今日は京都に出張でした。普段は福山駅に車で向かえに来てもらっているのですが、今日は都合で自力で帰ることになり、ローカル線に乗りました。
接続が悪くてホームにひっそり止まっている電車に、自分でドアを開けて乗り、うたた寝しながら出発を待っていたのですが、もう22時近かったのに、出発間際までにはかなり中高生が乗ってきて(こんな遅くに帰るのか)と初めて知り、そこからは、スマホで、
秒速5センチメートル 山崎まさよし 「One more time, One more chance」
ヘビロテ中。
えと、アメリカに行ってた関係か、この曲はこの動画でしか知らないので、途中に出てくるローカル線の車中や駅の映像と強力に結びついていて、連想したのです。
そして、私は京都で幼少以外鉄道とは無縁で育ち、その動画で出てくる思春期の鉄道は体験した原風景ではありません。
けれど、夜遅いローカル鉄道の学生達を見た瞬間、その動画は日本の原風景として私の中に再生されて、それからずっとヘビロテ中です。福山駅からのローカル線は、もうその動画の中のローカル線(最後の小田急のとこじゃないですよ。途中の)そっくりなのです。
私にそんな思春期は全くないのに、秒速5センチメートルの動画を繰り返し見ていたことでそれは「こんな経験したかったなあ」という自分の原風景願望になり、今日、その風景を実際に見たことで、あたかも自分の過去にもあったかのようにその原風景を追認し、かくして福山市は私のふるさとになるのです。
グッドデザイン賞を得て飛ぶ鳥落とす勢いの「東北食べる通信」の高橋博之さんが、「ふるさとはひとつじゃなくてもいいと思うんですよね」とつぶやかれたことがあって、その通りだと思います。
私が中二病全開の頃、中二病の金字塔「僕の地球を守って」やってたので、おおいに影響されましたが、その中で主人公の小林輪が幼少で体験した原風景として、黄金色に揺れる一面の稲穂が出てきます。
おー、日本人の原風景だよね、でも、自分はその風景は体験したことはないし〜(稲を刈った後の田んぼでバットとボールでゴルフという原体験はあります!)とか思っていましたが、後に結婚後義父母の住む土地で、寸分違わずその風景を見ることになり、ほんとに涙出ました。まさにそんな風景を見たいと記憶を抱いて生まれた輪君が涙を流したのと同じように。
さらには、その後、まだ東京に住んでる頃、自分の子ども達に絶対この景色は見せておこうとがんばってドンピシャの時期に帰省して見せて、なんとなく親の役目を果たした気になりましたし、でもいまや福山市に越して毎年見られる日常の一つになったのですが。かくしてその景色も私のふるさとの一つです。あたかも、自分の息子の歳の頃に見たかのような。
30歳の頃いたアメリカもふるさと。東京もふるさとという言葉は見た目あわないけど大切なふるさと。
この間、また「AIBO」が取り上げられていました。
“寿命”近づくペット型ロボットは今 NHKニュース
生産も終了し、保守期間も終わり、寿命を向かえつつある AIBO。