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押井守・庵野秀明・こうの史代——アトム/ゴジラの命題の継承者たち 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(1)
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押井守・庵野秀明・こうの史代——アトム/ゴジラの命題の継承者たち 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(1)

2017-11-01 07:00
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    10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。第一回は『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』といった作品を参照しながら、〈政治〉と〈文学〉が断絶してしまった情況について考えます。(構成:斎藤 岬)
    ※その他の回はこちら。(第1回、第2回第3回第4回第5回

    なぜ今『母性のディストピア』を世に問うのか

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    ▲『母性のディストピア

    濱野 今日は『母性のディストピア』がなぜ今、このタイミングで出たのかをあらためて聞くところから始めたいと思います。それはもちろん本の中にも書かれていますが、今回、僕が対談相手に選ばれたのは、その聞き手役として最適だからではないかと思っています。
     僕の『アーキテクチャの生態系』と宇野さんの『ゼロ年代の想像力』は、ちょうど同じ2008年に出ているんですよね。でも、宇野さんと僕の批評家としての立場は本当に当時から全く違っていて、僕はこの本で扱われているようなサブカル批評にまったく興味がない。ずっと「アーキテクチャ」、つまりサブカルのようなコンテンツそれ自体より、それが消費される環境のほうに関心を払ってきた。だから本当はここにいる2人は「水と油」のような関係のはずなんだけど、だからこそこの10年、同じ日本社会を別の角度から観察しあうことができた、そんな関係でもある。

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    ▲『アーキテクチャの生態系』(濱野智史)、『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)

     そこで今日は、お互いデビューから約10年という文脈も含めて総括できればいいなと思っています。宇野さんがなぜこのタイミングでこういう本を書いて、そこから何を読み解くべきなのか、本書の中と外の話を両方していければと思います。

     ではまず本書の中についてから行きましょう。率直な僕の感想を言うと、まず「序にかえて」には完全に同意で、何も付け加えることがないですね。いま、この国の現実には、本当に語る価値のあるものは存在しない。日本、そして日本の批評言語は、完全に世界から取り残されている、これは完全に同意します。さらに宇野さんは、安倍晋三やSEALDsについて語るよりも、ナウシカやシャアについて語るほう有意義だとすら断言する。これはかなりの極言で、僕もハッとさせられたのですが、人によっては「宇野は現実逃避に走った」と思い込んで、その先を読まずに終わるかもしれないと想像してしまいました。この序文は宇野さん的にもかなり勇気がいる内容だったのではないですか。

    宇野 そう、間違いなく「序にかえて」だけ読んで、罵詈雑言を浴びせてくる人がいると思う。それも、匿名のTwitterでグチグチと他人の悪口を書くことや、実効性や具体的な成果を度外視して自分探し的な市民運動に「参加」することが現実へのコミットだと勘違いしている人たちから、間違いなく標的にされると思う。
     でも、それはまあ、言ってみれば僕の仕掛けた大きな罠で、続く「第1部」は要するにインターネットのアーキテクチャに支援されて現実を単純化する人たち――具体的には今挙げたような極右と極左の困った人たち――のやっていることこそが、実は言葉の最悪な意味での「文学」「サブカルチャー」にすぎないこと、そしてそれを戦後日本が延々と反復してきたことの分析からはじまる。つまり、この本を読まずに罵倒するであろう自称「政治的な人たち」を、戦後社会の病理として分析するところからはじまる。彼らの「読まない」「悪口をいうために読む」行為や、その結果出てくるであろう「オタクがアニメに現実逃避している」という批判こそが、僕の分析の正しさを証明するような構造になっている。

    濱野 まさに第6部のタイトルが「『政治と文学』の再設定」で、現実の日本社会への分析と提言に戻る。実際に宇野さんがそこで展開しているのは、再設定は無理だから、〈市場〉と〈ゲーム〉でいいじゃないか、ということですよね。もはや〈政治〉と〈文学〉がつながるなんて、いまは誰も思っていない。つまり〈市場〉と〈ゲーム〉の時代に適応した新しい主体を考えた方がいい。戦後のサブカルチャーの遺産を手がかりに日本からGoogleとは違う新しいモデルを出せたらいいよね、といった話に着地している。ここはあとでもっと詳しく話し合えればと思いますが。

    宇野 正確にはもう「日本から」でなくてもいいと思っていて、たとえば富野由悠季の遺伝子を受け継いだアジアやアフリカの作家や企業がそれをやる、でも全然構わないし、その方が夢があるとすら思っています。
     この国の人たちは、まだ〈政治〉と〈文学〉を接続して成熟した市民社会を形成することだけが唯一の道筋だと思い込んで行動している人が多すぎると思うんですよ。でも本当は〈政治〉と〈文学〉の問題自体が、既に〈市場〉と〈ゲーム〉に置き換わっていて、この変化があまりに急激なので全世界が戸惑っている。にもかかわらず、日本だけが2周半くらい遅れた議論をしている。
     その状況からどう現代に対応しようかと考えたときに、まずは西海岸に追いつこうと号令をかけるのは僕の仕事ではないと思うんですよ。まずはそれがないと始まらないのだけど、どちらかというと僕はかつての日本車がそうであったようにアメリカン・スタンダードを二次創作的にハックするほうに興味がある。だから戦後文化の奇形児としての日本の戦後アニメーションを総括して、そこで育まれた思想、美学、世界観から現代の「〈市場〉と〈ゲーム〉」の問題を考えたのが第6部と「結びにかえて」なんですよ。

