうやったら先生からよく思われるかっていうところへ関心が向く」ようになっている。大学生に「中学校時代、先生に反抗するのは当然だと思ってた人」、「反抗なんてすべきじゃないと思っている人」と聞くと、「反抗なんてすべきじゃない」という人が増えている。
友達同士でも、先生の目を意識した出し抜いた行動ができないギクシャクした関係になっている。
思春期の反抗期をまっとうに通り抜けられていない、とも言えます。友達にも本音をしゃべれない関係というのも、こういうところから出て来たと思うんです。前半部分はこのような内容でした。
実際大学生や大学院生など、若いみなさんは、自分の事を言いたくないから、人の話にも突っ込みません。歯がゆいものです。どうやら「自分には価値がない」と自己肯定感が低いため、何か言ってその反応によって、やっぱり「自分に価値がない」と再確認するのがいやなのでないかと思っています。
でも、それって「自分には価値がないはず」と思って話すからそうなってしまい、悪循環するのであって、ぼくはぼくでそのぼくはこんなことしてる、感じてると言えればいいはずです。そのくらいの自己肯定感が最低限必要なのです。
尾木ママの記事でも、「友達にも本音をしゃべれない関係」と同じ結論に達しています。それは先生への態度が評価されることで、友達との関係もギクシャクし、思春期の反抗期をまっとうに通り抜けられないから、と書かれています。
つまり、思春期の反抗期をまともに通らないことで、自己肯定感が低いかもしれないわけです。
が、もっと直接的な原因を考えられるのではないかと思います。
必要なのはまともな反抗期ではなく自律性ではないでしょうか。
反抗期とはつまり大人の言いなりから反発することで自律的な自我を形成するわけですが、自律性さえ育めれば、反抗期を通らずとも自己肯定感を得られるのではないかということです。
うちの子供はまだ小4、小1ですが、自律性については、既に印象的な場面に何度も遭遇しています。
たとえば地元の遊園地「みろくの里」に行った時です。空いてるのでほとんどの乗り物は並ばずに乗れます。すると、気に入った乗り物は、何度も何度も繰り返し乗ったりします。そこにはそんな子供で溢れていて、まあみんな走り回っています。都会であれば間違いなく親が周りに迷惑をかけないよう介入します。
しかし、そこで介入する親はいません。最初とても印象的だったのですが、子供がいくらやんちゃだろうが、どんなにやんちゃにしても限界があります。混んでない遊園地だと、どんなにやんちゃな子がいても、たかがしれていて、ほったらかしていても、ちゃんと秩序は保たれるのです。どうせ何度も乗るならずっと乗り物に座っていても同じはずですが、ちゃんと律儀に降りて出口から出て、入り口まで走っていって再び受け付けをこなします(笑
この瞬間彼らは自律的です。いろんな子供がいて、でもちゃんと子供なりに秩序を作り上げて行動しています。
うちの中で、兄弟が遊んでいるときもほとんどの場合、放っておくのが一番良くて、たとえけんかになっても介入は減らせれば減らすほどうまくいきます。
学校がテストの点だけでなく、授業への関心・意欲・態度も評価に入れるようになったのは、時代の流れとして不思議ではありません。共創の時代ですから、社会に他人との関わりは大切です。ペーパーテストの正解の数だけでなく、それが成績に関わってくるのは悪いことではありません。
しかし、それは主に大人との関わりが評価されます。今までのテスト形式同様、大人たちがものさしを持ち、そのものさしで測られるのです。大人のものさしで測る以上自律性はむしろ阻害します。
結局、子供たちに必要なのは、子供たちだけの時間です。たとえば、うちの子供たちは工作が好きです。なにやら作り上げれば、それを私たちが見たら、ほめたりコメントしたりすることも大事でしょう。でも、それ以外に、私たちが全てを見ることなく、子供たちだけで作っては壊しを繰り返していることも大切なのです。親という大人のものさしで測られることなく、自分たちで満足したり、不満に思ったりが必要なのです。
その繰り返しで