    濱野 まさにそこが今回の宇野さんの著作の独自なポジションを形成していると思いました。日本人は結果的に、21世紀にも入って戦後も70年以上経つというのに、いわゆるマッカーサーに言われた「永遠の12歳」の幼稚さの状態に留まってしまっている、もちろん戦後、いかに「対米ケツ舐め外交」的状態から決別し、大人として自立したリベラル民主主義国家になろうとしてきた人々がいたか。そこにいかに膨大なロマンと、挫折と屈折の物語が折り重ねられてきたか。それは分かる。でも、その「政治と文学」を結びつける回路で人々を駆動しようとするのは、もはやどうしようもなく困難な現実がある。
     これは前から思っていたのですが、大学で「インターネット・メディア論」的なことを教える時に痛感するのは、インターネットって本当にアメリカの「表現の自由」という建国以来掲げてきた「正義の物語」――建国の父たちから受け継いだ理念――とあまりにも自然に結びついて生まれてきたアーキテクチャなんですよね。個人は誰もが表現する権利がある。何人もそれを奪ってはならない。そこにすっと、自然とインターネットやパーソナル・コンピューターといったものが出てくる下地があるわけですよ。
     でも、こういうハッカー文化的な背景を大学で話していても、なんだか本当に虚空に向けて話しているような気持ちになってくる。もう民度が低いとかどうとか、そういうレベルじゃないんですよね。そして僕は教室で「ポカーン」とする若者たちに向かって、もはや語るべき「政治と文学」の共通言語がないと感じる。ただ共通しているのは、みんなiPhoneかスマートフォンは持っているという現実だけ。だからもう最近は、「iPhoneはみんな持ってるよね、スティーブ・ジョブズって知ってる? 『1984』って知ってる?」とYouTubeを見せるところから授業を始めて、いかに西海岸的なものに自分たちの日常性が覆い尽くされているか……みたいな話をするんですが、正直自分としても厳しいんですよ。「こんなの中高レベルの基礎教養として抑えておいてくれよ!いったい中高の『情報』の授業は何を教えてるんだよ!」と怒りすら覚える。
     はっきりいってこんなことも知らずにただスマホでTwitterとLINEとソシャゲだけ使っている日本の(若者に限らないですが)現状を見ているとですね……僕はまさに「インターネットの奇形児」としての日本のゼロ年代のネットサービス群に可能性を見て、『アーキテクチャの生態系』を書いたのですが、最近はかなりゲンナリしているのが正直なところです。

    宇野 そうですね。かといってじゃあ、今の日本の社会のことなんて知らないよ、と言ってしまうのは無責任だし、なにより僕は感情的にちょっとそれは難しい。やっぱりね、僕は出自的に「自分はグローバルな市場のプレイヤー、つまり世界市民だから国民国家なんて旧いローカルな回路の問題なんてどうだっていい。日本がイヤなら出ていくだけなんで」なんて言えないですよ。だから第6部では現代の日本のことにもしっかり紙幅を割いています。
     今回の総選挙はいみじくもそれを体現してしまったような気がするけれど、日本の政治はこの30年間、時間が止まったままでいる。転向前の小沢一郎や小泉純一郎がプレイヤーだった頃と同じように、テレビポピュリズムによる55年体制との対決、あるいはその延命が主題になり続けている。平成の「改革」というのは要するに、この国をグローバル化と情報化に対応させるための改革というプロジェクトだったのだけど、それは完全に失敗して、今となっては保守にも革新にもほとんど改革勢力は残っていない。残っていた少数の勢力も小池百合子に騙されて彼女の自爆に巻き込まれ、ほとんど求心力を失ってしまったわけでしょう?
     この「平成」という改革の時代の決定的な敗北には当然のことだけれど、実に複雑な背景があってたくさんの要素が絡み合っている。ただ、僕はもっとも決定的だったのは情報環境というかメディアの問題だったと考えているわけです。実際に、平成の改革勢力は自分たちが武器に選んだテレビポピュリズムに振り回されて自滅していったわけだし、現在の二極化にはインターネットが絶大な悪影響をもたらしてしまっている。この現状に対する処方箋として、戦後サブカルチャーの「失われた可能性」の批判的発展を提案して、その延長線で「市場とゲーム」の時代の主体の問題に接続していく、という構成ですね。第6部以降が長いのはそこまで詰め込んだからで、それでもまだ書きたいことがあって連載中の『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』に続くという。

    押井守の「政治と文学」



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